一見、気遣いをしているようで、容赦なくたたみかける医師の詰問に、由里子さんは声が震えないように、気持ちを落ち着かせながら答えていった。
たいていのことはひとりでできる、入院中は夫やヘルパーに来てもらう、遺伝については夫婦ともにまったく気にしていない……。
それでもなお詰問する医師に、由里子さんは気がつくと、こう叫んでいた。
「障がい者は子どもを産んだらダメなんですか?」
どうやって帰ったか記憶がなかった。ふらふらな状態で部屋に倒れ込んだ途端、涙があふれてきた。悔しくて悔しくてたまらなかった。私は差別を受けたのだ──、由里子さんは初めて、そのことに気づいたのだった。
その後、夫とともに産婦人科に出向き話し合いの場を持ったが、病院側は他院へ移ったほうがいいと言ってきかない。分娩室に行くまでのエレベーターが危険だとか、いざというときに対応できかねるなどの理由を次々と持ち出してくる。その態度に疲れ、結局、由里子さんたちは別の病院に移ることを選択した。
「遺伝性の病気となると、いまだに優生保護法の考え方が出てくる。世が世なら私は生まれていないし、娘もこの世に生まれてくることはなかったんでしょう。病院の中に優生思想がものすごくはびこっているのを実感して、恐ろしさを感じましたね」
優生保護法は1948年、「不良な子孫の出生防止」を目的に作られ、これをもとに、障がい者への強制不妊手術も行われてきた。1996年に母体保護法に改正されたあとも、由里子さんの経験を見る限り、優生保護法は現代に生き続けている。
障がい者の子育ては想定外!?
2005年の夏、由里子さんは総合病院の中にある産科で無事、娘を出産した。新しい命の存在は力を与えてくれた。だが、そこから「障がい者の子育て」に対する社会の壁が次々と目の前に現れる。
娘が保育所に行くようになると、送り迎えのときに介助制度が使えないことがわかった。障がい者の介助ヘルパーは、障がい者本人を介助するためにある。子どもの送り迎えが目的なら、ヘルパーが付き添うことはできないというのだ。
由里子さんは意見書を出したりメディアに出たり、できるだけの方法でぶつかった。また、障害のある親の集まりを作ったりしながら、声を出していった。そのかいあって2年後には、特例として送り迎えの介助利用は認められた。
「まず大阪市に理解してもらうよう支援を募りました。障がい者への支援はあっても、障がい者が出産して子育てするということ自体が想定外で、そのための支援は考えられていません」
平日の夕方になると、夕食の準備のため毎日、ヘルパーに来てもらっている。土日に出かけるとき、参観日などの子どもの用事があるときにも、同行援護のヘルパーに介助を頼む。それが由里子さんの日常だ。
娘の通う小学校に呼ばれて、特別講師として話す機会もある。
「私は目が見えないだけでみんなのお母さんと同じなんだよ。いろんな工夫をしながら、ヘルパーさんに頼んだりしながら暮らしてるんだよ」そう言うと、子どもたちは「ああ、そうなんだ」と理解してくれる。
いま彼女が目指すのは、障がい者が立ち止まらなくてすむような社会だ。
「障がい者として生きていると、いろんなつまずきがある。だから、それがなくなるような社会を作りたい。そのために趣味にしても、どんな些細なことでもあきらめないで挑戦したいです。
自分が頑張るだけでなく、社会の障壁を取り除くにはどうすればいいか。下から見たら、横から見たら、解決策はあるかもしれない。それを仲間と一緒に考えていきたいですね」