日本大学の襷を胸に、エースとして箱根路を駆け抜けた─。俳優としては異色の経歴を持つ和田正人さんにとって、箱根駅伝とはどんなものだろう?

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箱根駅伝から芸能界へ・和田正人(日大陸上部OB)

 中学はソフトボール部。中1のとき“寄せ集め”の駅伝部員として走った、県でいちばん大きな大会で区間賞に輝いた

「中2で高校の合宿に参加したら、高校生に勝って。“ウチに来い”と声をかけてくれたのが、高知工業高校の監督でした」

 高校時代はケガに泣かされ、活躍できなかったが、2大学からスカウトが。

「監督の母校・日大に進みました。“大学に行くからには、箱根駅伝は絶対”という気持ちは強かった」

 入学時は同期でいちばんタイムが遅く、練習についていくのがやっと

「しかも鬼の寮生活。1年のときは、押し入れで寝起きしてました(笑)」

 そんな中で、チームの主力に成長。2年生で復路の最長区間・9区を任された

「区間9位、不本意ですよ。ただ、箱根駅伝はものすごかった。今まで、全国数多(あまた)の大会に出てきましたが、あんなものすごい緊張感は初めてでした。自分の弱さを思い知りました

 3年生のときは、箱根駅伝の直前にケガをした。

「それでも監督が“おまえがエースなんだから、走れ”と言ってくれると期待しましたが、“交代だ”と。ひざから崩れ落ち、号泣しました

 4年生で、再びの9区。区間5位の力走を見せた。

「当時は、“すごいのは箱根駅伝で優勝したり、区間賞を取るヤツ。出場することがすごいわけじゃない”と思ってました。ただ、こうして何年たっても“アイツは箱根を走った”という事実が、絶対的についてくる。今、俳優だからとかではなく、何をやっていたとしても。

 そして、世の中のみなさんがそれをリスペクトしてくれていることが、本当にありがたいです。“コイツ、しっかり努力してきたタイプなんだな”とわかってもらえる。例えば、撮影現場で僕に無関心だった大物俳優さんも、箱根出場を知ると、“おお、マジか!”と目の色を変えてくれますから(笑)

 僕が箱根を走ることは家族の楽しみであり、誇りでした。それを箱根駅伝で終わらせるわけにはいかないんです。俳優をやっていても、常に家族の誇り、自慢の息子であり続けたい気持ちは、やっぱりあります」

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◎和田正人さん
日本大学陸上競技部OB。'79年8月25日生まれ。高知工業高校から日本大学へ。第76回大会('00年)で9区区間9位、チームは5位。第78回大会('02年)で9区区間5位、チームは10位。4年時は主将