安定した生活を捨て、異国の地で、数万円の月給で夢にチャレンジし続ける日本人野球選手の生きざまを追った『NPB以外の選択肢 逆境に生きる野球人たち』(彩流社)の著者・宮寺匡広さんに寄稿してもらった。
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薄給のアメリカ独立リーグで奮闘する日本人プレーヤー
メジャーリーグやNPBという華やかな大舞台。そこに立てるのは、ほんの一握りの野球選手だけだ。多くは幼少から始まる競争の過程で、プロへの道を断念する。野茂英雄から始まり、イチローや松井秀喜、ダルビッシュや田中将大といった日本のスーパースターたちが、海を渡ることで、アメリカ、メジャーリーグの情報は日本でも簡単に受け取ることができるようになった。
だが、メジャーリーグ傘下に属さず、独立経営で運営されているプロ野球独立リーグが複数存在していることはあまり知られていない。そして、そこで奮闘する日本人プレーヤーがいることもまた、メディアで取り上げられることはない。日本にも独立リーグは存在する。四国アイランドリーグplusや北信越を中心に展開するベースボール・チャレンジリーグ(BCリーグ)などだ。
しかし、独立リーグの賃金だけで暮らしていくのはとても厳しい。日本の独立リーグでも給料は月10万円から最大40万円。アメリカでは、各リーグのレベルによるが、平均月給は、数万円程度のリーグから多くても30万円程度のリーグが最高で、ほとんどの選手たちは、オフシーズンにバイトをするなどして、なんとか生計を立てている。
もちろん、この道を選ぶことは大きなリスクを伴う。学生生活を終えても、現役続行を選択することで、その後のセカンドキャリアに大きな影を落とす。会社内での昇進やキャリアアップなどは望めなくなり、引退後、入社してもほとんどが1年以内に辞めてしまうというケースも多いという。
毎年15人ほどの元プロ野球選手の再就職活動をサポートする日本リアライズ株式会社のPPS(プロフェッショナル・セカンドキャリア・サポート)事業部の川口寛人さんは次のように指摘している。
「ある程度の年齢になっているのに会社で働くのが初めてで、会社や社会に溶け込めない、自分の考えもうまく伝えられないという理由で辞めてしまうケースが多い」(出典:巨人に入団も1年で引退 元プロ選手が始めた再就職支援、その思いとは―Full-Count)
それでも挑戦し続けるメンタリティはどこにあるのだろうか。批判や周囲のネガティブな声にさらされながらも、国内外で現役を続けていく選手も少なからずいる。
かく言う私も、30歳を過ぎた今も、しつこく海外を中心に現役を続けている。今年は、アメリカ・独立リーグの1つ、パシフィック・アソシエーションリーグのソノマ・ストンパーズに所属。厳しい競争の過程で、とっくに選手としては野球界から見切りをつけられている。それでも、何度ふるい落とされても、あきらめず野球にしがみついてきた。
憧れの早慶戦出場を目指し、大学を再受験
小学校2年生の時、近所の友達に誘われたのをきっかけに、野球にのめり込み、高校、大学と本格的に野球を続けてきた。高校は東京の名門、甲子園の常連校でもある日本大学第三高校(日大三高)で過ごす。しかし、3年間で、公式戦出場は0。チームは甲子園最大ベスト16まで進んだが、私に甲子園の土を踏む機会は訪れなかった。
甲子園に代わる大舞台を……。そう思い、六大学野球を次の目標に設定した。だが、実績も何も残してない私が、推薦で大学入学することなど不可能だ。ならば、学力で入ってやると、受験勉強に精を出す。六大学のことを知るうちに、早慶戦に惹かれていった。春と秋の六大学リーグのトリを飾る早稲田大学対慶應義塾大学の伝統の対抗戦。神宮球場を満員にできるのは、ヤクルトスワローズの試合以外では、早慶戦だけだろう。
この大舞台で燃えつきたい。そんな思いが芽生え始めた。しかし、現実は甘くなかった。高校時代、ほぼ野球しかしてない。やはり肝心の学力が追いつかない。結局1浪の末、法政大学に入学。目指していた早稲田、慶應には遠く及ばず、心は折れていた。野球もこれで終わりにしようと考えていた。だが、たまたま点けたテレビから早慶戦が放送されているのを見てしまった。伝統のユニフォームと、満員の神宮球場。その迫力に、再び魅了された。いても立ってもいられなくなり、その場で、もう一度、チャレンジすることを決意する。
