スーパーなら1リットル198円。それなのに、この牛乳は720ミリリットルで、なんと税込み1188円。ひとくち飲んで、また驚いた。さぞや濃厚と思ったがさにあらず。実にさっぱりとして、いくらでも飲めてしまう。

 しかし、いくら美味しくても、1188円では、家族全員で毎日飲み続けられる価格ではないような……。

「牛乳を毎日飲む必要なんて、ないよ。カルシウムが足りなくなる? 日本には縄文の昔から続いている食生活があるでしょう。味噌汁、野菜、魚中心の食事を続けていれば、栄養のバランスのとれた食事はちゃんとできる」

 日本人にとり、牛乳は基本的に贅沢品と主張するのだ。酪農家が聞いたら目をむきそうなことを言う人物こそ、この『中洞牧場牛乳』を生産する中洞正さん(65)。

なかほら牧場牧場長・中洞正さん 撮影/吉岡竜紀

 この酪農家は、さらにこんなことを言う。

「牛乳は工業製品じゃないよ。経済動物でも、虐待を受けない権利がある。美味しく健康にいい牛乳は、幸せな牛からしかとれないんだよ」

 なかほら牧場に牛を繋ぐ牛舎はない。牛たちは岩手の山奥にある標高700メートルの牧場で、春から夏は野シバ、秋から冬は干し草を食(は)みながら、のんびりゆったりと暮らしている。

 朝夕2回の搾乳には、パンパンに張った乳房を楽にしてもらいたいと列をなして搾乳舎まで下りてくる。ご褒美にもらえるおやつのビートパルブ(サトウダイコンの搾りかす)や、焙煎(ばいせん)粉砕大豆もお目当てのようだ。

 1188円という価格は、こうした工業製品でない牛乳であればこそのものなのだ。

 中洞さんがつぶやく。

「生き物の牛の乳が、炭酸飲料の値段と同じってことのほうがおかしいんだよ」と──。

  ◇   ◇   ◇  

 酪農界のアウトサイダー、岩手の牛馬鹿(べこばか)こと中洞正さんは、1952年、岩手県宮古の佐羽根(さばね)という山深い地で、牛の売買をする仕事をしていた父・吉平さんと、母・セツ子さんの間に、5人きょうだいの長男として生まれた。

 そんな中洞少年の遊び相手といえば、吉平さんが商(あきな)っていた牛たちだった。

「小学生のころだったけれど600キロも700キロもある牛が言うことを聞いてくれたり。ちっちゃい子牛は犬みたいにじゃれてくるのよ。そんな牛たちの尻をついて、日がな一日、山で草を食べさせて。それで、小学5~6年ごろには、将来は牛飼いになるんだと決めていました」

小学校5~6年のころの中洞さん。このころから将来は酪農の仕事に進むと決めていた

 長じては遠野市にある県立遠野農業高等学校に入学したが、体調不良でわずか3か月でやめてしまった。退学後、今度は地元の定時制に入学するが、この高校もわずか1週間でやめてしまう。

 だが、ちょうどそのころ、父・平吉さんの仕事が破綻。出奔(しゅっぽん)してしまったのだ。

 生活に困った母・セツ子さんは中洞さんを連れ、埼玉県の深谷にあった牧場へ出稼ぎに行くこととなった。母子で牛の世話をするのである。

「その牧場には全部で100頭ぐらいの牛がいたの。当時の平均飼養頭数といえば2~3頭ってころの話よ。今ではみんな普通に使っているけど外国製のミルカーという搾乳機があって、牧夫が常に5~7人はいて。“すごい!”と思ったね。“これからの酪農はこれだ!”と思った」

 だが陰の部分にも気がついていた。多くの牛が、身体に問題を抱えていたのだ。

「牛にカスを喰(く)わせる“カス酪”や、“一腹しぼり”という言葉があるんです。

 牛は本来、草食動物で、反芻(はんすう)動物だから草を食べさせなければいけない。なのに豆腐カスなど、牛の生態から考えれば反自然的な残渣(ざんさ)をたくさん喰わせて、妊娠も1回だけ。だから乳はたくさん出るけれど、身体を壊す」

