「踊り子は恥ずかしいと思わなきゃ駄目。恥じらいがなかったら色気は生まれないよ」
誰からも「ママ」と慕われた浅草ロック座会長、一代でストリップの殿堂と言われたロック座チェーンを作り上げた斎藤智恵子さんは、配下の踊り子たちにそう言い続けた。
大正15年生まれ。36歳でストリッパーとなり18歳下の妹と一座を組んだ。妹の恵美子さんが当時を振り返る。
「どこの小屋でもママは大人気。そのうち小屋主から小屋を買わないかとすすめられ栃木県佐野に劇場を持ったのがロック座のスタートでした」
女性特有のアイデアを次々と出し早朝の客にはパンと牛乳の朝食サービス。客の車はボーイが駐車場に運ぶ。“裸”以外でも男を引きつける魅力を考え小屋は連日、超満員。
'72年に浅草ロック座を手に入れてからは不動産投資も。全国で20を超えるロック座の経営だけでなく、踊り子を他のストリップ劇場に派遣し、芸者置屋や貸しビル、パチンコの換金所など面白いように儲けた。それでいて普段の食事は漬物とご飯で十分なのだから金は唸る唸る。
そこに目をつけたのが若山富三郎さん。やがて弟の勝新太郎さんもやって来て、土下座してテレビドラマ『座頭市』と『警視K』の借金の肩代わりを願い出た。
「先生、いいですよ。そのかわり息子を事務所で使って」
渋谷のラブホテルを売却して数億円を用意すると、長男・恒久さんを勝プロのスタッフに。ストリップから芸能界の本流へと息子を押し上げた。
気の強さでも天下一品。11月11日生まれのピンぞろいが自慢で、浅草の郵便番号も111。人に負けるということが我慢できない性格だった。
早乙女太一との関係
「いまから太一がいる明治座の楽屋に乗り込むよ」
斎藤さんが周囲にそう言ったことがある。子役時代から手塩にかけて育てた早乙女太一が理不尽な事務所移籍をしたときのことだ。
父親率いる旅芸人一座の役者だった太一は、子役時代から映画『座頭市』に抜擢されスターへの道を歩んでいた。斎藤さんは父親の劇団を援助し、太一には着物などをふんだんに買い与えた。
そんな太一が自分に無断で事務所を移籍するという。芸能界のみならず興行界でも顔役である。ベテランの役者なら恐ろしくてできなかったはず。
たけしの映画『座頭市』も、斎藤さんの鶴の一声があったから撮影できた作品だ。中村玉緒も斎藤ママの前ではひと言も反論できなかった。
「結局、明治座に乗り込んだ斎藤さんは太一に頬にチューをさせて、“半分許す”と伝えたんです。本心はどうだったかわかりません。あれだけ可愛がっていましたから」(斎藤さんをよく知る記者)
『座頭市』でベネチア映画祭に出席した際に、たけしとマーチン・スコセッシと並んだ笑顔の写真を、入院直前まで浅草で経営するお食事処に誇らしげに飾っていた。
その大切な写真の横にあったのは、実は早乙女太一の写真であった。心の中では許していたのかもしれない。4月中旬、検査で胃がんが見つかり入院。28日午後10時ごろ、90歳での大往生となった。まさに昭和の傑物、芸能の阿弥陀如来。安らかに。