そこから猛勉強して、2007年、慶應義塾大学文学部に入学。だが、部員は総勢200名近く。試合に出ることはおろか、ベンチメンバーの25人に入ることすら容易ではない。3年生の頃から少しずつだが、試合に出始めるが、私の立場はベンチに入れるか入れないかの狭間でいつも揺れ動いていた。幾度か公式戦に出場したものの、憧れの超満員での早慶戦はベンチで戦況を見つめるにとどまった。
学生野球が終われば、一部の選手がプロや企業チームに進んでいく。もちろん実績のない選手に、次のステージなど用意されてはいない。野球が職業になるのだから、相応の結果も求められるし、それは仕方のないことだった。
だが、自分の中に残るしこりみたいなものは、未だ強く感じていた。
大学野球引退後、進路にはとても迷った。野球を続けたいという思いが強かったからだ。それも海外で。
小学生の頃、テレビを通じて、アメリカメジャーリーグの情報が連日放送されていた。選手の迫力、プレーのダイナミックさ、観客の盛り上がり方。特にマーク・マグワイアとサミー・ソーサの熾烈なホームラン争い。ブラウン管を通していても、日本とは違うアメリカ野球の魅力が伝わってくる。
いつかは自分もアメリカで……。
そんな思いを中学、高校、大学と抱き続けてきた。
メジャー傘下のマイナーに所属することは、日本で野球を続けていくこと以上に難しい。そこで行きついたのが、独立リーグだった。
一流企業を退職し、月給数万円の米・独立リーグへ
2000年代、この異国の独立リーグに挑戦する日本人も出てくるようになった。伝も何もない状況から、日本でバイトなどで稼いだなけなしのお金をはたいて、アメリカ独立リーグの入団テストに挑戦していたのだ。
大学野球引退後、この独立リーグの入団テストを受けて回ろうと決意する。単身渡米し、独立リーグの入団テストも兼ねた、教育リーグに参加。ここでは、集まった選手たちが各チームに振り分けられ、約1か月間ほぼ毎日試合を行う。それをメジャーやマイナー、独立リーグのスカウトたちが見て回る。
結果は……、ここでも惨敗。雇ってくれる球団はどこもなかった。
帰国とともに、本格的な野球からは離れ、株式会社セブン-イレブン・ジャパンに就職し、サラリーマンとして働き始めた。
でも、このまま終わりたくはなかった。どうしても子供の頃からの夢と、学生時代の悔いが、自分の気持ちの中で渦巻いていた。「まだやれるはずだ!」。そして27歳の時に、現役復帰を決意し、退職する。
2013年に、以前参加した教育リーグで出会った伝をたどり、アメリカ独立リーグのペコスリーグ、ラスベガス・トレインロバーズで練習生として所属させてもらえることになった。
独立リーグで最も薄給のリーグ。月々200~400ドル(当時のレートで、2万3000円~5万円ほど)。2か月半で70試合をこなす過密スケジュールで、遠征になると小さなバンで10時間移動の後、すぐに試合なんてこともある。経費削減のため、遠征先のホテルでは2人部屋を4人で使い、ベッドは2人で1台という過酷さだ。レベルは、ルーキーリーグから1Aレベルと言われていて、削りの選手が多いのが特徴だ。この年の出場機会はプレーオフも含め、10試合にとどまったが、海外で野球をできる喜びの方が大きかった。
もちろん会社を退社するに当たって、葛藤はたくさんあった。不安定な道を歩むのがとても怖かったし、将来のことを考えれば不安でたまらなかった。周囲の声は冷ややかだったし、自分でも正しい選択だと思いきれなかった。それでもやろうと思ったのは、まだ見ぬ海外野球という未知の世界に対する好奇心と、何よりも野球をすることが好きだったからだ。
”社会的な安定”では得られない充足感
現役復帰してから、4年が経過。憧れの海外野球は思った以上に厳しい世界だと感じている。独立リーグと言えども、中南米、ヨーロッパ、アジアと世界各地から選手が集まり、鎬を削る。NPBで活躍する日本人スラッガーと同等の飛距離を出す選手など、どこのチームにもいるし、ホームランを打てる選手が1番から9番まで揃っている。150キロを超える投手は、どのチームも数人はいるし、解雇や故障で退いた選手の代わりに入ってくる選手もまた、そのクオリティのパフォーマンスを見せる。
