アルツハイマー型認知症の治療薬『レカネマブ』が、9月、国内で正式に承認された。厚生労働省によると、2025年には65歳以上の高齢者の5人に1人が認知症になると予測される。
認知症大国の現状
認知症大国・日本。この新薬が希望の光となりうるかどうかに注目が集まるが、事はそう簡単にはいかないようだ。
「日本には現在、約600万人の認知症患者がいますが、新薬の対象となる軽度アルツハイマー型認知症と軽度認知障害の方は約500万人と推計され、その中の約1%しか投与対象にならないのではないかといわれています」
と、日本認知症予防学会代表理事で、鳥取大学医学部教授の浦上克哉先生は話す。
レカネマブは、認知症の前段階であるMCI(軽度認知障害)の人と、極めて初期の認知症患者にのみ適応とされている。症状が出始めて「なんだかおかしいな」と感じたときにはすでに時遅し。レカネマブによる治療の対象外となっている可能性が高いのだ。
そもそも、認知症には多くの種類がある。もっとも多いのが患者の60%以上を占めるアルツハイマー型で、脳血管性が約20%、レビー小体型が約4%と続く。レカネマブは、この中のアルツハイマー型認知症に特化した治療薬だ。
「アルツハイマー型認知症の原因のひとつが、脳内で作られるタンパク質“アミロイドβ(ベータ)”です。この物質が脳内に蓄積すると神経細胞がダメージを受け、症状が進んでいきます。
レカネマブはアミロイドβを溶かして排出する薬ですが、すでに神経細胞がダメージを受けてしまったあとに投与をしても、もはや改善は期待できません。たとえ投与の対象となったとしても、現段階では27%の抑制率しかないとされています」(浦上先生、以下同)
研究により、アミロイドβは、認知症を発症する20~30年前から少しずつたまり始めることがわかっている。個人差があるが、すでに30代ごろから蓄積が始まる人もいるという。
そこで気になるのは、今の段階で自分の脳にアミロイドβがどれくらいたまっているのかということだ。
「それを知るためには、現時点では、画像検査の『アミロイドPET』と、腰から針を刺して髄液を採取する『腰椎穿刺(せんし)検査』の2つの方法しかありません。しかしいずれも自費となり、アミロイドPETは20万~30万円ほどかかります。
腰椎穿刺検査は2万~3万円ですが、身体への負担が大きく、症状がない人へ行う検査としては現実的ではないでしょう」
つまり、認知症を疑う症状のない健康な人は、自分のアミロイドβの蓄積具合を知ることは難しい。
たとえ症状があって検査を受け、アミロイドβの蓄積が明らかになったとしても、その時点でレカネマブ投与のタイミングを逃している可能性も高い。
これを夢の新薬と呼ぶには、少し無理がありそうだ。
特定の香りが認知症の予防や改善に効果
結局私たちが今できる最善策は将来、認知症を発症しないために、できるだけアミロイドβをためないような生活を送ることだ。
「質の良い睡眠と適度な運動が、アミロイドβの排出を促すとされています。最近の研究で、タンパク質の一種である神経栄養因子が認知機能の維持に深くかかわっていることがわかってきました。
適度な運動は、この神経栄養因子の分泌を活性化するといわれています。ウォーキングなどの有酸素運動と、簡単な筋肉トレーニングなどを取り入れるとよいでしょう」
はっきりと解明しきれていないものの、“地中海食”といわれる食事がアミロイドβの蓄積予防や排出の促進に効果的だとされる論文もある。
「地中海食とは、イタリア、スペイン、ギリシャなど地中海沿岸の国々における伝統的な食事スタイルです。
穀物、野菜、豆類などのバランスのよい食事を基本とし、肉類よりも魚介類、特に青魚を多く摂取します。料理にオリーブオイルを多用することも特徴です」
浦上先生の研究では、特定の香りが認知機能の予防や改善に役立つこともわかった。
「日中はローズマリーカンファーとレモンのブレンド、夜間は真正ラベンダーとスイートオレンジのブレンドの香りを嗅ぐことで、特に認知症の前段階のMCIレベルの患者に認知機能の維持や改善が見られました。
中には外来の患者さんで、10年にわたって良好な状態を維持できている方もいらっしゃいます」
アロマ精油の香りが神経細胞に働きかけることで、リラックス効果をもたらし、睡眠リズムの改善に作用すると考えられている。また、弱った嗅覚そのものを回復させる効果もある。
ただし、使用するアロマ精油は100%天然由来のものが原則。浦上先生はオーガニックのものを推奨している。
化学物質配合の合成香料を長期にわたり吸引すると肝障害などを引き起こすおそれもあるため、自己責任のもとで行う場合は十分な注意が必要だ。
嗅覚障害が起きたら認知症の疑いが
香りが認知症の予防や改善に効果を発揮するとは意外だが、実は嗅覚と認知機能には密接な関係性があるという。
「私たちの研究では、MCIや早期認知症患者の多くが、もの忘れなどの症状が現れる以前に嗅覚障害を発症することがわかっています。
個人差がありますが、具体的には食べ物が腐敗した臭いや、汗のしみ込んだ洗濯物の臭いなど悪臭を感知しにくくなる方が多いようです。
例えば高齢の親御さんが、腐敗した食べ物を放置したままにして、臭いを何も感じていないようでしたら、それは嗅覚障害のサインかもしれません」
嗅覚障害を利用して早期に認知症を発見すべく、浦上先生はスクリーニング検査の実験も行っている。
「6種類ほどの香りを嗅ぐだけで、高精度に嗅覚機能の異常を発見することができます。5分でできて簡単なうえ、特異度も高い検査法です」
嗅覚機能検査は、新薬のレカネマブの有効な活用に役立つ可能性も秘めている。
「嗅覚障害は、もの忘れなどの症状が出る前の早い段階で現れます。嗅覚障害の検査で異常が見られた場合、次のステップとして、早期にアミロイドPETや腰椎穿刺検査を行えば、もっと多くの人にレカネマブを届けることができるかもしれません」
レカネマブの新たな承認で、国内でアルツハイマー型認知症に使用できる治療薬は全5種類となった。世界中で今もさまざまな治療薬の開発が進んでいるが、認知症が“恐れる必要のない疾患”となる日はまだ遠そうだ。
夢の新薬が真に登場する日を待ちつつ、個人でできる予防策を徹底したい。
(取材・文/植木淳子)