フルート奏者として将来を嘱望された音大時代、さくらいりょうこさんは、難病のクローン病を発病する。壮絶な闘病生活の末、なんとかプロの音楽家として再起したもののその後、2度も同じ病に倒れ、夢を断たれる。死ぬことすら選べない絶望──彼女に生きる力を与えたのは、いつも誰かがくれた“言葉”だった。
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2017年4月20日、京都国際会館。さくらいは3000人の観客の前に立っていた。一生、治らないといわれる難病を抱えながら、夢をもって生きてきた体験談を、フルートとオカリナの演奏を交えて語るという講演である。
同様の講演会は数多く行ってきており、観客数はすでに延べ33万人を超えていた。
だが今回は、今までに立ったことのないような大舞台。緊張は、もちろん、した。だが実際に舞台へと踏み出し、まぶしい光に包まれたとたん、舞台に立つワクワクが一気に押し寄せる。40分間の語りと演奏を終えると、会場は大喝采に包まれた。その瞬間、涙がこみ上げる。そしてスタッフから「後ろのほうの席の人たちまで全員が立ち上がって拍手していましたよ」と聞かされたとき、感謝の気持ちでいっぱいになった。「生きてきてよかった」──。
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「クローン病」──さくらいが抱えている難病とは、小腸や大腸などの炎症により、腹痛、下痢、発熱などが起こる病気。厚生労働省による「指定難病」のひとつである。悪化すると腸閉塞を引き起こすこともある。クローン病の患者会「大阪IBD」会長の布谷嘉浩氏は話す。
「普通に食べると消化器官が炎症を起こすため、日本ではかなり厳しい食事制限がクローン病治療の基本とされてきました。近年は新薬の登場もあって食事制限の度合いは軽減しましたが、基本は変わりません。でも、食べるというのは人間の根源的な欲求、生きる喜びともいえます。さくらいさんはそこに強い思いをもって、劇症患者であるのに、ほぼ自由に飲食し、何より活発に講演活動を行っている。これは奇跡といってもいいくらい、大変なことなのです」
さくらいには、かつて大きな夢があった。その夢は難病によって断たれ、絶望の淵に立たされたが、やがて立ち直り、また新たな夢を抱いて人生を歩んできたのである。
夢の始まりは小学校のとき
さくらいは1966年、神戸生まれ。会社員の父と専業主婦の母、7つ上の姉、祖母との5人暮らしだった。
「幼少期の私をひと言でいうとしたら、“ドンくさい子”。何をするにも遅くて運動は大の苦手、勉強もあまりパッとしない、目立たない子でした」
姉がピアノを習っていたことから、自分もピアノを習い始める。練習は嫌いだったが、発表会できれいな洋服を着せてもらって舞台に立つのは好きだった。クラスでも、おとなしくて目立たなかった子が、次第に「ピアノが上手な子」として注目を浴びていく。
そんなさくらいが「笛」と出会ったのは、小学4年生で初めてリコーダーを手にしたときのことだ。
「ピアノは全然、楽しくなかったんですけど、リコーダーはすごく楽しかったんです。当時の流行り歌──例えば、百恵ちゃんの歌のサビの部分を、音を探り探り吹けるようになると、親も友達も喜んでくれる。それで“よし、次はピンク・レディーや”って吹けるようになると、また喜んでもらえる。褒めてもらえる。それがうれしくて」
今でも大事にしている言葉がある。
「人より少しだけ上手にできること、人より少しだけ好きなことは、ひとつ、あったらええねんで」──小学校の担任の先生が、学期末に通信簿を配りながら、いつもクラスに向けて言っていた言葉だ。
「運動も勉強も大した成績ではありませんでしたが、音楽だけは、いつも最高評価の『5』でした。先生の言う“人より少しだけ上手にできること”って、私にとっては音楽なのかな……って思いましたね。あのころに少しだけ自信を持たせてもらったことが、今、音楽を続けることにつながっていると思えるので、先生のこの言葉には感謝しています」
