残すは、たった42キロ

 響きわたる大歓声を振り返り。

「走りながらも鳥肌が立つぐらいうれしかったですね。ああ、こんなに応援してくれているんだ」

 ふと、喜びに浸りながら電光掲示板を見てみると、真後ろを走るシモン選手の姿が。「これは、声援じゃなくて悲鳴なのか」と、われに返り、ラスト200メートルを逃げるように走った。

「身体が動かなくなり、最後はロボットみたいに走りました」

2000年シドニー五輪での高橋尚子さん
2000年シドニー五輪での高橋尚子さん
【写真】取材中の高橋尚子さんや、感動のゴールシーン

 そして、ついにゴール。

 この瞬間、はてしない安堵感(あんどかん)と同時に高橋さんをとらえたのは、「このまま終わってしまうのか」という寂寥感(せきりょうかん)だった。スタート地点で考えていた言葉が脳裏によぎった。

残すは、たった42キロ

 これまでさんざん練習で走り続けてきた。

オリンピックのマラソンは、タンポポの綿毛のようにフワフワと42キロの旅に出る。そんな気持ちで走ろう。10か月かけて、監督、スタッフのみんなが支えてくれ、明日も頑張ろうって雰囲気で来られた。それが終わってしまうのか……」

 当時を振り返りながら話す高橋さんは、小出監督との思い出深いエピソードを話してくれた。

「レース終了後、私が宿泊している部屋のドアのすきまから、小出監督が手紙をこっそり渡してくれたんです。手紙には練習で1度たりとも手を抜くことなく、一生懸命やっている姿を見てきた。本当にお前は強くなったな”と書いてあって、忘れられないひと言になりました」

次世代へのバトン

 帰国後、国民栄誉賞を受賞。

監督、栄養士さん、支えてくださった人、全員にいただいた賞です

 そんな謙虚で丁寧な視線が生かされているのが、キャスター・解説者の仕事だ。

「彼らが背負ってきたもの、思いを代弁したいんです。『速い、強い』という一片だけでなく、その人を立体的に感じてほしい」

 解説も、そこを吹く風や彼らの息遣い、みなぎる緊張感までも共有してもらえるように心がけているという。

 もうすぐ「平成」が終わる。

私の青春は平成とともにありました。シドニー五輪をはじめ自分が飛躍でき、いろいろ学べた時代でした

 2020年には、そんな五輪が東京で開かれる。高橋さんは最後に力を込め、こう話してくれた。

「『2020年東京オリンピック』は子どもたちに見てほしい! “もしかしたらあの舞台に立てるかも”って、夢を現実に置き換えられる場が五輪。その瞬間を、たくさんの子どもたちに共有してほしいです」

 手の届かないドラマや映画なんかじゃない。実際に、その目で、その身体で、五輪を体感してほしい。

 平成を駆け抜けた彼女が抱く、次世代への思い。その熱さがひしひしと伝わってきた。

高橋尚子さん 撮影/坂本利幸
高橋尚子さん 撮影/坂本利幸
PROFILE
●たかはし・なおこ●'72年5月6日生まれ。岐阜県出身。女子マラソンで'98年バンコク・アジア大会金メダル。'00年シドニー五輪は日本の女子陸上選手として史上初の金メダルを獲得し、国民栄誉賞を受賞。'01年ベルリンでは女子で史上初めて2時間20分の壁を破る2時間19分46秒の世界最高記録(当時)を樹立。'08年に現役引退を表明。現在はスポーツキャスターとして活躍し、2020組織委員会アスリート委員会委員長、日本オリンピック委員会理事、日本陸連理事などを務めている。