事業規模7倍、従業員3倍──傾きかかった老舗を再生させた辣腕女将と聞くと、どんな経営のプロか、アイデアマンかと思うが、さにあらず、ただ目の前のことに不器用なまでに全力で取り組んできただけという。証券レディー、秘書、中学校講師……幾多の迷走を経てたどり着いた天職・女将(おかみ)とは。
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「この上生菓子は、秋の七草のひとつをかたどっていますが、何に見えますか?」
凛とした着物姿の女性が、ゆっくり穏やかな声で来場者に語りかける。
「答えは、萩です。緑の葉に、小さくて可憐なピンク色の花が咲いていることを表現しています。菓銘は、『こぼれ萩』。声に出すと美しい響きでしょう? 俳句の季語にもなっています」
毎月1回、京都大丸(京都)と名鉄百貨店(名古屋)で講演会を行う田丸みゆきさん。彼女は、創業301年の老舗京菓子屋「笹屋伊織」の女将だ。京都は京菓子屋が多いが、300年以上も続く老舗は片手で数えるほどしかない。
講演会は、いつも満員御礼だ。自治体や企業からの講演や研修の依頼が、引きも切らない。何度も訪れるリピーターもいるほど、ファンも多い。
「京菓子は、『菓子』の前に『京(都)』の地名がついています。このように、地名がつくところは他の都道府県にあると思いますか? ……実は、ない。京都だけです」
京菓子について、京都について、田丸さんの話は心地よく、テンポよく進む。平易な言葉を使うので、老若男女、誰が聞いてもわかりやすくて面白い。来場者に京菓子を出して食べ方を教えたり、職人の実演を見ながら京菓子作りが体験できる回を設けるなど、お客様が楽しめる工夫も随所に見られる。
実は田丸さんは、生粋の京都人ではない。大阪出身で、23年前に結婚して笹屋伊織の十代目に嫁いだ。さぞや玉の輿(こし)かと思いきや……。
「いえ、全然。結婚当初は、お店は傾きかけていたし、住んでいたのは1LDKの賃貸。夫と二人三脚で駆け抜けて、気づいたらここまできた感じです」
笹屋伊織の秘書・吉田眞理さんは、「物事を後ろ向きに考えない。それを力に変えているように思います」と話す。結婚当初から比べ、現在、売り上げは7倍、従業員は3倍に増えた。まさに“福嫁”のごとく、笹屋伊織の起死回生に貢献した立役者だ。その裏には、「何事からも逃げずに、目の前にあることを一生懸命にやる」という、シンプルだが確固たる信念があった。
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学生時代を振り返り、田丸さんが真っ先に思い出すのが高校受験のときの“挫折体験”だ。高校教師の父、専業主婦の母、2歳年下の弟、祖父母と6人家族だった田丸さんは、大阪で生まれ育った。勉強もスポーツもでき、躾に厳しかった父の影響もあり礼儀もきちんとしている。いわゆる優等生だったが、中学3年になったころ、少しずつほころびが見えはじめる。
「勉強の成績が落ちてきたのです。(周りは、私をできる子だと思っているのに、受験に落ちたらどうしよう)と、そんなことばかり考えていました」
しかも、極度のあがり症。授業中に、先生にさされただけで、冷や汗をかいて内心パニックになってしまう。こんな調子で、一発勝負の受験で力を出し切れるのか、不安がつきまとった。周囲の「しっかりしている子」「できる子」という評価と実際は大きなギャップがあったことに、当人がいちばん戸惑っていたのかもしれない。
結局、田丸さんは、実力よりも数ランクほど低い高校を受験し、トップクラスで合格した。
「そりゃあ、トップになりますよね。安全パイを選びましたから。いざ入学したら、派手な感じの子も多くて……、勝手に殻に閉じこもり、うじうじしていてパッとしない日々でした。でも、弱みは見せたくなかったので、周囲は気づいていなかったかもしれません」
高校の同級生で今も親交のある松保美子さんに聞くと、確かに、田丸さんに対する印象はまったく違う。
「パッとしない? そんなふうにはまったく見えませんでした。明るくて、まっすぐな性格は今も昔も変わらないし、スポーツも得意で、部活では、やり投げをやっていましたよ。今は着物姿が似合う女将ですが、昔は体育会系な面が前面に出ていました」