 しかし当時は、酪農とはそんなものだと思っていた。

「それで酪農をちゃんと勉強したいと、岩手に戻り、県立岩泉高校農業科に入学したんです」

「東京の大学へ行きたい」

 岩泉高校農業科には寮があり、新卒の先生が最初に赴任してくる学校だった。

「すると舎監といって、25 ~26歳の若い先生たちが順番に泊まりにきては、“東京の大学とはこんなところだ”という話をするわけ」

 そんな話に感化された中洞さんは、集団就職をして働きながらお金を貯め、東京の大学へ行くことを決意する。働き場所は、東京の赤坂にあった精肉店。社長が岩泉町の出身で、故郷の青年たちに住み込みで働いてもらいながら、進学の後押しをしていたのだ。

 午前は仕事、午後は勉強という毎日を続けながら目指したのは、麻布獣医科大学(現・麻布大学)の獣医学科。2年続けて受験したが、合格はかなわなかった。

 獣医を諦めた中洞さんは、東京農業大学農学部農業拓殖学科(現・国際食料情報学部国際農業開発学科)に入学する。

「入ってみていいところに入ったと思ったね。みんな夢を持っていて、目をランランと輝かせて語るような先輩や同期が、いっぱいいたんです」

 “アフリカで農業を普及させてみせる!”“俺はブラジルに渡り、大規模酪農にチャレンジしたい!”──。

 そんな夢を熱く語り合う毎日に、中洞青年もどんどんと影響されていく。研修で見た、北海道中標津(なかしべつ)での広大な大地での放牧にも圧倒された。

「あの景観に、“やっぱりこれだ!”と。でも翌日には、“俺もブラジルだよなあ”。とにかく岩手の山奥で、3~5頭での酪農なんかできるわけがない、と」

 ところが、大学2年のある日、校内で見つけた立て看板が人生を大きく変えることとなる。

 その看板とは、東北帝国大学で植物社会生態学を研究、“草の神様”といわれていた猶原恭爾(なおはらきょうじ)教授が監修した映画、『山地(やまち)酪農に挑む』の上映を告げるものだった。

中洞さんの「こー、こー(来ーい、来ーい)」の声に、自由気ままに草を食んでいた牛たちが次々に駆け寄ってくる 撮影/吉岡竜紀

 山地酪農とは、山地を利用する酪農をいう。急峻(きゅうしゅん)な山地での酪農を描いた映画だった。

「山と酪農って、全然結びつかなかった。私のようにへんに近代的で規模拡大を考えていた人間には、“そんなことありうるのか!?”と思った」

 映画では、傾斜角が35度以上もありそうな斜面を牛が元気に走り回り、野シバが作る緑の放牧地がまぶしかった。

「“こんなものがあるのか”と。それでもまだ半信半疑だったけど、山地酪農研究会というサークルに入って座学を受けたり、山地酪農をやっている牧場に見学に行ったり」

 この酪農に、すっかり魅了されてしまったのだ。

 大学への進学が少なかったこの時代、卒業して故郷へ帰ればエリートである。農協や役場に就職し、幹部候補におさまるのが常だった。

 ところが中洞青年は、こうした出世コースには見向きもしない。

「24歳で大学を卒業するときには、みんな(同期)の前でしっかりと言ってました。“(山地酪農を)俺がやらないで誰がやる! 俺はゼッタイにやるぞ!”と」

 だがそれは、苦労を背負い込むようなものだった。

国の補助金という甘いワナ

「牛飼い人生の第一歩は宮古市の実家で、叔父が見かねて買ってくれた牛1頭から。土地は他人名義になっていたけど、家屋敷は母親の名義でかろうじて残っていた。そこを借りてね」

 植林の下草刈りや鶏糞の取り次ぎ販売などをしながら、山地酪農ができる土地を探した。

 “どこかに勤めて、小さな酪農から始めてみては……?”