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何も上手にできないと思っていた自分が、ようやく見つけた「得意なこと」──「笛」を吹く楽しみは、その後も薄れることなく、さくらいは、やがて音楽の道を目指していく。中学校では吹奏楽部に入部。このときはトロンボーンを選び、上達もしたが、中学校2年生のときに、母のすすめでフルートを始める。
高校は普通科だったが吹奏楽部でフルートを担当、音大を目指して大学教授に師事した。進学したのは大阪音大。ストレート合格だった。
「“私、めっちゃ上手や”と自信たっぷりでしたが、入学してみると当然、もっと上手な先輩がたくさんいて……。そこで完全に自信をなくし、1年生の間はイヤイヤ大学に行っていた気がします」
でも自分にはこれしかない、やっぱりがんばろう──演奏家になるという夢がはっきりしてきたのは大学2年生になったころのこと。
そこからは「チャンスは自分でつかむんだ」と決め、練習に励んだ。
「大学をいい成績で卒業したら、その先には海外留学のチャンスがある、そして国際コンクールで入賞して……と、勝手に自分で壮大なプランを立てていました」
小学校、中学校、音大の同級生で、現在はハープ奏者としてさくらいと共演することも多い石井理子氏は話す。
「りょうことは小学5年で同じクラスになって以来の付き合い。音大時代には360日一緒にいたのではというほど、多くの時間をともにしました。りょうこはおとなしい女の子でしたが、芯が強い。その性質は大きくなるにつれて表に出てきたように思います」
順風満帆の中、発病の診断
先々のチャンスをつかんでいくには、今、がんばらなくては。大学3年生の終盤、上達の手応えを感じ始めたころ身体に異変が起こり始める。
「しょっちゅうお腹が痛くなって、1日に10回や20回はトイレに行っていました。でも慣れとは恐ろしいもので、お腹が痛くてたまらなくても、寝て起きたら“うん、昨日よりマシやな”って、また学校に行ってしまうんです」
そうしている間にも症状は悪化、体重もみるみる落ちていく。ある日、ついに立っていられないほどの激痛に襲われ、病院に担ぎ込まれる。
「診察で先生が私の腸と健康な腸のレントゲン写真を並べてくれたとき、私はア然としました。健康な腸は、人体解剖図でおなじみのモコモコした形。だけど私の腸には、そんな箇所がひとつもない。あちこち細くなっていたりねじれていたりで、ひと言でいえば“グチャグチャ”でした」
ここでクローン病との診断を下されるが、「一生、治らない」と言われても理解できなかった。何しろ今まで病気ひとつしたことがない。治療すれば、自分の腸も健康になると思っていた。だが、すでに病状は緊急入院を要するほど悪く、絶食とステロイド剤による治療に入る。
「するとウソみたいに腹痛がおさまるんです。当時は夢まっしぐらで、病気どころではありません。みんなに後れをとりたくない一心で先生に何度も訴え、何とか2か月で退院させてもらいました」
大学に戻り、卒業に向けてさらに邁進。無事に卒業が決まったところで、また大きな病変が起こる。今度は3か月の絶食入院が必要と言われた。
実は、卒業後にフランスへ留学することが決まっていた。まさに「卒業したら留学、留学したら国際コンクール」と思い描いていたプランの、大きなステップをひとつ上がるところだったのだ。
そこにドクターストップがかかったうえに、「留学はもう一生、あきらめてください」と告げられる。
腸の大手術。ついに夢を断たれる
だが、挫折はしなかった。
「留学できないことになったのは、もちろん悲しかったですよ。でも、海外がダメなら、日本で認められるようにがんばろうって、気持ちを切り替えられたんです」
チャンスは自分でつかむ。退院後には国内での演奏活動を開始。フルートのアンサンブルで全国ツアーも達成する。腹痛、発熱、下痢に襲われ続けたが、薬で発熱と痛みを抑え、メンバーの前でもステージの上でも笑顔を絶やさなかった。アンサンブル時代の後輩、喜多優美氏は言う。