人知れず悶々とする日々を送る中、あるとき、ラグビー部の男子生徒とたわいない話をしていたら、こんなことを言われた。
「うちの高校はラグビー部が強豪だから、どうしても入りたかった。でも僕は、とても入れる成績じゃなかったから、必死に勉強して、自分の力を信じて入学できたんだ!」
田丸さんにとって、この言葉は衝撃だった。
「彼を通して、自分がいかに卑怯者か思い知ったのです。こんなにも自分の夢に向かって頑張っている人がいるのに、自分は努力も挑戦もせずに逃げる道を選んで、それなのに、入学してからも、周りへの不満や文句ばかり。先生のせい、親のせい、誰かのせいでこうなったと被害者ぶるだけ。そんな自分はもうイヤだ! と心底思ったのです」
このときの教訓が、その後の人生における指針になった。
「逃げるのだけはやめよう。そう決めたのです。逃げずに今、目の前にあること、できることを一生懸命やろうと思うようになりました。以後は、何があっても人のせいにせず(自分自身を顧みるきっかけになってよかった)ととらえていきました。私にとって全力を出し切らなかった高校受験は後悔だけが残りましたが、その思いが“災い転じて福となす”につながったと考えれば、どんな経験もムダではないのかもしれませんね」
短大に進んだ田丸さんはユニークなバイトを経験している。それが、ローカルのラジオ番組やテレビ番組への出演だ。当時、バブル直前の1985年。女子大生ブームで、素人でも「女子大生タレント」として活躍の場はたくさんあったという。
田丸さんは、タレントに憧れていたのだろうか?
「いえいえ。あがり症を克服したくて挑戦したバイトでした。あがり症のうえに、気も弱い。そんな状態では、いくら全力で頑張っても、この先、何かあるたびに実力の7割も出せないだろうと思い、どうにかしたかったのです」
いざ、ラジオやテレビに出ると、緊張ゆえ声が出ない、うまく話せない、話しても早口になってしまうなど失敗もたくさんしたが、このバイト経験は、のちに笹屋伊織の女将として接遇するときや講演など、仕事のさまざまな場面で役立っているそうだ。
お客さんに同業他社の商品をすすめた
短大卒業後に就職したのは、教授の推薦で入社した野村證券だ。キャビンアテンダントへの憧れを抱いていたが「世界のノムラだよ」という教授のひと言にちょっとしたミーハー心が芽生え、入社を決めた。
田丸さんはカウンターレディーとして、投資相談の窓口業務を行っていた。このとき、今でも忘れられない印象深い出来事がある。
ある若いご夫婦が、マンションの頭金としてコツコツ貯めた100万円をキャッシュで持って来た。1か月先に使う100万円を1円でも利息の高いところに預けたいと、銀行預金よりも、利率がいい中期国債ファンドの話を聞きたいと来店した。そこで中期国債ファンドの説明をして、「確かに1か月間なら最も利率のいい安定した預金と言えると思います」と伝えると「それが一番いいんですよね?」と念を押された。田丸さんは、ほんの少し迷ったものの、正直にこう言った。
「お客様、“1円でも利息の高いところがいい”ならば、この下の階にS証券さんがあります。そちらのほうが野村證券よりも利率はいいです。1か月で解約できて元本保証もあるなど内容も同じですから、S証券さんがいいかもしれません」
あろうことか、田丸さんは他社の中期国債ファンドをおすすめしたのだ。ご夫婦は、「そんなことを言っていいんですか?」と驚きつつも、アドバイスどおりS証券に行ってしまった。
上司からは、「なんで余計なことを言ったの?」と叱られた。田丸さんにとっても、ダメージはある。ノルマがあり、キャッシュで持ってきたお客様は自分の成績に直結する大切なお客様になるからだ。それでも田丸さんは、他社をすすめた。
「1円でも利息の高いところ、というご要望でしたから。知っているのに言わないということがどうしてもできなかったのです」
この話には、続きがある。若い夫婦は、S証券に話を聞きに行ったものの、結局、田丸さんのところに戻って契約してくれたのだ。
