中学はチマチョゴリで登校
小学校は朝鮮学校に入学。当時、東京にあった朝鮮小中級学校は9校、高校は1校のみ。そこは小さな朝鮮で、ひとつの完璧なコミュニティーのなか、共産教育と出合う。
「朝鮮学校に入ったのは母国語を習わせたいという親の意思でした。1学年1クラスで、1クラスおよそ30人。小学1年から中学までずっと持ち上がりです。なので家族構成から何からみんな互いに知り尽くしている感じでしたね。
家では日本語で話していたけど、学校では朝鮮語を話せといわれる。小学校低学年で革命歴史の授業があって、金日成やそのお母さんについて学びます。そこが日本の学校と明らかに違うところでした。小学生のときは普通の洋服で、中学からチマチョゴリを着て通いました。
朝鮮学校に行っていると“ニンニクくさい!”なんてからかわれるのは日常茶飯事で、“だから気をつけなさいよ”とよく母に注意されていましたね。私は勉強のできる優等生で、小学1年のときから学級委員の副班長を務めていました。
けれど3年生のとき同級生のロミの家に遊びに行き、それが私の人生を大きく変えることになったんです」(次回に続く)
<取材・文/小野寺悦子>