 エリートとなるはずだった息子を心配した母・セツ子さんから、そう言われたこともある。

 だが、山地酪農への夢は諦めきれない。

 そんな生活を5年続けた1981年、29歳のとき、ようやっと田老町の山奥に5ヘクタールほどの土地を借りることができた。

 電気も水道もなかったが、山地酪農へのまぎれもない第一歩。胸が高鳴った。山から切り出した丸太と拾ってきたトタン板を使い、住居を兼ねた牛舎を建てた。が、電気がないから牛乳は牛乳缶ごと川につけておくのが精いっぱい。せっかくの牛乳を出荷できず、捨てなければならないこともたびたびだった。

 当然、収入もままならない。年収といえば200万円以下。経費を引けば、手元に残るのは雀の涙ほど。だが、山地酪農研究会の後輩たちが見学を兼ねて研修にやって来る。弱音を吐くこともできない。

 後輩たちの前では“将来は20ヘクタールの土地を持つ”など強気の言葉を口にしながらも、将来への展望は一向に見えてこない。明るい話題といえば、妻となるえく子さんと知り合ったことぐらいなものだった。

29歳で持った田老町の牧場にて。住宅兼牛舎は、山から切り出した木材と、拾ってきたトタン板で作った

 そんな中洞さんのもとに、ある日、夢のような話が舞い込んできた。

『北上山系総合開発事業』という国の農業政策がそれで、県と市町村が事業主となり、入植者を探しているという。

 国の後押しのもと、入植者には1名につき50ヘクタール(採草地12ヘクタール、放牧地16ヘクタールと山林)の土地と新品のトラクター、巨大なサイロなどの最新設備が与えられる。投資額1牧場2億円のうち7000万円を入植者が負担しなければならないが、頭金すら不要だというではないか。

「とにかく現地を見てみるかと。北上山地って700メートルまで来ると山がなだらかになるのよ。牧場もひとかたまりで、“これしかない!”と思ったね」

 だが、山地酪農の提唱者・猶原先生の声も、頭をよぎった。

(補助金に手を出したら、山地酪農はダメになる─)

 手招きするような国の施策に乗るか、尊敬する師の言葉に従うべきか……。

 迷いに迷った末、中洞さんは入植を決意する。

 1984年、酪農を始めて7年目の31歳の春、現在のなかほら牧場のある上有芸地区に入植。牧場を、山地酪農に携わるすべての人と牛たちにとり桃源郷(楽園)のような場所にすべく、『桃源郷牧場』と名づけた。中洞さんの意気込みが感じとれる名前である。

 だが楽園は開業早々、行政との考え方のギャップに悩まされることとなる。

「血税を使い、補助金で建ててもらったような格好だから、行政は絶対に失敗させたくない。失敗させないためになにをするか? “ご指導”が入るわけですよ」

 農学博士や指導員と称する人たちが頻繁にやって来ては、野シバでなく栄養価の高い牧草を使用せよ、配合飼料を入れろと指導する。山地酪農の理想とは、正反対の指導ばかりだった。

「よく言われたのは、岩手県下では19戸入植したんだけれども、“いちばん頭数が少なくて乳量が少ないのはお前だ”と」

 だが、中洞さんのこんな苦労をよそに、現場では山地酪農の成果が着実に芽吹き始めていた。

 元気で食欲旺盛な牛たちが、山の下草を食い尽くしていく。

 やぶが消えた山林には日光が降り注ぎ、牛たちの落とし物を肥料にして野シバが茂り、山を緑のじゅうたんに変えていく。さらに牛たちは太陽と星空の下、自然の呼び声に従って交配し、健康で元気な子牛たちが次々に誕生した。

なかほら牧場の牛たちは牧場じゅうを自由に歩き回りながら草を食み、小川で水を飲み、疲れたら木陰でウトウトする。おそらく日本中でいちばん幸せな牛たち 撮影/吉岡竜紀

 7年後には、入植時16ヘクタールだった放牧地は30ヘクタールになり、牛50頭を有するほどになっていた。

(このまま続けていければ、猶原先生が言っていた酪農を実現できる! 国土の7割が山地という日本に合った酪農が実現できる!)