「先輩は、いうなれば努力と有言実行の人。私から見ると“なんでそこまでするん?”というくらい熱心で、しっかり私たちを率いてくれました」
しかし27歳のとき、発病以来最大の危機に見舞われる。腸閉塞が破裂して緊急手術、生死の境をさまよったのだ。
「誰かに取って代わられたくないばかりにむちゃをして、バカだったなとは思います。でも、あれだけがんばったから、全国をまわったという1ページが私の人生に加わりました。もし、むちゃしてでも音楽を続けなかったら、おそらく私は、病気しかない人生を歩んでいたでしょう」
だが、かつて担任の先生に言われた「人より少しだけ上手にできること」をしていく道は、もう見えない。別の夢を見つけることもできない。挫折感に打ちひしがれた。
「もし別のことでがんばれる状況だったら、きっとまた、気持ちを切り替えたと思います。でも、それすらできないくらい、ひどい病状でした。するとどんどん、自分の中で真っ黒い感情が膨らんでくるんです。音楽仲間が活躍している様子が伝わってきたりすると、“私だって病気さえなくて音楽を続けていたら”なんて、どうしても思ってしまう。人として、いちばん醜い感情に心が支配されていきました」
泣いて何とかなるなら、いくらでも泣く。でも泣いてもどうにもならない。ただただ生きることがしんどかった。
「どん底でしたね。当時、処方されていた睡眠薬を前に“これ全部飲んだら死ねるんかな”と思っても、死にきれなかったときのことを思うと踏み切れない。生きることを考えられず、死ぬことも選べず、“手術のときに死んでたらよかった”とまで思っていました」
手術後の主な対処法は、在宅IVH(中心静脈栄養法)というもの。消化器官を働かせずに栄養補給をするために、「静脈リザーバー」と呼ばれる器具を手術で皮下に埋め込み、そこに毎晩、自分で針を刺して栄養剤を体内に注入する方法だった。
退院後、さくらいはひとり暮らしを始める。先のことを何も考えられないまま、ただ生きるために点滴を続ける毎日。そんな中、大災害が起こる。1995年1月17日の阪神・淡路大震災である。
大震災を境に起こった気持ちの変化
さくらいは、ひとり暮らしをしていた神戸で被災した。
「明け方、最初の揺れの直後は何が起こったのかわかりませんでした。ひとまず点滴が詰まらないように対処したところで、“部屋から出たほうがいい”という声が聞こえてきて……、外に出てみると、ここは地獄か、と。大げさでなくそう思いました」
ひしゃげた家屋、穴のあいた道路、あちこちから立ち上る炎や煙。呆然と近辺を歩いていると、長い行列が見えてきた。かろうじて通じていた公衆電話に並ぶ人々だった。「お父さん、お母さんは、大丈夫やろか」──でも、電話をかけるお金などもって出ていない。立ち尽くしていると、ふとひとりの男性が歩み寄り手を出してきた。思わず自分も手を出すと、その手に10円玉をそっと握らせ、電話のほうを目配せしたのだ。
「今でも、あれは本当の出来事だったんだろうかと思ってしまうくらい不思議な巡りあわせでしたが、とにかく、ありがたく、その10円玉を受け取って列に並びました」
そして、父と母の無事を確認し、実家に身を寄せる。
6000人以上が命を落とした震災で、生きることをしんどいと思っていた自分は無事だった。そこに何らかの意味を見いだす余裕はなかったが、生きていることにホッとする自分がいることは、確かに感じられた。
「実家のある地域は被害が軽く、電気もガスも水道もすぐに復旧しました。そこで微力ながらも、被害が大きかった地域の人たちにお風呂を提供したんです。するとみなさん、乾いたタオルを手渡しただけでも、ありがとう、ありがとうって感謝してくれる。そんな光景を見ているうちに、私は幸せのハードルをすごく高く設定していたのかな、と思うようになりました」
フルート奏者になるという夢を叶える。それこそが自分の幸せだと信じてきたが、幸せって本当は、もっと当たり前で身近にあるもの。こうして「幸せのハードル」がなくなったとき、静かに「生きるスイッチ」が入った。