「S証券では、中期国債ファンド以外の株をすすめられて不信感を抱いたそうで、“あなたほど僕たちのことを真剣に考えてくれませんでした”とおっしゃいました。うれしかったですね。しかもそのご夫婦は、その後、新しいお客様をたくさん紹介してくださいました。お客様のためとはどういうことか、この経験から学んだように思います」
出会ったその日に決めた結婚
野村證券は3年9か月で辞めた。「どうしても、この仕事がしたい!」という思いはなかったので、「石の上にも3年。3年たったら辞めよう」と入社したときから決めていた。「人材教育のように、人に伝える仕事がしたい」という思いはあったが、これ! という仕事は見つからない。当時、24歳。以後、自分探しを兼ねてスキーのインストラクター、重役秘書、中学校の英語講師など……さまざまなことを経験する。
そして27歳になった春、現在の夫と運命の出会いを果たす。野村證券時代の先輩が誘ってくれた食事会に来ていたのだ。
なんと田丸さんは、出会ったその日に結婚を決めた。
「一目惚れです(笑)。私は、レストランでメニューを決めるときでさえ優柔不断なのに、彼に対してだけは、“あ、この人とずっと一緒にいたい!”とピンときました。その日は、3次会までありましたが、3次会のころには2人の世界。帰りに、自宅まで送ってもらうときに“結婚しよう”と言われました」
とはいえ、しがらみや古い因習も多そうな京都の老舗に嫁ぐことに不安はなかったのだろうか。
「まったくなかったです。老舗といっても当時は小さな和菓子屋さんでしたし、大阪育ちの私にとって、京都の老舗事情などは知る由もありませんでしたから」
お店がうまくいっていないことも知ったが、そこは、結婚の障害にはならなかった。
「むしろ、うまくいっている裕福な家で苦労せずに育ったお坊ちゃんだったら惹かれていなかったと思います。野村證券時代、いわゆるエリートをたくさん見てきましたが、あまり私は魅力を感じなかった。安定した結婚生活はイメージできても、自分の居場所がイメージできませんでした。主人とは、これから苦楽をともにして二人三脚でやっていける、その幸せをかみしめていました」
出会って4か月後、1994年9月に2人は結婚。文字どおり、スピード婚だった。笹屋伊織のお店近くにある慎ましい賃貸での生活がスタートした。すぐに長男にも恵まれ、その後、2人の娘も授かった。
嫁入りしてすぐ、社員研修を始める
新婚当初、「夫と離れているのが寂しい」という理由で、笹屋伊織の店頭で接客を始めた田丸さんだが、ほどなくして、お店のこと、従業員のことなど、さまざまなことが気になりはじめる。
「例えば、お釣り銭を渡すときのトレーもなくて、お金を手渡ししていました。これはよくないとすぐに主人にお願いして、竹で編んだような和風のトレーを用意しました。接客も気になりました。お見送りが中途半端だったり、口の利き方もちゃんとしていなかったり……。そこで、野村證券時代に習った接客マナー講習のマニュアルなどを参照しながら、笹屋伊織向けのマニュアルにアレンジして社員研修を始めました」
立ち方、おじぎや挨拶の仕方、言葉の使い方などの接遇マナーについて丁寧に教えていった。
夫・道哉氏は、当時の彼女の仕事ぶりについてこう話す。
「妻の実家が笹屋伊織で、僕が養子か!? と思うほど、お店のため、お客様のために一生懸命でした。あと、これは彼女の特技ですが、お客様の名前と顔を覚えるのが早い。しかも、かなりの人数を覚えられて、それぞれがよく購入するお菓子までインプットできる。ですから、何度も購入してくださるリピーターのお客様が来店すれば“〇〇様、いらっしゃいませ”と出迎えられるし、“いつも、〇〇をご購入いただき、ありがとうございます”などとお菓子の話もできる。おかげでファンがかなり増えたと思います」
田丸さんがよかれと思って実践したことは結果として笹屋伊織の改革につながるが、「お店の従業員は、嫁いで間もない嫁が言葉遣いについてあれこれ口出しするから“うざったい”と嫌われていたかもしれませんね」と笑う。
道哉氏は、田丸さんに対して「出すぎたまねをして……」と反発を感じたことはなかったのだろうか。
