■曲名を間違えて紹介。歌手からにらまれた
「私のころはカンペなんてなかったんです。だから、歌番組でも台本を全部きっちり暗記して本番に臨んでいました」
昭和53年(1978年)に放送された『コメットさん』(TBS系)で2代目のヒロインを務め、全国の男子のみならずオジサンたちまでも虜(とりこ)にした大場久美子。ブロマイドは爆発的に売れて、トップアイドルの仲間入りを果たしたのが18歳のときだった。
翌年出た7枚目のシングル『スプリング・サンバ』が自身最大のヒットとなり、歌手としての活躍の場も広がった。当然、歌番組にもひっぱりだこかと思ったが……。本人に聞くと、意外や意外、
「当時はレギュラー番組を7本くらい抱えていて、ベストテン系の歌番組に出演する時間がなかったんです」
そんな中、『NTV紅白歌のベストテン』(日テレ系)の司会に抜擢されたのは19歳のときだった。それまで『ロッテ歌のアルバム』(TBS系)など別の歌番組のアシスタントや司会をいくつか経験はしていたが、
「司会はとても苦手でした。台本をまる暗記して一字一句間違わないようにはしていたんですが、曲紹介で曲名を間違えたり、ちょっとアクセントが違ってたりすると、歌手の人からキッとにらまれちゃったり、“何なの”という顔でこちらを見るんです。さらに、その歌手のマネジャーさんがやって来るし、いつも緊張してドキドキしてました」
それがトラウマとなって、いまも放送されている“ある有名な歌番組”の司会を断ったこともあるという。
「そのときはしゃべりは得意じゃなかったんです。いまはすごいですけど(笑い)」
■私はずっとマイナス思考
実は皮肉なことに、そんな“キンチョーしい”のおかげで『コメットさん』のオーディションは受かったという。
「持ち歌の『大人になれば』をアカペラで歌ってみなさいと言われたんですが、緊張して歌えなかったんです。それで悲しい顔をしていたら、その表情がいい、ということになって合格ですよ」
もともと制作サイドは他人の痛みがわかる“陰のある”女の子を探していたというから、人生は何が起きるか予測不能だ。明るい太陽のような笑顔で歌っていた姿からそんな“陰”は見えなかったが、
「私はずっとマイナス思考だったんです。曲名を間違えてにらまれたときも、自分だけがそう思っていたのかもしれません。楽屋でも、自分からみんなの輪に入って行くことはしませんでした。いつもスタジオの隅で1人で本を読んだり、編み物をしてましたね」
そんな姿が生意気だとか、普通にしていても、機嫌が悪いのかと思われたという。
「だから、一生懸命に歯を見せて笑顔を作る努力もしていました。笑っていることがクセになりましたね」
■もともと歌は2年間の予定
あの笑顔の裏にそんな切ないドラマが隠れていたとは思いもよらなかったが、『紅白歌の~』の司会を半年間務め、卒業と同時に歌手も卒業。
「もともと歌は2年間だけという予定でした。歌に関してはいろいろ言う人もいましたが、下手と言われたことはなかったんですよ。卒業のころはけっこう声が出てると思いました。でも、山田邦子さんは《スプリングサンバア~》って音程をはずしてモノマネしてましたね(笑い)」