お父さんの名前は六輔ではなく孝雄

 テレビの創成期から活躍し、あらゆるメディアを通してお茶の間に夢、笑い、愛、明るさをもたらした昭和の才人、永六輔氏。2016年の彼の死は、ひとつの時代が終わったことを象徴するものでした。そして本書『父「永六輔」を看取る』(宝島社)を手に取った人は、少なからずかつての華やかな交遊録、楽しいエピソードなどを期待しながら、ページをめくるのではないでしょうか?

 しかし、“はじめに”の部分を読むだけで、それは誤解だと気づきます。

「タイトルの名前部分に、カギカッコが入っているじゃないですか、これ、無理やり入れてもらったんです。この本は永六輔の話じゃなくて、本名・永孝雄の話ですから。私の父は確かに“六輔”という名前を持っていましたが、私にとっては“孝雄”でしかなかったと、改めて確認するために書いたんです

 そう微笑みながら語るのは、永六輔氏の長女で、映画エッセイストとして活躍する永千絵さん。千絵さんは自分の父親が有名人であることに、ずっと違和感を持っていたそう。

永千絵さん 撮影/廣瀬靖士

「私、『お父さん、この前テレビに出ていたね』とか『すごい人だね』なんて言われるの、すごく抵抗があったんです。だって父は普通の人ですから! “私にとっては”父の姿を雑誌の写真やテレビで見るたびに『これは永六輔であって、私の父ではない』という思いがずっとありました」

 小さいころは、「私のお父さんってどこにいるんだろう」とまで感じていたという千絵さん。

「そんなこと思うなんて、私、みなしごみたい? あっはっは、そうかもしれない! でも父が体調を崩して、私が手助けできるかもと思ったときに、『あ、この人は父親なんだ』って自然と思ったんですよね」

 この言葉でわかるように、本書に書かれているのは、東京のとある町に住んでいた老父・孝雄と、娘・千絵の、日常を描いた物語。社会的には尊敬され、素晴らしい仕事をしていると評価されている父も、家の中では片づけのできない、病院嫌いで、大好物のアンコばかりを食べたがる大きな子ども。ときに切なく、ときにニヤリとしてしまう、父と娘のあるあるエピソードが続きます。

「父はひとりの大人で、死の直前まで非常にしっかりしていました。でも本の中では、例えば人間ドッグから逃げ出したり、極度のせっかちだったりなんて、たくさんカッコ悪いことを書いてしまって(笑)。何かを暴露するつもりはなかったんですけどねえ……ただ書きながら、『あら、普通のお父さんじゃない、この人』とは思いました」

介護を通して見えたたくさんのこと

 父を介護する日々は、父を取り戻す作業でもあったとも言えます。

「若いころの父は忙しく、ほとんど家にいなかったので、家族のように過ごすのが、私には新鮮でした。父が『千絵ちゃん、猫』と、テレビに映るペット動画を指さしたりしてね(笑)」

 家が近かったこともあり、毎日のように実家に通い、父と一緒に過ごした。

「歩行が困難な人がいたら、助けずにはいられないでしょう? それがたまたま父だったというだけで、私が『面倒見るぞ、介護するぞ!』という気合は、最後までなかったんですけどね。あと介護ってもっと大変な方がいっぱいいらっしゃるから……。私は妹がいて、夫がいて、子どもはもう独立していて状況が恵まれていましたし、『介護をしました』なんて大声で言うのは、おこがましい気がします」

 感動したのは、ヘルパーさんや訪問看護師さんの献身的な仕事ぶり。

「こんなに一生懸命やってくれるのかと、本当にありがたかった。聖職ですよね。今、聖職ってなくなったなんて言われますけど、ここにあったと思いました。こんなお仕事をしている人がいるんだと知り、世界が広がりました」

 しかし介護の行きつく先は、死です。千絵さんの介護の終わりの日も、突然やってきます。死の前夜、言語聴覚士に「あごの運動になるし、唾液もよく出る」とすすめられたスルメを父にしゃぶらせ、クタクタとなったところで「飲み込まないでね」と口から引き出します。すると父は「危ないね」と本人も驚くほどなめらかに発音し、その場にいた千絵さんの妹さんも含め、3人で笑顔になりました。そして翌日──父こと永六輔、本名・永孝雄さんは永眠します。83歳でした。

「前の晩まで本当に元気だったから、『え、死んじゃった?』って思いました。でも、あの家族だけで共有したスルメの時間のおかげで『あんなことがあったね』ってことしか思い出さないから、よかったのかな」

 父の死から1年、娘として今の心持ちは……?

「正直、わからないです。書くことでひと区切りはつけました。そして私には確かに父がいたと、確認させていただきました」

 本著を読み終わって思いました。孝雄と千絵の物語は、父と娘独特の、尊敬と「しょうがないんだから」という諦念、大きな愛がいっぱいだということ。永六輔氏を知っている世代も知らない世代も、ぜひ手に取ってほしい1冊です。

『父「永六輔」を看取る』永千絵=著 宝島社 1300円+税 ※記事の中で画像をクリックするとamazonの紹介ページに移動します

<著者プロフィール>
えい・ちえ 1959年生まれ。東京都出身。映画エッセイスト。永六輔(本名・永孝雄)の長女。成城大学文芸学部英米文学科卒。著書に『永家物語』(父・六輔、祖父・忠順との共著、PHP)、『いつもの場所で』『親子で映画日和』(ともに近代映画社)などがある。雑誌『SCREEN』(近代映画社)、カード会員誌『VISA』、朝日新聞などに連載を持つ。本書では父永眠までの10年間の介護の日々を綴った。

取材・文/中尾巴

◎取材後記
 私も父を持つ娘。本書を読みつつうなずきがとまりませんでした。そう千絵さんに伝えると、「『ありがとうトニ・エルドマン』というドイツ映画があるんです。困ったお父さんと娘の話なのですが、ドイツと日本なのに、こんなにも共通点があるのかと驚きます。すごいパーソナルな話って、普遍的なのかなと思いますよ」。まさにこの本に通じる1作ですね。さすが映画エッセイスト、そちらもぜひ見てみます!