ネットなき時代にも直接的な嫌がらせや、嫌がらせを超えて犯罪といっていいこともなされてたわけだ。もちろんダンプさんは、それらに関してはとても悔しかったという。
「車に傷つけられた後の試合では、さらに千種をボコボコにしました」
しかしつくづく、ダンプさんは稀有な人だ。あのころはそんなこと思ってもみなかったが、内面を見てほしいだの、真の自分を知ってほしいだの、確かにダンプさんはみじんも感じさせず、表すこともなかった。
とことん悪役であり、誤解を恐れずにいわせてもらえれば見世物に徹していた。自分自身にも、甘さを許せなかった潔癖な人なのだ。
落ちこぼれだった
資料でも読んでいたが、ダンプさんは真に苦労人なのだった。
決まっていた就職も蹴って背水の陣でオーディションに臨んだのに、落ち続ける。1979年4月1日、ついに合格。夢見た全日本女子プロレスに入門を果たしたものの、実にデビュー戦まで1年半も待つことになるのだ。
「そこからさらに、極悪同盟の悪役ダンプ松本が誕生するまで、4年かかるんですよ」
1980年組は長与千種、ライオネス飛鳥、大森ゆかりなど、女子プロレスを知らないといい切る人まで知っている歴史に残る華麗なるメンバーたちだが、
「私と千種は、まったく期待されてなかった。完全に、落ちこぼれってやつでした」
とも言い切った。女子プロレスの大ブームを担った2大スターが、元は落ちこぼれ。それは、物語の始まりとしてはできすぎだ。
「私ら強くないうえに、これといった個性がなかったんだよね」
それも、驚きだ。あんな個性的な2人が、個性がないといわれていた。ますます、ドラマ性を増してくる。生まれついてのスターもいるが、個性は与えられるものではなく、みずから創り出していくものでもあるのだ。
「でも千種は、負けっぷりがとにかくよかった。負けてかっこいい、負け方に美学があった。潔い負け、堂々たる負け、記憶に残る負け」
なるほど、負け方にも個性と魅力があるか。長与さん本人も稀有の才能だが、ちゃんと見ていて評価できるダンプさんの眼力もすごい。
そして1980年5月、最初から将来を嘱望されていたライオネス飛鳥がデビューする。
その間、ダンプ松本と長与千種は「辞めてしまえ」などと罵倒されていたものの、8月8日に東京の田園コロシアムで、ようやくデビュー戦を飾れた。
そこから瞬く間にふたりはスター選手になっていた、のではない。
「デビューから2年くらいは、私と長与千種はいじめの標的にされてましたよ」
資料によると、当時は年間300試合。1、2か月、自宅に戻れないなんて当たり前だったようだ。いじめを正当化してはいけないが、ほとんど毎日が巡業、限られた空間での規制の厳しい団体行動、そりゃ何か攻撃的にいじめてストレス発散もしたくなるだろう。
「巡業先で脱走して、でも、お金なくてのこのこ戻ってくる子もいれば、そのまま逃げ切る子もいましたね。私は逃げ場がなかったからな」
女子プロレスが三禁、男と酒とタバコは禁止、というのはよく知られているが。酒とタバコをたしなんでもプロレスは辞めないが、男ができると辞めちゃうとのことだ。