初夏だというのにセーターが恋しいような気温の6月某日の北海道札幌市──。
だが、ここ豊平区の福住(ふくずみ)の旧月寒(つきさむ)グリーンドーム特設会場は、人々の熱気で沸き返っていた。お目当ては、『奇跡のホワイトライオン世界猛獣ショー 木下大サーカス』。北海道での公演は、実に5年ぶりだという。
2000人収容の真っ赤なテントのその中では、「レディス&ジェントルメン! 奇跡の大サーカスの始まりです!」とのアナウンスが流れ、観客の期待感をいやがうえにもかき立てる。
照明がスッと暗くなり、ミラーボールのきらめきと、鞭のように飛び回るレーザービームに目を奪われていると、純白の衣装をまとった女性が現れ、バレエと新体操をミックスしたような、幻想的なパフォーマンスを開始した。夢の世界、非日常の始まりだ。
観客からの割れるような拍手の中、観客の様子をうかがい、演技者たちの調子を確かめる男性が1人。木下サーカスの社長・木下唯志(ただし)さんだ。
木下さんが言う。
「決して諦めず、人のできないことをやろうと。ビジネスには情熱がなければいけない。これまでそう思ってやってきました」
年間動員数120万人。
観客であふれるこの会場からは想像もできないが、かつては10億円もの借金を抱え、廃業寸前にまでなった。3年間もの長きにわたり、闘病生活を送った経験もある。
そんな木下さんの、決して平坦でなかった情熱の半生とは──?
◇ ◇ ◇
木下唯志さんは、明治35(1902)年の創業以来、115年続く木下サーカス2代目社長・木下光三(みつぞう)さんのもと、岡山で生まれた。
「私は次男坊でしたからね。幼稚園のころだったかには、“兄貴(故・光宣[みつのり]さん)が団長になるんなら、自分は副団長になる”。そんなふうに言っていたらしいです」
そんな木下さんは長じては明治大学経営学部に入学。同時に体育会剣道部に入部した。
「剣道の経験? まったくの初心者でしたよ。明治の剣道部といったら名門で、それを知っていたら入っていません。ところが4月8日、新入生がイガグリ頭で学生服着て歩いていると、部活の勧誘で連れて行かれるわけですよ」
当初、連れて行かれたのは拳法部。ところが、その隣では剣道部が合宿をしていた。
「見ると紺の胴着で、みんな玉の汗を流して頑張っている。“これはいいな”と。それで門を叩いたんです」
警視庁の主席師範を指導者にいただいていた名門剣道部での毎日は、極めて厳しいものだった。猛稽古の合間には、新入生は道場の掃除などはもちろんのこと、風呂場では先輩の背中を流すなど、さまざまな雑用をこなさなければならない。
そんな中でも本人のやる気とよき指導により、経験なしで入部した木下さんもメキメキと剣道の腕を上げていく。わずか1年で初段に、2年で二段、3年生の時には三段に合格するほどになっていた。
大手都市銀行か? 家業か?