 行政からの“ご指導”に反発したり、ケンカをしたりしながらも山地酪農に燃えていた1987年、中洞さんを、いや日本の酪農界を大きく揺るがす出来事が起こった。

『ないしょの牛乳』で直販を開始

 当時の中洞さんはもちろん、現在も日本のほとんどの酪農家は、生乳を農協に出荷している。その受け入れ基準を乳脂肪分3・5%とし、それに満たない生乳は、買い取り価格を半値以下としたのである。

 配合飼料を使わず、自然放牧が基本の山地酪農では、年間を通して3・5%の脂肪分を保つのは難しい。草に水分の多い夏場は、どうしても低くなってしまうのだ。

「法的には3%でもOKなの、今でも。でも独占しているから、自由に設定ができるわけ。0・5%の違いなんて、飲んでも実際はわからないのよ。さらには脂肪をとりすぎる時代になって、メーカーはローファット牛乳なんて作っているのに、酪農家には、“脂肪分の高い牛乳を作れ”」

 この基準改正によって、北海道の放牧酪農は激減。本州の山地酪農にいたってはほぼ全滅してしまったと中洞さん。

「では方向転換して、牛舎飼いして配合飼料を喰わせるのか。やめるという選択肢はないわけですよ、7000万円の借金があるわけだから」

 悩み抜いた中洞さんは、乾坤一擲の勝負に出る。

「“消費者は、本当はどう思っているんだろうか?”と。狭い牛舎に詰め込まれ、身動きもできずにいる3・5%の牛乳と、自由に草を食べて健康に育った牛の牛乳のどちらがいいのか。そこでやったのが、『ないしょの牛乳』」

’94年、桃源郷牧場にて家族と。2男2女に恵まれたが、それぞれ独立。東京ほかで働いている

 牛乳を販売するためには、大がかりな製造設備がなければならないが、そんな余裕は当然ない。それでペットボトルに無殺菌の牛乳を入れ、販売したのだ。これは法律違反だから、ないしょにしなければならない。それで『ないしょの牛乳』というわけである。

 牧場主が知り合いに牛乳を分けるという体裁をとったこの牛乳は、宣伝はおろか口止めさえしていたというのに、猛烈な勢いで広がっていった。

 わずか1~2戸への宅配から始まった『ないしょの牛乳』は、噂が噂を呼び、その美味しさでまたたく間に評判となり、半年で120戸に販売するほどになっていく。

 1992年5月には、63度で30分の低温殺菌をしてくれる工場が見つかって、ようやっと正式に販売できるように。これを機に、牛乳の名称を『エコロジー牛乳』と命名した。

 食の安心・安全への意識が高まるなか、牛の健康にまでこだわったこの牛乳を、めざといマスコミが目をつけるのに長い時間はかからなかった。

 NHKが取り上げると、地元の岩手放送も追随。ついには櫻井よしこ氏がキャスターを務めていた『きょうの出来事(日本テレビ系)』が3回にわたって取り上げると、問い合わせが殺到することとなった。これをきっかけに、中洞さんは農協への納入をやめ、直販一本で行くことを決意する。

 さらには成長の可能性を感じとった地元銀行が融資を決定。1997年には田老町に牛乳工場を建てることができた。今でも最寄りのコンビニまで車で40分はかかる岩手の山奥での、見事なまでの事業展開であった。

 2003年には東北ニュービジネス協議会の『アントレプレナー大賞』を受賞。2005年には、母校から『東京農業大学経営者大賞』を当時の大澤貫寿学長から受け取った。OBとして、最高の栄誉である。

 苦労や紆余曲折はあったものの、めざましい活躍ぶり。

 だがここで、思いがけない挫折が中洞さんを襲った。

第2牧場と製造プラントをわずか9円で手放して

 アントレプレナー大賞受賞直後、東証アローズで投資家向けに事業のプレゼンテーションを行う機会があった。資金が欲しい起業家と、成長が見込める企業を探しているベンチャーキャピタル(資本家)を結びつけるのが、こうしたプレゼンの目的である。

