最大の焦点は、大川小に津波がくることを教員たちが知り得たかどうか。判決は、市の広報車が呼びかけた時刻には予見できたと認めた。
津波襲来直前の7分間が悔やまれる。今野さんによると、裏山への避難も選択肢にあがっていたという。
「広報車が呼びかける前に津波警報が鳴り、ラジオ放送を聞いています。現場にいた教職員は、地域区長に“裏山は登れますか?”と聞いています。また津波で生存した教諭も教頭に“津波がくるので裏山に登りますか?”と進言したことがわかっています」
しかし、現場にいた教職員らが裏山に逃げることはなかった。
事前対策や事後対応についての責任
行政側の対応にも遺族は不満を爆発させている。
災害対応マニュアルの不備や津波想定の避難訓練の事前対策を怠った。生き延びた教諭と校長は、学校で連日行われた不明児童の救助・捜索活動へ参加しなかった。さらに市の教育委員会は、震災当日の現場状況を知るために児童から聞き取ったメモを破棄していたことも発覚。
しかし判決では、そんな行政側の不誠実な対応には触れられず、勝訴といっても遺族にとっては100%満足といえる判決内容ではなかった。
「原告としては納得できません。事前対策や事後対応について責任を認めていません。私たちの主張が認められたのは“遅くとも午後3時半には津波襲来を予見できたこと”と“裏山に逃げられたこと”だけです」(前出・今野さん)
また、判決を聞いた佐藤和隆さんは、他の原告の前でこらえきれずに涙を流した。
「納得いきません……。津波がくる7分前の広報車が呼びかけた時点で予見できたとなっていますが、もっと前に行動できたはず。いや、しなくてはならないでしょう。そのためには事前対策が必要なのに、判決では考慮されてない」
“勝訴 子供たちの声が届いた!!”と書かれた紙を持って法廷から出てきた原告団・副団長を務める佐藤美広さん(55)は、3年生の長男・健太くん(当時9)を亡くしている。表情は硬かった。
「“(裁判長は)自分たちを見てくれていた”と思ってホッとしましたが、勝ってよかったという気持ちはありません。宮城県は地震が必ずくると言われていました。教職員は防災の研修もしています。警報が出たのですから、それなりの行動をとらないといけないはずです。津波がくるのになぜ川の堤防に近づいたのでしょうか」
国の地震調査研究推進本部の長期評価によると、宮城県では30年以内の海溝型地震(連動型の場合はマグニチュード8・0)の発生確率は99%という結果が出ていた。事前準備で不十分な面があったのは明らかだ。
避難場所について大川小の災害対応マニュアルには、津波の場合の避難先は「近隣の空き地・公園」とある。校長は証人尋問で「体育館裏の児童公園」と証言した。
「そのとおりに避難もしていません。避難していれば(目の前の)裏山に逃げることができたはずです」(前出・佐藤美広さん)
と残念がるが、その思いが通じたのか、判決は学校側の責任を認めた。佐藤美広さんは仏壇に判決文を置き“これで(健太くんと)一緒の墓に入れる”と安堵したという。
遺族のひとりである今野さんは、仏壇の前で大輔くんにどんな話をしたのか。
「手を合わせましたが、報告するものはないわけさ。判決では、避難できなかった理由がわかりません。事前対策や事後対応のことも指摘していません。今後も避難の検証はしていくしかないです」