懸命に稽古に励めば雑用も率先してやる。そんな木下青年に目をとめた人がいた。明大の西功就職課課長である。
「“キミは成績もいいし、剣道部でもよくやっている。都市銀行に就職してみてはどうか?”と、住友銀行と三和銀行を紹介してくれたんです」
さっそく面接を受けたが、住友銀行はお堅くて、どうも肌に合いそうもない。それで三和銀行も受験したところ、入行が内定した。
ところが、その入社前健康診断でのことだった。
「当時は東大から始まって、京大、早稲田と、健康診断を受けるにも序列があった。どこの企業でも同じだったんでしょうけど、最初から序列なんて、つけるべきではないんじゃないかと思いました」
(人にはさまざまな才能がある。学歴はそんな才能のひとつの表れにすぎないのに……)
木下さんは、そんなふうに感じたという。
指に刺さった小さなトゲのように、ちくちくと心を刺激する疑問……。そんな10月、郷里・岡山から思いがけない知らせが届いた。父親の2代目社長・木下光三さんが、腎臓結石で入院したとの連絡であった。
実は内定を受ける前の6月、父・光三さんから都市銀行入行を考え直すよう、引きとめられたことがあった。
「今はともかく、当時の大手企業は学歴一辺倒。学閥もあれば、出世ラインというものもある。そんな状態で入社しても部長どまりだろうと言うんです。私は入る以上、トップを目指したいと思っていた」
とはいえ入行すれば、部長にはなれるに違いない。名だたる大銀行の部長である。なんの不足があろうか。さらにここで入行を辞退すれば、母校の就職課にも迷惑をかけるに違いない。心は千々に揺れ動いた。だが家業に入れば、努力次第では木下サーカスを世界ナンバーワンのサーカスに、すなわちトップを目指すこともできよう。
「人生は長いようでいて短いかもしれない。親不孝しないで家業に戻ろうと。それで三和銀行の内定を辞退。人事部に手紙を書いたんです」
昭和49(1974)年、木下さんは木下サーカスに入社。宝塚では『ベルサイユのばら』が初演され、元祖夏フェスともいわれる『吉田拓郎・かぐや姫コンサート・イン・つま恋』が初開催されるその前年、エンターテイメントの世界が大きく動き出す直前の時代のことだった。
空中ブランコのスターフライヤーに
木下さんが入社した当時のサーカスといえば、団員は丁稚奉公でもするようにして弟子入り、芸を身につけていくような状態。そんな中に飛び込んでいった、当時はまれなこの大卒社員は次々と思い切った改革に取り組んでいく。
「私が入ったころは365日休みがなかったんです。だから私は父に言いましたよ。“休みのない会社なんて、会社じゃない”と。それでようやっと週休になったんです」
同時に新入り団員の1人として、下積み仕事も志願した。
「剣道部に入った時のようにいちばん下の仕事からしたいと言ったんです。体育会の剣道部で育っているから、社長の息子とか言われるのが嫌いなんです。ひとりの人間としてのスタートラインを求めたかった」
“サーカス団のいちばん下”として担当したのはゾウの世話係。平たく言えばフンの始末をする係である。
「これは激しいですよ。(ゾウはフンを)山のようにするからね。朝4時に起きて、約1時間半かけてゾウ3頭分のフンをスコップで外に出す。かなり臭いし、そのにおいが身体につくし(笑)」
そんな24歳の5月、団員としての方向を決めた。
「空中ブランコをやってみたいな、と思ったんです。剣道がいいなと思ったのと同じように、カッコいいなあと思ったんでしょうね」
どうもさわやかで、それでいてひたむきな努力が必要なものに惹かれるたちらしい。
さっそく練習場を作ってもらい、連日猛練習に打ち込んだ。
「揺りの練習からするんですが、自分の体重を支えながら揺れるのって、大変なことですよ。手の皮がむけて、血だらけになりますから」
とはいえ木下さんはわずか1か月という驚異的なスピードで技術をマスター。空中ブランコでも花形の、空中を華麗に舞うフライヤーとして、翌月には大観衆の前での初舞台を成功させた。
「デビューの時の感想? 恥ずかしかったですね。でも日曜なんかでお客さんが多いと気分がよかったですよ(笑)」
社長である父からは頼りにされ、サーカスの花形として喝采を浴びる毎日。さらには入社前、大学生時代に1年休学、ヨーロッパのサーカス視察に励んだことがあった。
(自分は世界最先端のサーカスを知っている。ほかならぬ自分自身がこの腕で、木下サーカスを世界ナンバーワンのサーカスにしてみせる!)
