アイドル→“ワイドル”になった瞬間

 1999年に『女性セブン』で大先輩の東山紀之と対談した長瀬は緊張のあまり、誌面だというのに「そうスね」ばかりを繰り返すという、読んでいてワケのわからぬ出版事故スレスレな展開を起こしていた。緊張のワケについて彼は、

《ぼく、少年隊に憧れて、ジャニーズに入ったもんですから……》

 と語っている。ほう、“憧れ”とな。これはつまり、自分で履歴書を送ったと解釈してもいいのではないだろうか。

 しかし、2002年に女性ファッション誌の『with』のインタビューに登場したときにはこんな記述が。

《長瀬さんが『光GENJI』に憧れて芸能界入りしたのは11歳のとき》

 な、なんたる二枚舌。多方面へのゴマすりのようにもみえるが、あの長瀬のこと、きっとこれは……天然。すべては『忘却の空』だったと捉えるほうが正しいのかもしれない。

 はたして履歴書を送ったのは姉か、智也か。

 遡(さかのぼ)りすぎてついに、入所して間もなくの1991年に雜誌『POTATO』でインタビューを発掘した。これが彼が人生最初に受けた取材、つまり最古の記録であろう。記者に「この世界に入ろうとしたきっかけは?」と聞かれ、当時12歳の長瀬はこう答えている。

《『アイドル共和国』の“SMAP学園”入りませんかっていうのを見て、“入る”って履歴書に書いたんだ(笑)》

──結局尊敬しているのは誰なのさ! ここまできたら光GENJIとSMAPに挟まれ、短命で終わった先輩グループ『忍者』の名前も出してやってくれ。

 ただ、この『SMAP学園』というのが同番組から生まれたSMAPのバックダンサー集団で、のちのTOKIOの前身となったグループだという経緯もあり、これが真実といえよう。そして、Wikipediaの「姉説」は誤りである。

 とりあえず、入所した時点での長瀬は“歌って踊る”伝統的なジャニーズアイドルを志していたということだろう。この最初期のインタビューを追っていくと、1991〜92年くらいまで、長瀬少年はたびたび「バック転ができる」「バック宙ができる」と取り憑かれたかのように繰り返し発言していることがわかる。

 しかし、転機が訪れたのは中1。イギリスのハードロックバンド『ディープ・パープル』にどハマりするのだ。それ以降、バック転自慢は鳴りをひそめ、インタビューでも「ロック」や「バンド」というワードが頻出するように。そして1994年、TOKIOのリードボーカル(バンドマン)としてデビュー。

 結論としては、彼がTHE・ジャニーズアイドル然としていたのは、たったの1年足らずということになる。やはり長瀬は特殊すぎるのだ。

 デビューからわずか2年後の1996年。『週刊女性』のインタビューに応じた彼は、地元の友達について以下ような語り口調で、雄弁にこう語っている。

《一番オレのことわかってると思うし、悩みを打ち明けるのはやっぱりあいつらですね。あらゆる面でワイルドで単純で“高校なんていらねぇ〜”ってヤツばっかり。あいつらと共演できたらなぁ。バイク物の映画とかで。そしたら、もっと自分が出せると思う》

 もう、すっかりお馴染みのワイルドな“長瀬智也”に仕上がっているのである。You Love 地元。こうして、キラキラのラメ服を着てローラースケートで踊る未来は絶たれた──。というか、バンド形式のデビューじゃなかったらどうなっていたんだ。もっと早くジャニーズを退所していたんじゃないか。ジャニーさんの采配の凄さがわかる。

 冗談みたいにかっこいいビジュアルと歌声に加え、天然な人柄に、多才ぶり。多くの人を惹きつけ愛されてきた長瀬智也──。結局、振り返ってみるとアイドルと呼ぶほかないな。

〈皿乃まる美・コラムニスト〉

※タイトルに誤解を招く表現があったため、一部表記を変更しました