アメリカ野球の裾野の広さを感じる。正直なところ自分の代わりになる選手などいくらでもいるし、そもそも小柄な日本人選手が入る隙などないようにも感じてしまう。やっとの思いで独立リーグの球団と契約できても、成績不振ですぐにクビ。結果が出ないとすぐに解雇されるのが、海外野球の厳しさだ。
だからと言って、簡単には引き下がれない。各リーグの試合が行われている球場を回り、スタンド最前列から、また時には球場の外の職員通用口の前で、選手やスタッフに話しかけ、監督につないでもらい、拙い英語でテストを受けさせてくれと懇願する。わざわざ日本から来たことを知れば、たいてい試合前練習に交じらせてもらい、実力ぐらいは見てもらえる(たまに門前払いもあるが)。
多くの場合、登録枠に空きもないし、現戦力に問題がなければ、契約に至ることはない。それでも、この心意気を買ってくれる人もいる。キャナムリーグのトロワリビエール・イーグルスの当時の監督、ピエール・ラフォレストは「その行動にリスペクトだ」と言って、契約してくれた。チャンスは自分で作り、自分で掴みに行くものだ。
将来安泰の道を捨ててここまで来たのだから、他の野球人と同じことをやっていても仕方ない。サラリーマンを辞める時、もう一つ決意したことがあった。それは、先行きが不透明な中、挑戦を続ける野球人たちのストーリーを追った書籍を作ることだった。
私のように競争からこぼれ落ち、それでも「何か」を求め続けてきた野球人は私以外にもいる。この道を選択したことで生じる苦悩や不安。野球に携わり続けることを選んだ人たちは何を思い、どう過ごしてきたのか。彼らのストーリーを追い、その人生観にせまりたいと思った。そのストーリーはどれも、決して華やかな世界ではないが、一際目立つ輝きを放っている。そんな彼らの輝きを多くの人に知ってもらいたいと思い、こつこつと書いてきた。
今回、『NPB以外の選択肢』(彩流社出版)で8人の野球人を取り上げさせてもらった。一人ひとりインタビューを行い、彼らの人生を掘り起こしてきた。
そこから見えてきたものは、続けることで、道が開けることもあるし、その行動自体が人生全体を充足させてくれるかもしれないということ。そして、こうした生き方は社会的な成功や安定といった価値基準では、決して計ることはできないということだ。
このような野球人たちの生き方が、人生の選択に迷う誰かの助けになることもあるのではないか。それだけで、私のこれまでの歩みは価値があったと胸を張って言えると思う。
来年の挑戦に向けて、バイトに励む日々
今年も9月初めに、シーズンを終え、中旬には帰国した。オフシーズンに生計を立て直し、シーズンになるとまた海外に挑戦するという繰り返しだ。
知り合いが経営する老舗の乾物屋、埼玉屋本店(東京都八王子市)で働かせてもらったり、記事を書いたりして生計を立てている。厳しい状況が続くが、選手をやりながら書籍出版にまでいたれたのは、多くの方の協力があってのことだ。それと同時に、自分にしか歩めない道だとも思う。
野球でも執筆でも、やればやるほど自分の未熟さを感じる。やればやるほど自分が無知であることを実感する。まだまだこの道を探求したい。そして新しく知り得たものを、また発信し続けていきたいと思う。せっかくこういう役割の下にいられるのだから。
文/宮寺匡広
<著者プロフィール>
みやでら・まさひろ 1986年生まれ、東京都出身。2005年日本大学第三高等学校卒業(硬式野球部所属)。2012年慶応義塾大学文学部卒業(硬式野球部所属)。2013年より毎年、アメリカ独立リーグ「ペコスリーグ」のラスベガス・トレインロバーズや、「インディペンデント・ベースボールリーグ」のオハイオ・トラベラーズ、オーストラリア、カナダなどの独立リーグで活躍。2016年からは二年連続で、アメリカ独立リーグ「パシフィック・アソシエーションリーグ」のソノマ・ストンパーズに所属。31歳を迎える来年度も、海外リーグでのプレーを目指している。