ピアノ教師だった姉の手伝いを始め、ようやく人生が再び動き出したかに見えた。だが、ここでまた大きな病変が起こり、入院。当たり前の幸せに気づきはじめたというのに、それすら病気に阻まれるのか──夢を断たれたときよりも深く、強い絶望だった。
数々の「言葉」に背中を押されて
生きる道を見失ったさくらいは、しかし、ここから生きることを強く考えさせられる言葉と出会っていく。
「すっかり投げやりになっていた私の病室に、あるとき同病の人たちが来てくれたんです。私を慰めるためではありません。“自分の人生なんだから、自分で生きようとしなくては何も変わらへん” ──自分たちだってしんどいのに、彼らは口々に私を叱ることで私に力をくれたんです」
何も希望を見いだせない耳には優しい慰めの言葉など届かない。だからこそ同病の人たちは自分たちにしか言えないことをはっきり言ってくれた。さらには看護師たちからも「自分の身体なんだから、自分で治療を選びなさい」と言われる。主治医も「日本一の治療を受けてきなさい」と背中を押してくれた。
数々の言葉に力をもらい、東京の病院で診察を受けることを決意。当時のさくらいにとっては大きなことだった。
次々に湧き上がる不安を振り払う力になったのは、同じ病院に入院していた末期がん患者の言葉だ。
「“自分には必ずできるって信じなさい” ──そう言ってくれました。だから東京行きが決まってからずっと、“私には必ずできる”と何度も、何度も、唱えました」
東京での診察を経て、神奈川県にあるクローン病の専門外科医の手術を受けることになった。「この病変なら、手術で簡単に治るよ」と医師から告げられたとき、「もっと早く来ればよかった」とは思わなかった。将来に一筋の希望の光が見えたことが、とにかくうれしかったのだ。
1か月後、無事に手術を終えて退院。深刻な病変は取り除かれたが、一生、難病を抱えていることは変わらない。たびたび腹痛に襲われるし、トイレの回数も多い。それでもさくらいは、改めて「生きるスイッチ」を入れた。
「神戸からちょっと離れる選択をしただけでこんな大きな変化が起こり、希望が見えた。それには多くの人の後押しがありましたが、最終的に選び、実際に新幹線に乗って行ったのは自分なんだというのが、自信につながりました。それに、いざ、また悪くなったとしても、私には頼れる医師や支えてくれる友達がいる。そう思うと、もう“やるしかない”“負けない”という決意しかありませんでしたね」
このころに自分と約束したことがある。「できないって言わない」──この約束が、人生を大きく動かしていく。
7年ぶりの舞台と「新しい夢」
まず自分で生計を立てられるようになろう。社会に出てみよう。アルバイトを転々とした末、あるイベント運営会社に職を得る。
そんな中、ひとりの女性が訪ねてきた。さくらいが働いていたイベント運営会社のスポンサー企業の理事長・大橋節子氏だった。同氏は振り返る。
「当時、私は通信制高校の校長もしていました。そこの生徒は、いじめで不登校になるなど、普通の学校で挫折してきた子どもたち。彼らに自信を取り戻させたいと、たびたびイベントもしていました。りょうこちゃんに会いに行ったのは、彼女が関わっていたイベント活動に関心を持ったからですが、会ってみると、美人さんなのに表情が硬く、暗い印象で……。でも病気のこと、音楽のこと、今の思い、いろいろな話を聞いて、“この子は、いずれ大きく花咲くだろうな”と思いました」
後日、その大橋氏から、さくらいに電話が入る。
「あなた、本当はフルート吹きたいんじゃない? 2週間後のうちのイベントで20分間、あなたの時間を作ったから、高校生たちの前で病気の体験談とフルートの演奏をしてよ」という。
言葉に詰まった。吹きたいかと言われれば、もちろん吹きたい。だがフルートを断念してから早7年、34歳になっていた。2週間で準備なんてできるわけがない。でも「できないって言わない」という自分との約束もある──。
どう答えたらいいかと口ごもる間にも、大橋氏はどんどん話を進めていく。「じゃあ、よろしくね」。そう言って電話は切られた。「断るなら早くかけ直さなくては」と思うのに手は動かない。こうして7年ぶりに、さくらいは舞台に立つことになった。
