こだわりが強く、自分に正直。その気質は結婚生活でも同じだった。

最初に結婚したフォークグループ『六文銭』の四角佳子さんとは価値観の不一致で〝(一緒に)暮らしていくのは耐えられない”とラジオで離婚宣言。2度目の結婚をした浅田美代子さんとも、離婚会見の席で〝曲を作るには家庭を持つとダメだと思った”と言い訳しています」(スポーツ紙記者)

1972年、吉田拓郎(当時26歳)と四角佳子の結婚式にて
1972年、吉田拓郎(当時26歳)と四角佳子の結婚式にて
【写真】吉田拓郎(当時26歳)と四角佳子の結婚式でみせたとびっきりの笑顔

 他を寄せつけない雰囲気を醸し出していた拓郎だが、広島フォーク村の後輩の1人は意外な一面があったことを打ち明ける。

拓郎さんが上京する直前に〝おまえのギターを貸してくれ”と言い出したんです。僕の家の近くまで取りに来てくれたので手渡すと、肩に担いで〝ほいじゃ、行ってくるけ”と言って、そのまま東京に旅立っていって……。あの人、普段は全然ギターにこだわりはないから不思議でした。今となれば、東京に行く前に、地元の後輩のギターを背負うことで、自分を奮い立たせたかったのかもしれません

 それから時がたって'08年。その後輩は拓郎の変化に驚いたという。

広島フォーク村の同窓会として拓郎さんを交えて食事をしたんです。そのとき 〝ファンの言葉でもけっこう傷つくんだよな”と、ぼそっと言ったんです。それを聞いていた人が 〝それだけキャリアがあるのに、今さら傷つくなんてことがあるのか”と尋ねたら〝俺は傷つくんだよ……”と寂しそうに話していて。20代のころは一升瓶のお酒を半分ぐらい飲み干してからステージに立っていましたが、あれは繊細さの裏返しだったんだと思いました

 時の流れが、かたくなだった拓郎の心を、温順にしたのかもしれない。

同世代の歌手仲間に嫉妬して、嫉妬されて…

 '75年、拓郎は音楽業界に一石を投じる。井上陽水、泉谷しげる、小室等らとレコード会社『フォーライフレコード』を立ち上げたのだ。

'75年のフォーライフレコード発足記者会見の様子。結局'01年まで存続した(左から)泉谷、陽水、小室、拓郎
'75年のフォーライフレコード発足記者会見の様子。結局'01年まで存続した(左から)泉谷、陽水、小室、拓郎

当時の歌手や演奏家というのは、地位が本当に低かったのです。芸能プロダクションやレコード会社が力を持ち、逆らえば干されたり、活動ができなくなってしまうこともありました。拓郎は常々〝ミュージシャンに強い発言力がないとおかしいじゃないか”と話していました

 同社で音楽プロデューサーを務めていた前出の常富氏は、そう設立の経緯を説明する。

 ビッグネームが並ぶなか、会社内で喧嘩などはなかったのだろうか。

「温厚でちゃんと言葉を選ぶ小室さんが社長に就任しました。陽水と拓郎はリスペクトし合っているのですが、どうにも仲よくなれない (笑)。お互いに見下されているのではと思ったり、その逆だったり。いろいろ考えてしまうようなのです。喧嘩するわけでもないし、仲が悪くもないんですが、2人だけで酒は飲めない関係ですね」(常富氏)