このまま結婚生活を続けたら、命にかかわる

 京子さんがいくら「病気の原因はあなたにある」と訴えても、夫は「そのくらい大したことはない」の一点張り。夫は過去の言動について何も悪くないと思っているのでしょう。一方で、京子さん自身は今まで夫に苦しめられ、傷つけられ、悩まされ続けてきた結果、大きな病気にかかったという強い思いがありました。これは、長年にわたり積もり積もった苦痛がどれだけ大きかったのかを表しています。そこで筆者は「因果関係を強調するのはどうでしょうか?」と投げかけました。

「そしてこれ以上、旦那さんと一緒にいたら、病状がどうなるのかを伝えることが大事です」と筆者はアドバイスをしました。今後、京子さんの腫瘍が大きくなったり、良性から悪性に変わったりしたら大変です。それを踏まえた上で京子さんは夫に「このまま結婚生活を続けたら、命にかかわります!」と言い、離婚を切り出したのです。それでも夫は「それなら死んでしまえ!」と強がったのですが、夫婦の間には1人息子(幹也さん)がいます。京子さんは「幹也は私があんたに殺されたって思うでしょうね。一生恨むはず!」と続けたのです。

「上等じゃないか!? 俺がいなくても、やれるものならやってみろよ!!」

 夫はそう吐き捨てると、勢いに任せて離婚届の住所、氏名の欄に記入したのです。夫が離婚の意味……京子さんが夫の介護をやめることを理解していたかどうかは定かではありません。そして、それ以外の箇所は京子さんが記入し、証人の欄は京子さんの妹2人に記入してもらい、すべての欄が埋まった状態で、離婚届を役所へ提出し、無事に受理されたのです。

 筆者が「よかったですね」と言っても、京子さんは嬉しそうな顔を見せないのが気がかりでした。「あいつがハンコを押したんだから!」京子さんは裏返った声でそう言いますが、25年も連れ添った夫と別れたばかり。ようやく夫という存在から解放され、喜びや嬉しさ、そして達成感などを口にしてもよさそうなものですが、京子さんに笑顔はありませんでした。なぜでしょうか?

離婚は悩みに悩んだ末の結論

 法律上、2人は夫婦という間柄だからこそ、夫は妻を、妻が夫を支えていかなければならないのですが、逆にいえば、2人が離婚し、間柄が「元夫婦」に変われば、その限りではありません。元妻が元夫に尽くし続けるかどうかは個人の自由。離婚すれば介護を強いられることはないので、離婚届は紙っぺら1枚ですが、離婚するかしないかは京子さんにとって大違いです。

 息子さんはまだ社会人1年目。夫は実の父親とはいえ、息子さんに夫を引き取らせるのは酷です。そこで近くに住んでいる(夫の)弟夫婦に「あとは任せたから」と一方的にメールを送り、まるで逃げるように家を出てきたのです。後日、京子さんの元に返信はなかったというので、弟夫婦が何とかしたのでしょう。

「今さらあいつ(夫)に何を言われても構いません!」

 京子さんはそんなふうに開き直りますが、決して感情的に突っ走ったわけではなく、悩みに悩み、迷いに迷った末の結論だったことがうかがえました。前述の通り、確かに法律的には何の問題もなく、後ろ指をさされる筋合いはありません。しかし、社会的、常識的、そして倫理的にどうなのか……京子さんには罪悪感や後ろめたさ、後悔の念はこれからも付きまとうでしょう。しかし京子さんは「(離婚届に)ハンコを押したほうが悪い」と元夫に責任転嫁をすることで、何とか精神状態を維持しているように見受けられました。

 離婚が成立したことで、京子さんはようやく手術を受けることになりました。普通の夫婦なら手術の立ち会いや入退院の手続き、身の回りの世話を夫に任せるので、京子さんも離婚を躊躇(ちゅうちょ)したでしょう。しかし、京子さんの夫はまだ麻痺が残っており、何もできる状態ではありません。「(ストレスの対象でしかない)主人がお見舞いに来たら別の病気を発症してしまいそうですよ」と京子さんは苦笑いします。すでに息子さんには話を通しており、手術のときはいろいろ手伝ってもらうつもりだそうです。