若さゆえの気概と驕(おご)り。
ところが、そんな入社3年目、26歳の時のことだった。
「ブランコから落ちてしまった。足からネットに落ちたんだけど、首の第7頸椎(けいつい)を損傷してしまったんです」
当時のネットは弾力もなく、漁網とたいして変わらず、硬い。もしも首から落下していたら、その場で即死してもおかしくない状況だった。
“言霊”の力に目覚める
不運はさらに続いた。
事故後、風邪をこじらせた。迷惑をかけたくないと無理に出演し続けていたところ、重い肺炎を患ってしまったのだ。
急きょ、地元・岡山の病院に入院するが、一向によくなる気配を見せない。
「常に37・5度から38度の微熱があって。身体がダルくて仕事ができない」
入退院を繰り返していたある日、ひとつの記事が目にとまった。奈良・信貴山にある断食修行道場の記事であった。
「そこに行くとどんな病気でも治るというんです。藁(わら)にもすがる思いで、もう一目散に行きましたよ」
用意された断食道場の大部屋には、末期がん患者から精神疾患の人まで、現代医学から“もう治らない”と見放された人びとが一縷(いちる)の望みをかけ、日本中から集まっていた。
道場では仏教の修行をしつつ、道場についた翌日から減食(食事を減らしていく)を始め、その後10日間の本断食を行う。復食(食事を徐々に戻していく)を含めれば、25日間にも及ぶ修養である。
だが積もり積もった不養生からの回復は、たった1回の断食ではカバーできない。
半年おいて、さらにもう1度。計6回3年間の断食修行を行うと、行うたびに元気になっていくのが感じとれた。気がつけば、微熱がなくなっただけでなく、考え方にも驚くような変化が表れ始めたという。
「“言霊(ことだま)”っていうものの存在に気がついたんです。言葉には力があって、よい言葉を言えばよいようになるし、悪い言葉を言えば悪いようになる。同じようにいいことを願えばいいことが起こるし、悪いことを願えば悪いことが起こるんだとわかったんです」
断食道場の先生に教えられた言霊の力。入門当初は信じるどころか、あきれ果ててさえいたという。
ところが断食を続けていくと、重ねるごとによい言葉に自身の身体が反応、細胞が喜んでいるのが感じとれた。
「人にはねたみとか百八つの煩悩があるといわれています。そうした悪い発想を持っていると、細胞が悪い方向にいって病にかかるんだと。そうはっきりとわかったんです」
原因不明の微熱は、慢心し、周囲への感謝を忘れた自分自身が作り出したものだったのだ。
“感謝と初心を忘れずに、常に鍛錬、そして情熱──”
以来、これが木下さんの座右の銘となる。
3年間の闘病を経て現場復帰。とはいえ痛めた身体では空中ブランコへの復帰は難しい。今度は営業職を選んだ。
生まれ変わったように元気に仕事に励む木下さんに、3代目社長を務めていた兄・光宣さんも、父・光三さんも目を細めて喜んでくれていた。
暗いトンネルを抜け、ようやっと光が差し込み始めたと思えたそんな平成2(1990)年2月26日、木下さんは思いがけない知らせを聞く。
最愛の兄を亡くし、第4代社長に就任
それは岡山の英会話学校でのことだった。
前述した大学時代のヨーロッパ視察旅行の前、木下さんは英語の語学学校に通っていたことがあった。商社マンを夢見てのことだったが、そこでマスターした英語がヨーロッパでもおおいに役立った。
そうした経験もあり、当時、木下サーカスで常務の役職を務めながら地元・岡山で英会話学校を経営するという、二足のわらじをはいていたのだ。
「その学校に、急に電話が入ったんです。兄の光宣が脳幹出血で倒れたとの連絡で、私が行った時にはすでに、意識はほとんどない状態でした」
さかのぼること2年前の昭和63(1988)年4月、瀬戸大橋が完成して瀬戸大橋博覧会が開催された。木下サーカスもそれに協賛、3月から8月まで香川県で公演を行っていた。だが、これが予想外の不入り。光宣さんは3億円の負債を抱えてしまっていたのである。
「英会話学校の経営で私の手が半分取られていますから、兄貴が営業に困っていたのも事実だったと思います」
人気回復を図ろうと、光宣さんが中国に新団員を招聘(しょうへい)しに行ったのもいけなかった。
「事業で中国に行くと、乾杯、乾杯が続くでしょう。あんまり飲めないのに飲んだんでしょうねえ……」
後日わかったことがある。
光宣さんの懸命の努力にもかかわらず、倒れた時には負債は10億円を超えるほどに。さらには光宣さんが倒れたのは、銀行のトイレ内。姫路公演のための資金を借りようと、出かけた際の出来事だったのだ。
最愛の兄は危機的状況にあったが、一刻の猶予も許されないほど経営状態は厳しい。同年7月、木下さんは取るものも取りあえず社長に就任。88年続いた(当時)名門サーカス団とともに、10億円の負債も引き継ぐ身となった。
給料がたびたび遅配されるような状況に、団員たちが、次から次へと辞めていった。