「このときも話が決まってからずっと“私には必ずできる”って唱えていましたが、当日は緊張で足の震えが止まりません。でも舞台で光を浴びたらすごく気持ちよくて“やっと、ここまで戻ってこられた”と思ったんです。演奏はぎこちなく、上手に話すこともできませんでしたが、舞台で拍手をもらえたことが、本当にうれしかったですね」
前出の大橋氏からも、「あなたの話や演奏を聴いて喜ぶ人が、こんなにいるのよ」と勇気づけられた。それから間もなく会社を退職、体験談と演奏による講演活動を広げていく。35歳でベーシストの男性と結婚し、二人三脚で全国を飛び回った。その間、幸いにもいい治療法と出会い、痛みはかなり軽減していった。そして50歳を目前にして「あと10年間、全力でがんばりたい」と、いっそう奮起したが、このころから夫との温度差を感じるようになる。
自分は病気によってたびたび道を阻まれてきた。次だって、いつ倒れるかわからない。走れるのは今だけかもしれないのに─。結局、温度差を解消できないまま離婚を選んだ。気心の知れたパートナーを失うのはつらかったが、「自分の人生を生きるんだ」と固く決意する。
その中で、またひとつ、夢が生まれた。今までのことを本にまとめ、自身が力をもらった「生きる支えになる言葉」を多くの人に届けたいと思うようになったのだ。
「夢に日付を入れれば、それは努力で達成できる『目標』になる」
すでに今までで一番、大きな舞台に立つことが決まっていた。そこで、自分の本を届けられたら─。出版という夢の日付は、その舞台の当日に定められた。
ここで冒頭の場面となる。
はたして京都国際会館のロビーには初の著書がズラリと並べられた。講演後、大勢の人が次々と手に取っていく様子に、また感謝で胸がいっぱいになった。
今までより”これから”のことを
2016年5月にはオカリナ教室を開始。この楽器が結びつける縁の広がりに元気づけられる日々だ。
「そもそもオカリナを吹き始めたきっかけは、以前、知人の演奏家がオカリナで演奏した『もののけ姫』に聴き惚れてしまったこと。それで私も吹いてみると、すごく気持ちいいし、楽しかったんです。
そしてあるとき、講演で1曲だけオカリナを吹いてみたら、届いた感想が『オカリナがよかった』ばかり。それならとオカリナ演奏の割合がどんどん増えていきました。
オカリナは一般的に素朴なイメージが強いのですが、とても奥深い楽器。習いたいと言ってくれる人も多く、教室を始めることにしたのです」
その間、かつて自分が人から与えてもらったチャンスを、今度は人へと引き継ぐかのような出来事もあった。前出の喜多氏が明かす。
「実は私、ある脳の病気でフルートが吹けなくなってしまい、しばらく引きこもっていたんです。でも、あるとき先輩が“オカリナだったら吹ける?”って、15年ぶりに人前で演奏するチャンスをくれて。その流れでオカリナ教室も手伝わせてもらうことになりました」
半年ほどで100人もの生徒が集まり、あっという間に大阪と神戸の7教室にまで広がった。オカリナでつながる輪をもっと広げられたらと、今年9月には、オンラインレッスンも始めたところだ。
現在、さくらいは51歳。最近、少し心境の変化があったようだ。
「以前は、あくせくギラギラと夢を追っていた気がしますが、今は原点回帰といったらいいのか、リコーダーを吹いたら親や友達が喜んでくれて、うれしいな、と思っていたころに戻った感じ。自分の音を聴いてもらうことが幸せで、その音が誰かの心に届いたら、さらに幸せ……、という思いです。講演も、これまでは病気の体験談が主でしたが、“今まで”より“これから”のこと、明日をちょっとだけ、より幸せに生きられるような話を、音にのせて届けていきたいですね」
難病とともにありながら、今のさくらいだから出せる音、語れる言葉、「生きること」を伝える活動は続く。
取材・文/福島結実子
ふくしま・ゆみこ 編集者、ブックライター。健康実用、政治経済、ビジネス、自己啓発など幅広いジャンルの書籍に携わる。『がんばらない成長論』(心屋仁之助・学研)『太らない間食』(足立香代子・文響社)など。