留学生の衝撃と念願の初優勝
初出場を決めた箱根駅伝予選会の1か月後、上田さんは秋山さんと一緒にケニアを訪れた。
「なぜアフリカの選手はあんなに強いんだろうという話をしていて、それなら実際に行って見てみようと」
クロスカントリーの大会などを案内してくれた現地の指導者の紹介で、ジョセフ・オツオリさんとケネディ・イセナさん、2人の留学生が来日することになる。
成田空港から山梨に来る途中、オツオリさんが日本で頑張るためのアドバイスを求めてきた。「記念すべきファーストアドバイスはきちんと守ります」と懇願する。
戸惑った上田さんは、小学生のときに熱中した剣道で、館長に「どうしたら強くなれるか」と尋ねたときの言葉を思い出す。
《いちばん早く道場に来て一生懸命練習して、練習が終わったら掃除をして最後に帰る。それがいちばん強くなる方法だ》
「それを簡単な英語で伝えたんですね。オツオリはアドバイスを忠実に守りました。早朝練習は6時30分からでしたが、すでに1人だけ汗をかいていて。誰よりも早く起きて練習をしていたのです」
するとオツオリさんと同部屋の選手が一緒に練習するようになり、2人が4人、4人が8人と増えていった。
「1人の留学生の真摯(しんし)な姿がチームに好影響を与え、目標に向かってベクトルが大きく動き出していきました」
集団の熱意は上昇気流となって山梨学院大学を押し上げていく。
3度目の出場となった第65回大会('89年)。史上初めてケニア人留学生が箱根路を走る。2区8位で襷(たすき)を受けたオツオリさんは区間賞の走りでトップに立つ。この7人抜きは「怪物」と称されるほどの衝撃だった。総合7位となり、初のシード権獲得。
翌年は終盤まで上位争いをして総合4位。次のシーズンは復路で追い上げて総合2位に。いよいよ頂点に手が届く位置まできた。
監督就任7年目のシーズン。出雲駅伝を初制覇し、全日本駅伝では2位という成績で迎えた'92年の第68回大会。2区のオツオリさんは1区5位から順位を上げるが、後ろから来た順天堂大学の選手に抜かれてしまう。
「実はオツオリは秋に膝を痛めて万全の状態ではなかったんです」
それをカバーしたのが一緒に来日したイセナさんだった。3区区間賞の走りでトップに躍り出ると、4区、5区も粘りの走りで往路優勝。
「オツオリがいないと駄目というイメージもありましたが、チーム全員がオツオリの分まで頑張ろうという結束力があったんです」
そして復路も順調に襷を運び、山梨学院大学がトップでゴールする。初優勝だ。
「はじけるような喜びを感じました。恩師の澤木先生が『おめでとう』とガッチリ握手してくれて、本当にうれしかったですね」
称賛や応援ももちろん多かったが、なかには「外国人を使うな」「日本文化を汚すな」と批判の手紙が寄せられたという。上田さんはそれを隠さずにオツオリさんに伝えた。
「オツオリは甲州弁で『そんなもん気にしちょ(気にしないで)』と笑い飛ばしたんですよ。『ケニアはもともとイギリスの統治下だったから差別は珍しいことじゃない。でも甲府には頑張れって応援してくれる人がいるから』って。逆にオツオリに教えられたような気がします」
その後、オツオリさんは'06年にケニアで交通事故に遭い、この世を去る。山梨学院大学のグラウンドには、先代の古屋忠彦理事長が建立したオツオリさんのモニュメントが建っている。