松山ケンイチ主演のドラマ『ど根性ガエル』(日本テレビ系)が本日最終回を迎える。ドラマの放送を追うようにして、週刊アスキーWEB版で『ど根性ガエルの娘』という漫画の連載が始まっている。
「えっ! ピョン吉に娘がいたの?」
いやいや“娘”というのは『ど根性ガエル』の作者である吉沢やすみの長女・大月悠祐子のことである。そして『ど根性ガエルの娘』とは《名作マンガ『ど根性ガエル』大ヒットの陰に隠された家族の再生物語》なのだ。
大阪万博が開催された昭和45年。『週刊少年ジャンプ』(集英社)でギャグ漫画『ど根性ガエル』の連載が始まった。Tシャツに張りついた“平面ガエル”のピョン吉と、そのTシャツを着た中学生ひろし。
そんな彼らを取り巻く人たちのドタバタ劇。無名の新人が描いたこの連載は、開始から間もなく大人気となり、当時の『ジャンプ』を代表する作品となった。
その後、2度にわたりアニメ化もされ、毎週放送日には子どもたちがテレビの前を陣取り笑い転げたものである。
作者の吉沢やすみは当時20歳。人気漫画家・貝塚ひろしのアシスタントであった。
「アシスタントを始めて1年たっても漫画家としての技術が上達しなかったみたいです。でも、貝塚先生は父を連れ出して、よく喫茶店でお茶を飲んでいたというんです」(大月)
それは、キテレツな発想をする吉沢の才能に気づいた貝塚が、アイデアに行き詰まったとき、吉沢との会話から何かヒントを得るためだった。 “平面ガエル”という奇想天外なキャラクターについて、後に吉沢の結婚式に出席した故・手塚治虫さんは、こう賛辞を贈ったという。
「自分もいろんなキャラを作ったが、平面ガエルは思いつかなかった。すごい発明」
その後、貝塚の後押しもあってプロデビューがかなった吉沢は、人気漫画家の仲間入りを果たすと、23歳にして一戸建ての家まで建てた。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。新たなヒット作が出ないばかりか、プレッシャーから漫画自体を描けなくなってしまう。
そして、ここから吉沢と家族の苦難の旅が始まる。昭和57年の秋、大月が8歳のときだった。
「仕事場へ向かおうと家を出た父は、まるで夢遊病者のようになり、気がついたら池袋の雑居ビルの屋上にいたというんです。そして下を眺めながら、靴下を脱いで落としてみたんですね」(大月)
ヒラヒラと舞いながら暗闇に吸い込まれていく靴下を見つめて、一瞬だが吉沢は、自分もこうなったら楽だろうなと考えたという。しかし次の瞬間、われに帰る。
「自分は何をしているんだろうと怖くなった父でしたが、ジーパンの後ろポケットに手を入れたら3万円があったそうなんです。それを握りしめ、よしギャンブルをしに行こう、負けたら家に帰ろうって思ったそうです」(大月)
そして吉沢は失踪。当時の吉沢は連載3本、読み切り10本を抱えた売れっ子。このままではすべての原稿が落ちてしまう。
「母は必死に父を探しました。考えられる立ち寄り先はすべて当たり、新聞に身元不明人の死亡記事が出ると、確認をしに警察にも行きました」(大月)
しかし、吉沢の消息は一向につかめず、数か月がたとうとしていた。当然、13本の原稿はすべて落ちた。
「父は勝負師だったんですね。ギャンブルはパチンコや麻雀でしたが、勝ちまくったそうです。手持ちのお金が少なくなって、これで負けたら帰ろうと思っても、またドカンと勝ってしまったそうで」(大月)
八方手を尽くして探しても見つからない吉沢に、家族はあきらめかけていた。そんなとき、吉沢の妻・文子さんの親戚に不幸が。実家に帰った彼女に、何も事情を知らないはずの兄がすべてを察したかのように、こう言ったという。
「文子、やすみちゃんを責めちゃダメだぞ」
その言葉を胸に抱いて帰宅したそのとき、吉沢から電話があった。受話器の向こうで何も語らない吉沢に、
「母はひと言“あなたね。帰ってきて”とだけ言いました。後になって聞きましたが、あのときの伯父の言葉があったからこそ、母はすべてを受け入れることができたんです」(大月)