 参加の理由を、中洞さんはこんなふうに語っている。

「志を持った酪農家を作りたかったの。ウチだけでなく仲間をいっぱい作ってその仲間で山地酪農をやれば、経済的にも自立できるということを示したかった」

 某ファストフードチェーンの元経営者が名乗りを上げた。“3年で3倍の売り上げにしてみせる! 君(中洞さん)は生産に特化しなさい”。

 そんな心強い言葉とともに、製造会社と販売会社をそれぞれ独立させることで、9000万円を投資してくれた。

 小売りのプロからの“生産に特化しろ”との言葉に、中洞さんは第2牧場を作り、工場を拡張した。ところが3年たったら3倍どころか、売り上げはほとんど増えない。またたく間に、債務超過の状態になってしまったのだ。

 投資を受けている以上、赤字が続けば責任を問われる。

 2006年、中洞さんは製造会社の社長を退任。第2牧場と自社プラントを含めた(株)中洞牧場を、わずか9円で譲渡することになってしまった。第1牧場のみは個人所有で、これを奪われなかったのがせめてもの救いだった。

 牧場以外のすべてをなくした中洞さんは、牧場作りのコンサルタントをして食いつないでいく。だが『酪農の神様』は、この牛馬鹿を見捨てなかった。

現在100頭ほどの牛たちはいたるところで尿もするし糞もするが、ほのかに草のにおいがするだけで、牧場特有のあの強いにおいがまったくない。大自然での放し飼いと、配合飼料を使っていないのがその理由と中洞さん 撮影/吉岡竜紀

「“会社経営から手を引きます”と取引先に挨拶に行ったんです。その取引先に、額はたいしたものじゃなかったんだけど、『株式会社リンク』という企業があったの」

 リンクは東京のIT企業で、こだわりの食材などを扱う『e-select』というオンラインモールを運営している。そこが全面バックアップを申し出てくれたのだ。

 2010年2月、『中洞牧場』をのれんとして、農業生産法人(株)企業農業研究所を設立。企画や管理、宣伝販売をリンクが行い、中洞さんは山地酪農の実践と普及を担当することとなった。経営と製造の現場を、完全に分けたのである。

 この世にも珍しい“山地酪農とITの協業”により、中洞さんは販売や資金繰りといった苦労から解放され、生産と山地酪農の認知拡大に専念できるようになった。

 中洞さんが言う。

「今は放牧地の拡張など、山仕事の日々。酪農のほうは基本的には若いもんだけで回るから。これが性に合っているんだ(笑)」

 こうした声に、リンク社長の岡田元治さん(62)が笑いながら言う。

「そりゃあそうだよ、お金の心配をしなくていいんだもの(笑)。でも生産も販売も、全部をひとりでやるなんて、本当のところ無理だよね」

 協業を引き受けて以来、牧場内に建設した製造棟や事務棟、社員・研修生のための宿泊施設など、莫大な経費をつぎ込んできた。農業事業単体としてはまだまだ大幅に赤字の状態で、現在はこの事業を単年度黒字にするのが第一の目標と岡田さんは言う。

「安定的な黒字経営にするのが僕の仕事。そうしておかないと、リンクを継ぐ人材が銀行から“このお荷物を下ろせ”と言われかねないから」

 そして、こう続ける。

「よく“あのおっちゃん(中洞さん)に、どうしてそこまで惚れたの?”って聞かれるけれど、別に惚れたわけじゃない。人に惚れてもいずれ死んじゃうからね。背負う腹を固めたのは、この酪農が守るに値すると考えたから。野草の放牧だから、乳量は5分の1から4分の1。でもこの酪農は、世界が向かうべき酪農のあり方だと思うから」

