ストリップ劇場で過ごした青春時代

ストリップ劇場で修業していたジミー司時代(中央)
ストリップ劇場で修業していたジミー司時代(中央)
【写真】『お笑いスタ誕』で人気者となり、テレビに出始めたころのマギー司郎

 マギー司郎誕生前の修業の場となったストリップ劇場。現在のように、芸能プロダクションが主催するお笑いスクールがなかった時代に、ストリップ劇場はお笑い芸人の供給源のひとつだった。

 あのビートたけしは、漫才コンビ、ツービートとして浅草ロック座で修業を積んだ。渋谷の老舗の道頓堀劇場からは、コント・レオナルドやコント赤信号が誕生した。

「東京のストリップ劇場育ちの芸人はエリート。僕は温泉場の小屋が多かったからね」

 とマギー司郎は謙遜するが、「舞台が気遣いを教えてくれた」と、ストリップ劇場で育ったことに、ほんの少し胸を張り感謝する。

 劇場に足を運ぶ客は男性。目線は、踊り子に注がれる。ショーとショーの合間の20分が、ジミー司の持ち時間だった。1日4ステージ、金曜と土曜は深夜まで営業するため6ステージに増える。終演時間は夜中の3時を過ぎる。時計ではなく、レコードの枚数(シングル1枚が約3分)が時を告げる。踊り子のステージでは大きめの音を、手品のときは下げてもらう。

「最初は、ハンカチを華麗に使ったり、ハトを出したりする派手な手品に憧れていたんですけど、みんなみたいにはできないな、カッコいい手品師にはなれないな、と早めに挫折したのがよかったかなと思いますね」

 派手ではないネタを模索するがそう簡単には見つからず、たまにカードネタなどを試してもまったくウケない日々が続く。

「踊り子さんを見るのがメインで、間の時間つなぎが僕。お客さんの気持ちは痛いほどわかりますから、舞台に出た途端、『すみませんね、20分で終わりますから』って謝るようになりました」という、今に続く登場時の控えめな芸風はこの時期に芽生え、やがて確立することになる。

起こさないようにやる芸

「お客さんは7割方、夜中になると寝ている。だから、起こさないようにやる芸も覚えました。起きている人だけに向けてそっと芸を見せて、持ち時間を使い切る」という気の使いようだ。

 客のことを考え、ある日、舞台に新聞や雑誌を持ち込んだことがあった。

「楽屋にある新聞や雑誌を持っていって、舞台に置いて『読んでいてもいいんですよ』と呼びかけたんです。そうすると、結構取りに来た。演者が言うんだから、とお客さんも気が楽になり堂々と読む。20分の持ち時間を楽に過ごしてほしいという気持ちが、どっかで育ったんだよね」

 ストリップ劇場での仕事は、30歳過ぎまで14年ほど続いた。興行は10日間のときもあれば1週間、5日間とまちまちだったが、先々の仕事が次々に舞い込む。

 当初の日当は1日1000円。ひと月丸々働くと3万円になるから、バーやキャバレーの月給1万円を優に超えた。

 次の仕事先が決まると、片道だけのチケットが送られてくる。その次の仕事場がどこになるのかわからないから、手渡されるのは常に片道切符。

「ときどき仕事が途切れることがあって、そこが地方だったとしたら、東京までは自腹の電車賃で戻らないといけない。あれはキツかったですね」

 というマギー司郎は、ストリップ劇場で現金で受け取ったギャラの中から、契約どおりの仕事の紹介料20%を、旅先の郵便局から現金書留できまじめに芸能社に送った。

「食べ物は楽屋にたくさんあって不自由はしないし、楽屋で寝たり、ステージで寝たりできたので、宿にも困らない。楽しかったですね。女の人ばかりの姉妹の家に、末っ子の自分がひとり交じったという感じ。大家族的な雰囲気でした。

 お産婆さんが来て、踊り子が楽屋で出産することも2度ほど、経験しましたね。生まれると、みんなでワ〜ッて喜んで、フィナーレで踊り子全員がステージに出ると、僕があやしたりしていましたね。中にはヘビを使う踊り子さんもいて、夜中に楽屋で『ヘビが逃げた!』と大騒ぎになったこともありました。ストリップ劇場での暮らしは、僕の青春時代でしたね」

 マギー司郎の代名詞的ネタである“縦じま横じま”も、ストリップ劇場で誕生した。

「最初はね、ハンカチに糸やリールをつけて鮮やかに見せていたり、箱の中にしまうことで変化していると見せかけていましたけど、ある日突然、手のひらの中でいいや、と思って」

 と修業の成果でもなく、稽古のたまものでもなく、発見に近い形で“縦じま横じま”を手に入れたと証言する。

「1日4回もステージをやると感覚がおかしくなるというか、ハイになるというかそんな瞬間があって、神様がふと降りてきてあのネタができあがった感じですよね。コカ・コーラにハンカチをかけてペプシコーラに変わりました、ササニシキにハンカチをかけると、コシヒカリに変わったのわかります?とお客さんに聞いたりしてね。それがウケるようになったんです」

 おしゃべり手品の発芽だ。

 ストリップ劇場にはマイクがなく、それでも80~100人ぐらい入る客席のいちばん後ろにしゃべりを届かせるために、自然に声も大きくなった。見せるだけのマジックではなく、しゃべりを伴った手品。その芸の面白さが目先が利く興行主の間にも自然に知れわたり、やがて評判がジミー司を次のステージへと押し上げていくことになる。