北野監督を追いかけ渡米
北野監督に対する寺島の思いの強さを表すエピソードがある。監督を追って、呼ばれてもいないのにアメリカまで飛んだというのだ。
北野監督がロサンゼルスで新作を撮る。そんなウワサを聞きつけた寺島は、監督がどのような取り組み方をするのか、そばで見たい一心で、ひと足先に現地で待っていようと思いつく。
「なぜそこまで?」と問うと、ひと呼吸置いて「松田優作さんのことがあったからでしょうね」と返ってきた。
「優作さんはすごいカリスマ性を持った大スターだったから、おそれ多い気持ちや、影響を受けすぎて自分を見失うんじゃないかという思いもあって、積極的に近づけなかった。でも、亡くなってからすごく後悔してね。もっと聞きたいこと、教わりたいことがたくさんあったから……。だから、大好きな人が存在しているなら、自分ができることは全部するって決めていたんです」
その思いが、寺島をアメリカに向かわせた。せっかくならアメリカ横断の旅をしようと、ニューヨークからバスに乗り、街々を経由してロサンゼルスへ。タクシー運転手に騙されて汚いホテルに連れて行かれるなど、若者のひとり旅ならではの珍道中だった。
「ハリウッド近くのモーテルに泊まって、北野監督の事務所に電話してホテルの場所を伝えたら、数日後に北野監督が来てくれた! ホテルのロビーに立っている北野監督を見たときの俺、どれだけ幸せそうな顔してたんだろうなぁ」
次回作の話も出て、寺島の具体的な役柄も告げられた。念願の北野映画への出演を“追っかけの旅”でつかみ取ったのだ。しかも、監督の口からはほかにもとびきりうれしい言葉が飛び出したという。
「ロスに来るまでの珍道中を話したら、北野監督はゲラゲラ笑って“うちのやつらは無茶するやつばっかだなぁ”って。“うちのやつら”っていう言葉が、まるで身内扱いしてもらったみたいで、思わず胸が熱くなりましたね」
30代に突入するころ、寺島は、正真正銘の“うちのやつら”になるチャンスをつかむ。北野監督らの芸能事務所『オフィス北野』に入らないかと監督から直々に誘われたのだ。
「フリーの役者だった俺にとっては、北野監督からの誘いは救いの言葉だった。でも、男が1度お世話になるって決めたら、骨をうずめる覚悟じゃないといけない。だから、1年、真剣に考えてからお世話になることに決めたんです」
北野監督との数々の思い出の中でも、特に忘れられないのは、寺島も出演した『HANA-BI』がベネチア国際映画祭でグランプリである金獅子賞を受賞したときのこと。
「みんなでホテルの部屋でシャンパンで乾杯したとき、監督がぼそっと“寺島は粘り勝ちだな”って言ってくれた。あれはうれしかったなぁ」
北野監督との出会いから10年。テレビドラマなどの出演も増え、ようやく役者の仕事だけで食べていけるようになったころだった。
「役者未満だった俺が粘り続けてやってきたことを北野監督は見ていてくれた。“ああ、俺はそうやって何とか生きてこられたんだな”って感じたんです」
北野作品への出演は、俳優として大きな飛躍になったと同時に、さまざまな監督との縁を結んでくれた。脚本家で自らメガホンもとる三谷幸喜さんもそのひとり。寺島にとって三谷作品への最初の登場は、映画『THE 有頂天ホテル』で演じた強面のマジシャン役。三谷さんは寺島との初対面をこう語る。
「北野監督の作品を見ていたので、寺島さんには寡黙な強面の役者さんというイメージがありました。強面役が多い俳優さんって、実際に会うとイメージと真逆で柔和な人もたくさんいるんですが、寺島さんはイメージどおり怖かった、顔が(笑)。だから、初対面のときはすごく緊張してしまって目が合わせられなかったほどです」
しかし、その後、三谷さんは寺島の意外な一面を知ることになる。
「この作品では、ホテルの大規模セットを組んだため、撮影前、セットのミニチュア模型を使って説明をしました。そのとき、誰よりも興味津々で食い入るように模型を見つめていたのが寺島さんだったんです。台本もかなり読み込んでいて、繊細に芝居を組み立てる人なんだと感じました」
その後、寺島は三谷作品の常連になり、昨年公開された映画『記憶にございません!』では、主人公の総理大臣に物申す大工を演じている。このときも三谷監督は寺島の細かい役作りを目の当たりにした。
「衣装合わせの際、寺島さんは、衣装や髪型だけでなく、ヒゲやタバコの銘柄まで考えてきていました。さらに、“耳に鉛筆をはさんでみたい”と提案してくれて、その鉛筆の長さや種類まですべてイメージを固めてきていたんです」