 こんな岡田さんの思いをよそに、おっちゃんこと中洞さんはマイペースを崩さない。

「“中洞だから(山地酪農が)やれたんだ”じゃ広がりがない。これからは若い連中がちゃんと経済的に自立できる仕組みを作ってやらないと」

幸せな牛の美味しい牛乳を日本中に

『なかほら牧場』で働く15人の“若い連中”の1人、牧原亨さん(39)は、地元出身で入社5年目の中洞さんの右腕ともいえる人物。ここ岩手での中洞評を、こんなふうに振り返っている。

「あまり歓迎はされていなかったですね。酪農界では異端児だったし、農協とやり合っていたし。従来の酪農をしていた人には、自分たちのしていることを否定されているととらえていた人も少なくなかった」

 そしてそうした人たちの意見を、こんなふうに代弁する。

「やりたくて牛を繋ぎで飼っているんじゃないんです。行政が一定の濃度以上の牛乳以外受けつけないんじゃ、酪農家は苦渋するしかない。野草で飼うと乳脂肪分が下がってしまいますから。牛への愛情がないわけじゃない。乳脂肪率厳守という枠組みが問題なんです

 そんな中でも、最近では放牧での牛乳生産を志す人が増えてきていると牧原さん。

 鉄道会社から昨年5月に夫婦して転職、製造部(牛乳のボトル詰め・発送など)に勤務している神谷美紀さん(24)も、そうした1人。夫の昇孝さんは研修生として、山地酪農を学んでいる真っ最中だ。

「夫は牛が大好きで、酪農家になりたいけれど“牛舎飼いは牛らしくなくて嫌だ”と。中洞さんの本で山地酪農を知り“この飼い方なら牛も幸せ。これだったらやりたい”と、2人でここにやって来ました」

 昇孝さんの研修が終わったら岐阜に戻り、山地酪農を始めたいと力強く語る。中洞さんの言う、“山地酪農を志す若い連中”という芽が、確実に芽吹き始めているのだ。

(写真左)神谷さんは親の反対を押し切り、夫婦2人して、なかほら牧場に。夫・昇孝さんの誕生日に中洞さんの著書『幸せな牛からおいしい牛乳』をプレゼントしたことがきっかけだった/(写真右)「中洞がいなくても牧場が回るようにするのが自分の仕事」と牧原さん 撮影/吉岡竜紀

 前出・牧原さんは、中洞さんをこんなふうに言っている。

「基本的には自分が放牧している牛と一緒。うちの牧場で自由に生きている牛みたいな人なんですよ(笑)」

 この自由奔放な雄牛の、牧夫ならぬ牧婦ともいえるのが、妻のえく子さん(64)。

 結婚は1985年だった。

「“山の中でご飯を作ってくれる人を探している”という話があって。“なにもできないけど、ご飯作りだけはできるかなあ”と、会う(見合いをする)ことにしたんです」

 すでに7000万円の借金持ちだった中洞さんは、見合いの席に、なんとジャージ姿でやって来た。

「中学校の横に線が入ったようなジャージと、ボロボロのTシャツ姿で。履歴書は大学ノートをちぎったすみにパパパッと。娘からは、“私だったら(お嫁には)絶対に来なかったわよ”って(笑)」

結婚前、「酪農家になんか嫁いだら、糞だらけになるから白い服なんか着れない」と言われたとえく子さん。今、着ているような白い服を着られるようになったのは、つい最近のことと笑う 撮影/吉岡竜紀

 元デパートガールで、嫁いだときには牛に触れることもできなかった。そんなえく子さんが、今しみじみと言う。

「私はこの人(中洞さん)がどうなっていくか見たいのね。山地酪農を広げるという夢を、“ホントにこの人、やり遂げるかな?”と。その好奇心があったからこそ、ここまでこれたんじゃないかなあ」

 信じることに脇目もふらず突き進む夫と、それを陰になり日向になり、サポートする妻。

 幸せな牛には、いい牧夫がいた。そして、この幸せな雄牛にもまた、いい牧婦(?)がいたのである。

取材・文/千羽ひとみ

せんばひとみ ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。『人間ドキュメント』取材のたび、「市井の人物ほど実は非凡」であると実感。その存在感に毎回、圧倒されている。