いじめ自殺を歌にし脱サラ

 23歳で労音の仲間と結婚した。28歳で娘が生まれても、幼い娘をひざに乗せ、仲間たちと歌い続けていた。

 大きな転機は1979年、30歳のとき。子どもの自殺が増加し、社会問題となっていた。12階建てのマンションから中学生が飛び降りた事件で「いじめ自殺」という言葉が初めて使われたのもこの年だ。

「娘はまだ小さかったけど、他人事と思えなかった。飛び降りたその子は一体どんな思いを抱えていたんだろう、わが子が自死を選んだ親はどんなにつらい思いをするだろう。そんな思いから作ったのが『空をとぶ子供』でした」

デビュー曲『空をとぶ子供』のジャケット
デビュー曲『空をとぶ子供』のジャケット
【写真】子どもをギューっと抱きしめる、べんさん

 その歌ができたとき、ハッと気がついた。初めて、自分が本当に伝えたいことを歌にできたという手応えがあった。

「僕は、子どもの気持ちや弱い立場の人の気持ちが、人より少しだけわかるような気がする。それならば、子どもの思いを歌うことで、人にはできない仕事ができるはずだと思った。何よりもまず、この歌をたくさんの人に聴いてもらいたいとレコードにすることを決めたんです」

 仲間に聴いてもらうために作った500枚は口コミで広がり、社会的に注目を集めた。取材の依頼が次々に舞い込む。地元の新聞を皮切りにスポーツ新聞、女性誌……。さらに、テレビ出演もした。歌の依頼も増え、忙しくなっていく─。

 そんな中、ある日の埼玉フォークソング連絡会で、車座になった仲間たちの前でべんさんは突然こう言った。

「俺さ、会社を辞めてプロになろうと思うんだ」

 その場はしんと静まり返った。安定した仕事を辞めてプロのシンガーになるなんて、誰もが驚く時代だった。しかもべんさんのひざには2歳になったばかりの可愛い娘が座ってキョトンとみんなを見ている。仲間たちも、まさかべんさんがそんなことを言いだすとは思ってもみなかった。

「ちょっと無謀じゃないか」

「べんさんならきっとできるはずだよ」

 仲間たちは口々に意見を言い始め、その場で賛成か反対かの議論が始まった。

「いいや、俺は決めた。どんなに大変でも、俺はやる。俺にできることは歌を歌うことなんだ。子どもの気持ちを歌うことなんだ。頑張ってやります。応援してください!」

 当時のことを事務所のなみきさんはよく覚えている。

「私もそのとき20歳で、働きながら埼玉フォークソング連絡会に所属していました。最初は本当に驚いたけど、たかはしべんならできる。そう思いました」

 それには理由があった。事務所が放火により火事になったとき、べんさんはあることを思いついて行動に移した。

「事務所再建の資金集めのために、自分たちでホールを借りて1000人コンサートをしようとたかはしべんが言いだしたんです。“焼けだされた私たちに何も残っていないけれど、歌い続けた歌はいつまでも生きている”という内容の歌を作ったら、すごく落ち込んでいたみんなが、一緒に歌っているうちに元気になっちゃって(笑)。無理だと言っていたみんなを巻き込んでコンサートを成功させた。なぜか、やると言ったらできちゃうんですよね