「ありませんでした。むしろ、妻がいろんなアイデアを出してくれたおかげで、変えなければならないところが明確になりました。300年以上続いたことには誇りを持っていますが、そこにあぐらをかいていたら、老舗ではなく、ただの古い店になってしまう。日々進化するには、彼女の協力は欠かせませんでした」
京都流コミュニケーションに戸惑う
夫婦二人三脚で笹屋伊織の立て直しを図っていた田丸さんだったが、「嫁いだころは戸惑うことも多かった」と振り返る。特に、京都人の奥ゆかしさや婉曲(えんきょく)な表現が、大阪出身で白黒はっきりさせたいタイプだった田丸さんには「何を考えているのかわかりにくい」と感じることがあったという。
今でも忘れられないのが、お嫁に来たばかりのころ、取引先の社長がお中元を直接自宅まで届けてくれたときのこと。田丸さんが応対し、義母に「〇〇様からお中元をいただきました」と言うと、「まさか、それ、1回で受け取ってへんやろね? 京都では人さんからモノもらわはるときは、3回は断ってや」と言われたのだ。
「もらうことがわかっているのに断るなんて……と思いましたが、家まで来てくれたのに1回で帰すのはあまりに愛想がない。ありがとうございますとお礼したあと、“こちらのほうがお世話になってますさかい、そんなお心遣いはけっこうです”と3回断れば、3回お礼ができ、その間に、“最近、調子はどうですか?”などと雑談もできる。断るのは、コミュニケーションを円滑にするための京都人特有の阿吽(あうん)の呼吸だと教わりました」
お客様からお手紙をいただき「返事はいらない」と書いてあったため、そのとおりにしたら叱られたこともあるし、店頭に贈答用の京菓子を買いに来たご近所のお客様に「いったん帰るし、ゆっくりでいい」と言われたので、後回しにして別な作業をしていたら、すぐに取りに来て焦った……など、額面どおりに受け取って失敗したことは何度もあった。こんなふうに“京都の洗礼”を浴びつつも、お店を切り盛りしていった。
京菓子界で初の「女将」を名乗る
「笹屋伊織のためになると思えることは、なんでもやってみました」という田丸さん。同店は、京都以外の百貨店にも出店しているが、地方の従業員は本店のことをよく知らない。そこで、近況を伝えるため、『笹の葉さらさら』という手作りの社内報を作って各店舗に配りはじめた。
テレビやラジオなどメディアの取材も積極的に受けるようになった。自らが出演してお店のよさ、職人の素晴らしさ、京菓子のこぼれ話、お菓子の食べ方やマナーなどを伝えていった。
修学旅行生を受け入れてお店で講演したのを機に、ポツポツ入るようになった講演も快く受けた。さらに、大丸京都にカフェ形態の「京都イオリカフェ」を作ってからは、毎月、カフェ内でも、定期的に講演を行うようになった。
メディアに出てしばらくしたころ、田丸さんは「笹屋伊織十代目女将」を名乗りはじめる。京菓子の世界で「女将」を名乗ったのは彼女が初めて。これは京菓子界にあっては、異例中の異例のことだ。この世界はいわゆる男性社会、裏で主人を支え、店を手伝う「奥さん」と呼ばれる人はいても、積極的に表に出る「女将」と呼ばれる存在はいなかったのである。
「最初は、『笹屋伊織十代目当主夫人』と紹介してもらいましたが、何のことかわかりにくいでしょう? すっきり、わかりやすく伝えるには『笹屋伊織十代目女将』が最適でした。名乗る前は、伝統から逸脱しているのではないか、そのせいで笹屋伊織の名前に傷がついたらどうしようと悩みましたが、主人が“そんなことは気にしないでいい。もしも誰かに文句を言われても僕が守るから”と言ってくれたので、思い切って挑戦できました」
女将と名乗るのは、夫とともに前線に立って暖簾(のれん)を守っていこうとする彼女の覚悟の表れだった。
失敗も挫折も自分の肥やしに
もちろん、失敗したり、挫折しかけたこともあった。
仕事上の最も大きな失敗で、かつ、教訓を得たのは、嫁いで間もないころ。あるとき、結婚式の引き出物に出す生菓子の注文を受け、「日曜日の披露宴で使うが、前日の土曜日までに東京の結婚式場に届けてほしい」とお願いされた。そうなると、2日前の金曜日に作らなくてはならない。生菓子は、ねっとりした口当たりと上品な風味を味わってもらうため、2日置いたものは売ってはいけない決まりがあった。
