「ちょうど春休みのころ。パトカーや救急車、マスコミがどっと押し寄せてきましてね。ベランダに置いた浴槽に遺体を入れ、土をかぶせていたというおぞましい事件でした」
と同じマンションの住人が思い出す。
’07年3月、千葉県市川市の自宅マンションで市橋達也受刑者(当時28)が、英会話学校『NOVA』の英国人講師だったリンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)を絞殺する事件が発生した。行方不明の彼女を捜していた複数の警察官が市橋宅を訪れたところ、振り切って裸足のまま逃走。以後、2年7か月にわたって全国各地で逃亡生活を続けた。整形手術もしていた。
心証が悪かったことで、マスコミはさんざん彼をバッシングした。市橋の千葉大学時代の空手同好会顧問だった同大学の本山直樹・名誉教授(72)は、このままではたとえ逮捕されたとしても、正当な裁判を受けさせることができないのではないかと案じて、「市橋達也君の適正な裁判を支援する会」を発足させた。資金を募って、国選弁護人ではない私選弁護人をつけるために奮闘したのだ。
「彼はおとなしくて目立たない学生でしたが、まじめでした。練習も道場の掃除も、ほとんどさぼったことがないですよ。それが殺人なんて、まさかの思いでした」
市橋の両親は岐阜でともに医師というエリート家系だった。本人も医師を志したが、最終的には断念し、4浪で千葉大学園芸学部へ入学した。
「卒業時に身の振り方を尋ねると、"僕はもっと上を目指して頑張ります"と。米国の大学で専門だった緑地環境や環境デザインを極めたいと考えたようです」(本山教授)
独学で約2年、英語を勉強。3DKの自宅マンションは親が所有するもので家賃はタダだった。月々の仕送りが15万円でアルバイトはしていない。ぜいたくな生活ぶりだ。
しかし、試験には合格せず、事件直前、父親に仕送りのストップを通告されていた。
「それが相当なショックで事件の引き金になった、精神的に不安定になっていたのではと私は考えています」(同)
逮捕後、本山教授が拘置所へ面会に行ったとき。
「"先生、私がやったことを許してくださいますか"といって、涙をポロポロこぼしたんですよ。決して、ひどい人間ではないのです。またある日、私が"なんでこんなことをやったのか"と聞くと、無言でうつむいたまま、ただただ涙だけでした。彼自身、まだ本当のところはわからないのかもしれないですね」
裁判では、殺意の有無が争点になった。’11年7月、千葉地裁は殺意があったとして無期懲役を言い渡した。’12年4月、東京高裁は控訴を棄却。
「最高裁へ上告したほうがいいと助言したのですが、"本当のことを言っても誰も信用してくれない"と諦めきった口調でした。結局、上告しなかったので、刑が確定してしまったわけです。しかも、これまでは手紙を交わしてきたのに"今後は静かに罪を償っていきたい"と、どこの刑務所に服役しているのかも知らせてくれないのです」
と、本山教授はやるせない表情を浮かべる。事件のあと、市橋の両親とも医師を辞める羽目になった。結婚していた姉も離縁された。