「父親が藤間流の師匠でしたが、踊りはあまり好きじゃなかったね。橋幸夫さんの大ファンで歌の方面に行きたいと思っていたんです」
昭和38年、永田はまだ8歳だったが、劇団に所属して、すでにいくつかの舞台を経験していた。もう半世紀も前のことになるが、その日のことは今でも忘れないという。ある日、永田はミュージカル『王様と私』で第一王子を演じていた。舞台が終わって控室に戻ると、会ったこともないひとりの男性が待っていた。
「なんて声をかけられたかハッキリとは覚えていませんが、“ユーいくつ? 『ジャニーズ』って知ってる?”みたいな感じでした。僕が、どうやって歌手になろうかと考えているときにジャニーさんが舞台を見に来てくれたんです」
東京オリンピックを翌年に控え、日本は好景気に沸いていたころである。音楽の流行はますます洋楽志向になっていく中で、
「『ジャニーズ』って非常にカッコよく映るんです。今でいうEXILEかな。そのころの日本の流行歌は演歌か歌謡曲で、それに対してビートルズやストーンズが洋楽ですよね。そっちもいいかなと思っているときでした」
ジャニー氏に「今度、遊びに来なさいよ」と言われた永田は、投げられた言葉どおり遊びに行って、いつの間にかジャニーズに入っていたという。遊び気分で出かけた永田であったが、そのときからエンターテイメントの世界の洗礼を受けることになる。
「『ジャニーズ』がライブをやっているジャズ喫茶に行き、彼らのライブを見たら、憧れていた橋さんとは全然違う。橋さんも大人から子どもまで人気があったけど、キャーッて歓声は上がらない。どこかビートルズと同じような感覚でシビレてしまいましたね。これが『ジャニーズ』かって」
『ジャニーズ』に感銘を受けた永田だったが実はまだ小学校の低学年だ。しかし、今の小学生ではありえない毎日を送っていた。
「学校なんか大嫌いで、早く大人にならないかとずっと思ってたね。見るもの、聞くものに興味津々。マセガキだったから大人のエンターテイメントの世界が楽しかったね。一流の人たちと一流のショーを見て、それに出演して、どうしようもなく楽しかった」
当時はまだ『フォーリーブス』の名はなく、メンバーは永田と北公次、後に『ワイルドワンズ』に入った渡辺茂樹ともう1人。渡辺ともう1人が抜けて、江木俊夫とおりも政夫が加わった。
「レッスンは相当やりました。コーちゃん(北公次)は和歌山出身なんだけど、伊勢湾台風で家が全壊しちゃった。それでお兄さんはダンプの運転手をやり“自分だけ学校に行ってられない、なんとしてもお金を稼がなきゃ”と強い意志を持っていました」
北は一番年上で、リーダーでもあったから、その意気込みはハンパじゃなかったという。一方の永田はとにかくレッスンが嫌いで仕方なかったというが、
「みんながやるから、つられてやってましたね。とにかく新しいブームを作るんだという気持ちでいっぱいで、1日中歌って踊っていました」
彼らの踏ん張りはすぐに形となって現れた。『フォーリーブス』は『ジャニーズ』をしのぐ人気グループとなる。しかし、テレビ番組のレギュラーが決まり、さあこれからだというときに、永田に試練が訪れる。
「僕はまだ小学生でしたからね。当時の児童福祉法が今より厳しくて、子どもは夜の生放送番組に出演できなかったんですよ。それでその後、ソロでデビューしたんです。それでも楽しい時代でした」
仕事とか、お金とかを意識することはなく、思いっきりエンターテイメントの世界を楽しんだという永田だが、ジャニー氏から得たものは多いとも。
「ジャニーさんの口から諦めの言葉を聞いたことがないです。仕事のときだけじゃなく、どんなときも“大丈夫、ジャニーがついているから” “ユーたちは大丈夫、バッチリだよ”って。それで、僕も絶対に大丈夫という気持ちでやってこれました」
今月、還暦を迎える永田は、昨年、37年ぶりにCDをリリースしてレコード大賞の企画賞を獲得した。
「僕はいつも思うんですが、ジャニーさんたちって、ないものを自分たちで作って時代をリードしてきたんです。僕らはその背中を見て育ってきたから、その感覚を少しでもいただけたのかなと。だから間もなく60歳になるんだけど、素敵な日々を過ごせたなと思うんです」