「社長になったけど、何もできません、こっちは。みんな志気がないし、会社の中は真っ暗だし。さらには税理士も、“このまま続けて毎年1億ずつ負債を重ねていけば、担保に入っていた木下家の家も土地も失ってしまいます”と」
事実上の廃業勧告であった。
だが、木下さんは首を縦に振ろうとはしなかった。
「明大剣道部の時の不屈の魂というか、絶対に負けないという気持ちが湧き上がってきたんですね」
助けは身近なところからやってきた。
「兄は姫路公演をやろうとして倒れた。それを成功させたいと父・光三に相談したら、“姫路城の前でやれ!”と言うんです」
姫路市市民の誇りであり、姫路の代名詞ともいうべき場所での興行。話題にならないわけがない。名プロモーターの面目躍如ともいうべきアイデアだった。ところが……。
「姫路城の大手前公園に行ったら、地下駐車場ができている。サーカスの器材は大型なものが多いので、地下駐車場だと搬入のトラックが入れません。父にそう言ったら、“それでもここでやれ”と。それで200トンのクレーンで荷物を手前で下ろし、最後はコロを使って会場まで運び込んだ」
父・光三さんの興行師としてのカンと、木下さんの執念が実現させたこのもくろみは見事、大当たり。平成2(1990)年の姫路城大手前公園での公演は、大ヒットを記録した。
だが翌2月28日──。
最愛の兄・光宣さんが死去。享年45歳だった。弟が立派にやれることを見届けたかのような、そんな旅立ちであった。
ショーアップされた国際派サーカスに
悪いことは続くものだが、いいことも続くものらしい。
その後の東京公演、仙台公演と次々と大ヒットした。その要因を木下さんはこんなふうに言う。
「諦めないということと“人のできないことをやろう”という情熱や意欲。そしてご縁に恵まれたことにもあったと思います」
ゾウのショーは今も昔も子どもたちに大人気の演目だ。だが当時すでにゾウはワシントン条約の規制で、輸入するのが極めて難しくなっていた。
「ところがシンガポールの動物園に行くと、タイのスリンにつてのある人物がいるからと紹介してくれ、日タイ友好のシンボルとして3か月間だけ貸し出してくれることになったんです。私はそうした人と人とのいい縁がつながれているように感じています」
木下さんはショーで得た収益の一部をタイ本国に送り続け、1999年にはその総額が1千万円に到達した。このお金はゾウの病院『キノシタ・エレファント・ホスピタル』として結実。ミャンマーとの国境地帯で地雷を踏み、傷ついたゾウたちの治療とリハビリの貴重な場所となった。“ゾウたちへの感謝の念を忘れなかった”わけである。
辞めていった団員たちの補充にも、新機軸を打ち出した。
ロシアをはじめとする海外からアーティストを積極的に招聘、さらなる国際化を進めていく。演出方面にもぬかりはなかった。宝塚から振り付けの先生を招聘、サーカスそのものの演出家も、海外から招いた。
さらに木下さんは、会場そのものにも改良の手を加えていく。大テントの高さや材質などヨーロッパのサーカスの基準を取り入れ、観客が快適で、見た目も洗練されたものに変更していったのである。
次々と繰り出される取り組みに、ショー全体が明るく華やかなものにブラッシュアップされていく。
こうした改革に、観客たちも敏感に反応した。“サーカスって昔とはずいぶん変わったね”“ショーとして実に洗練されている”。噂が噂を呼び、観客が観客を呼ぶ。
注目が高まるにつれ、サーカスは体操や新体操で優秀な成績を残した学生たちの憧れの職場となり、木下サーカスの入社倍率はなんと30倍を超えるほどに。そこにはジンタのリズムに代表される、どこか湿っぽくて怪しい、かつてのサーカスの姿はどこにもなかった。
気がつけばわずか10年で、10億円の負債はすべて返済されるまでになっていた。
◇ ◇ ◇
ここでちょっと、サーカスの現場に戻ろう。
ショーは吊りロープや布を使ってのパフォーマンス、イリュージョンやはしごを使っての妙技、そしてこのサーカスの一番の呼び物、世界で300頭しかいないというホワイトライオンの猛獣ショーへと順調に進んでいく。フィナーレを飾るのは、大小4つのブランコで2組が華麗に宙を舞う『ダブル空中ブランコ』。
そして、この空中ブランコで、スリル満点の『目隠し飛行』を行っている人物が木下英樹さん(38)。実は木下さんの次男である。
英樹さんが父と過ごした子ども時代を振り返る。
「子どものころは“お父さんは時々帰ってくる人”という感じでした(笑)。(公演で)父は1か月に1度帰ってくることもあれば、海外公演などで2~3か月帰ってこないこともありましたから。
でも、岡山で英会話学校をやるようになってからは、月に半分は岡山の家にいましたから、日曜日は朝イチ、5時過ぎに起きて、6時発の新幹線に乗る父を見送ろうと一緒に岡山駅のホームまで行ったりもしましたね」
順調な事業運営の陰に賢妻あり!?
