就任2年目で初出場の快挙
大学卒業後は故郷の香川に戻り教員となる。同時に国体やクロスカントリーなどのレースに出場していた。運命を変えるオファーがもたらされたのは、福島での大会を終えた帰りの新幹線の中だった。
「澤木先生から『山梨学院大学が箱根駅伝に出るために監督を探している、おまえどうだ?』と言われたんです。『山梨ってどこの大学?』と驚きましたよ。突然だったので返事は待ってもらって」
気持ちは固まっていたものの、病気を患う父親が心配でもあった。周りの人に相談すると十中八九反対された。上田さんの背中を押したのは、やはり父親だった。
「『おまえの顔にはもう行くって書いてあるぞ。俺の身体のことは心配しなくていい。恩師がおまえならできると言ってくれたことに対して、おまえちゃんと応えろ』って言うんです」
そして「泥水に顔を突っ込んだり強い向かい風にうずくまったりするかもしれないが、爪先が夢のほうに向いているか足元を見つめて踏ん張れ。その覚悟があるなら頑張ってこい」という言葉を送ってくれた。
'85年4月、26歳の若さで山梨学院大学陸上競技部の監督に就任する。文字どおりゼロからのスタートで、力になってくれたのが顧問の秋山勉さんだ。東京農業大学で箱根駅伝を4度走った経験があり、山梨県の陸上界で知られた人物だった。上田さんは「秋山さんに出会わなかったら山梨学院大学はここまで来られてないと思う」と感謝する。
「最初はグラウンドの環境も十分ではなく人集めも苦労しました。2年目に、後に漫画家になる高橋真ら20人くらいが加わり、箱根駅伝に挑戦しようという機運が高まっていったんです」
当時、秋山さんが長野県の車山高原でホテルを経営しており、そこを合宿所に。選手は練習が一緒になった箱根駅伝常連校に大いに刺激を受けた。
「自分の指導力というよりも、選手たちの気迫が集団の熱意となって結果につながったのだと思います」
10月の箱根駅伝予選会はギリギリ6位で突破を決めた。就任2年目の快挙だ。
「もううれしくて感極まっておいおい泣きましたね。いろんな人から祝福を受けたんですけど、そこに見知らぬ年配の方が来て言うんです。『地方の大学がよくやったね。今回限りだろうけど頑張ってよ』。ちょっと嫌みだなと思いましたが、その後『まだ予選会でリングに上がっていいよとなっただけ。本当の勝負って厳しいよ。今が満足と思っていると月だって欠けてくるからね』ってその人から言われて。これでハッとわれに返って涙も止まりました」
まだ先があるのだ。「驕(おご)るなよ。丸い月夜もただ一夜」。指導に当たって上田さんはこの言葉を大切にしている。
そんな初挑戦の箱根駅伝は、無念の最下位に終わった。