学生結婚からパニック障害へ
高校卒業後にシンクロを引退。大学在学中に学生結婚した。相手は初めて付き合った8歳年上の男性だった。
「うちの両親、特に父は、もっと社会を見てから結婚したほうがいいと反対しました。反対されるとね、余計に家を出て自由になりたいと思ってしまって。だけど結婚後は、もっと自由がなかった……」
引退後もシンクロはコーチとして続けていたが、23歳で長女を出産してやめた。子育てが一段落して再開したいと思ったが、夫や姑にいい顔をされなかった。やがて夫婦仲はギクシャクするようになる。
夫の裏切りが間もなく発覚。ほかに恋愛経験がないまま結婚した二村さんは夫とうまくいかないのは自分のせいだと、自分を責めた。まじめで努力家だから自らを追い込みすぎたのだろうか。
ある日、地下鉄に乗っていると、突然、冷や汗がバーッと出てきた。ドオーッと動悸が始まり、「私、このまま死ぬんかな」と恐怖にかられる。そのまま意識を失って倒れた。
「それがトラウマになって、1人では地下鉄に乗れなくなったんです。これは経験した人にしかわかれへんと思うけど、ほんまに怖いんですよ。地下に下りようとしただけで、“アー、ダメダメ、ムリムリ”と。美容院にも銀行にも怖くて行けなくなって」
そのころはパニック障害という病名は知られておらず、本を何冊も読んで、ようやく自分の病気はパニック障害だとわかった。
娘の宝上真弓さん(38)は当時、小学2年生だったが、母親の苦しむ姿をよく覚えているという。
「グッと強く踏ん張っているときもあるけど、それ以外はメソメソしていて(笑)。食事をしても、すぐお腹を壊してガリッガリでした。車の運転はできたけど1人でいるのを不安がったので、どこに行くにも一緒についていくのが当たり前になっていましたね。
母は私をしっかり育てることが使命になっていたところもあるので、何とか気持ちを保っていたと思うし、私もそんな母を励まして支えることが、生きる目的みたいなところもあったので、長い間、支え合って生きてきたなーと。私が大学生になって、デートとかで家を留守にするのも、気を遣いましたから」
心の再生に「書店」が必要だった
夫と離婚して、35歳のときに娘と2人で実家の近くに引っ越した。
「私の人生はもう終わった」
絶望感に駆られながらも、毎日、店頭に立った。書店にいる間だけは、しんどくならなかったのだ。
父は何も言わずに見守ってくれたが、母にはパニック障害を理解してもらえず、こう言われた。
「あんた、それ怠け病やで」
ある日、二村さんは1冊の本にたまたま目が留まる。
一読して、号泣した。それは、口に筆をくわえて絵を描いている星野富弘さんの『愛、深き淵より。』だった。
「事故で頸髄を損傷し口しか動かない。自分で死ぬこともできない人が本当に絶望の淵から這い上がって、感動できる絵を描いてはる。
その本を読んだときにね、ほんまに自分の甘えというか、私はこのままではあかんなって、気づかせてもらえたんですよね。偶然、神様が会わせてくれたとしか、考えられへんねんけど……」
説明しながら、当時の気持ちが蘇ったのか、二村さんはこらえきれず、そっと涙を拭いた──。
パニック障害の症状は発症から25年以上の長い年月をかけて少しずつよくなっていった。一度だけ精神科医に診てもらったが、薬にはできるだけ頼らず克服したという。
真弓さんは母親がリラックスできる方法などを調べるうちに心理学に興味を持ち、臨床心理士になった。プロとして「母の心の再生プロセスには書店が必須だったのでは」と推測する。
「母の場合、ただ流行っているからではなく、自分の感性とか信念に基づいた本をすすめています。それを相手が受け取ってくれて、“すごくよかったよ”とフィードバックをもらえるということは、自分の存在を肯定されることにつながったのだと思います。祖父と祖母が築いた本屋というあの場所に、ずっと守られていたんだと思いますね」