さて、そんな父・木下さんは現在も昔と変わらず、家と公演場所を行き来する毎日を送っている。が、そんな多忙な毎日でも、昭和41(1966)年に結婚した青森出身の妻、恵子さんとは、今も相思相愛であるらしい。
英樹さんが2人のこんな姿を証言する。
「駅の階段を上がる時でも、社長みずからが手を引いたりして。すごく仲のいい2人です(笑)」
恵子さんとの、情熱的な恋のエピソードが残っている。
恵子さんとは大学時代の友人の紹介で知り合った。とはいえ、木下さんといえばサーカス団の団員として公演から公演の旅暮らし。木下さんが当時を思い出して言う。
「弘前の公演のあとは盛岡、それから仙台と、公演先で会うわけですよ。それで仙台の公演の時に、青森にいる恵子と盛岡で会おうということになった。11月の末のことでした。ところが雪が降って、私の乗った仙台からの汽車がぴくりとも動かない」
デートをキャンセルしようにも、携帯電話など影も形もない時代である。木下さんは5万円かけ、仙台から何台ものタクシーを乗り継ぎ、恵子さんの待つ盛岡まで出かけた。大卒初任給が7万円程度だったころの話である。
タクシーが盛岡に着いたのは夜中の1時。酔客がくだを巻く中、恵子さんは降りしきる雪に埋もれるようになりながら、木下さんの到着をじっと待っていてくれたという。
こんな木下夫妻を理想の夫婦と語る人がいる。木下サーカスで演技助監督を務める、千葉るみさん(49)だ。
「普段の何気ない会話でも、社長が冗談を言うと、恵子さんが割れんばかりの笑顔で笑うんです。すると場が和んで盛り上がるんですね。恵子奥さまはいわば孫悟空のお釈迦さま。奥さまのほうが手のひらの上で孫悟空(木下さん)を転がせているんです(笑)。懐の大きな女性ですよ」
ぜひともお話をうかがいたいと恵子さんに取材をお願いしたが、表には出たくないと断られたのが残念。だがそんな昔かたぎの妻がやさしく見守る中、木下さんが力を込めて言う。
「団員みんなで力を合わせ、モンテカルロ・サーカスフェスティバルでのゴールドメダルを取ることが目標です!」
『モンテカルロ・サーカスフェスティバル』とは、高級リゾート・モナコ公国で年1回行われるサーカスのオリンピックともいわれる祭典のこと。ここでの優勝は、サーカスの世界では最高の栄誉とされている。なんとしても、ここでの優勝を勝ち取りたいと語るのだ。かつての“自分自身がこの腕で”ではなくて、団員みんなで力を合わせて。
木下サーカスは団員全員が主役となって、世界ナンバーワンサーカスを目指す──!
取材・文/千羽ひとみ
せんばひとみ ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。『人間ドキュメント』取材のたび、「市井の人物ほど実は非凡」であると実感。その存在感に毎回、圧倒されている。