丁寧にお断りしたものの、先方は京都出身で、「娘の結婚式の引き出物に京菓子を入れるのが夢だった。事情は出席者にも説明するから売ってほしい」と譲らない。田丸さんは、風味を多少犠牲にしてでも「お客様の夢を叶えてあげたい」と、職人に内緒で独断で受けてしまう。
金曜の夕方まで従業員総出で作業して、あとは発送のみという段階で、当時の工場長に「これで明日の披露宴に間に合いますなあ」と言われたとき、思わず、「実は、披露宴はあさってです」と正直に言ってしまったのだ。
「職人は、“それはあきまへん。かとかと(固く固く)なりまっせ”と、今、作り終えたお菓子は全部破棄して、翌日改めて作り直すと言うのです。そこからは、私がどんなに泣いて頼んでも、作り直しの一点張り。お客様に事情を説明したところ、職人の心意気に感激され、土曜発送、披露宴当日到着で了承してもらえましたが、私にとってはとりかえしのつかない失敗でした。同時に、職人の頑固なまでの誠実さ、こだわり、芯の強さを感じ、これが笹屋伊織を支えてきたのだと痛感しました。真のお客様第一とは何か、改めて考えるきっかけにもなりました」
挫折しかけたこともある。名古屋駅に直結している名鉄百貨店の「京都イオリカフェ」で月に1回行う4回講演は、今でこそ瞬く間に満席になってしまうが、当初は閑古鳥が鳴いていた。京都以外の場所で、人集めは苦戦した。あるとき、翌日に講演があるというのに、予約が2席しか埋まっておらず、心がポキッと折れてしまう。
こんなに大変な思いをしてなぜやらなければならないのだろう? 急きょキャンセルしてやめてしまおう。そう思って布団に入ってふて寝したが、突然、夜中に飛び起きた。
「(逃げないって決めたじゃないか)と思い出したのです。逃げるのは、高校でおしまい。そこからは、いただいた名刺の束を出し、片っ端から何時間もかけて講演会の案内メールを出し続けました」
蓋を開けてみれば、翌日の講演会は満員大盛況。メールを見て興味を持った人がたくさん来てくれたのだ。物事から逃げずに、全力で立ち向かう。それを体現する出来事になった。
京菓子の文化を守るべく走り続ける
現在、依頼される講演は年間80本以上。雑誌連載に、フジテレビの情報番組『グッディ!』のコメンテーターも務めるなど活躍の幅がますます広がる田丸さん。3人目の娘も高校生になり、子育てからも解放されつつある。16年来のママ友の近藤万紀子さんは、こんなユニークな面を披露してくれた。
「衣食住の『衣』『住』にここまで興味がない人を、私はほかに知りません。『衣』に関しては、着物以外は、洋服もバッグも靴もアクセサリーもなにもかもご主人のコーディネート。『住』についても、家を建てるとき、『インテリアにはまったく興味がないから』とキッチンも含めて100%、ご主人に丸投げしていました」
23年間走り続けてきた田丸さんだが、近藤さんの言葉を借りれば、「年々忙しくなるのに、しんどい、時間がないなどの言葉は一切言わず、以前と変わらず学校行事や茶話会、料理教室にも参加してくれます。どんどんパワフルになっています」
これから先も、お店のため、ひいては京菓子文化を守るため、働き続けたいと言う田丸さん。
「数百年にわたって受け継がれてきた京菓子文化は、日本の宝だと思うのです。だからそれを支える和菓子職人の技術力の高さにもっとスポットを当て、職人の存在価値を底上げしたいですね。それから、いつか、販売する人を育てるような学校が作れたらいいなと思っています。真のお客様サービスとは何か、きちんと教えられるような場を提供したいのです」
女将という“天職”を通して、田丸さんの快進撃は続く。
取材・文/三浦たまみ
みうらたまみ 編集者/ライター。構成などを担当した本、本島彩帆里『やせる ♯ほめぐせ』(ワニブックス)が好評発売中! 心屋仁之助『ネコになってしまえばいい』(5万部)『ゲスな女が、愛される。』(8万部、ともに廣済堂出版)。今秋、共著『日本10大美術館』(大和書房)が発売!