「住まいの豊かさを世界の人々に」を合言葉に大躍進するニトリ。どうしようもない勉強嫌いの落ちこぼれだったという学生時代、会社を創業したものの、やる気もなくて倒産の危機……そんなダメダメ人生から全世界500店舗以上を展開する一大家具チェーンを育てあげた巻き返しストーリーを聞く──。
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「お、ねだん以上。」のCMでおなじみのホームファニシング専門店、ニトリ。現在、国内に451店舗、海外にも台湾、中国、米国に50店舗をかまえる。
そのニトリを一代で大手チェーンに築き上げた創業者の似鳥昭雄さん(73)は、『ソロモン流』(テレビ東京)や『人生で大事なことは◯◯から学んだ』(朝日放送)などのテレビ番組にも出演し、親しみやすく、ひょうきんなキャラクターから「顔の見える経営者」のひとりとして話題を集めている。
似鳥さんはみずからの若いころを“勉強嫌いの落ちこぼれ”だったと明かす。
「勉強ができなくてもケンカが強いガキ大将というならまだ見込みがありますが、私は落第生のうえにいじめられっ子。小学校から高校までいじめられ通しでした。そんな私でも成功できたのですから、多くの人に“実社会では学歴やデキだけがすべてじゃない、やればできる”というメッセージを送りたいですね」
自分のいい面も悪い面もありのままをしゃべるのが似鳥さんのスゴイところだと、20年来の友人、日本証券業協会会長の鈴木茂晴さん(70)は話す。2人が親しくなったきっかけもユニークだ。
「ニトリさんとお取引が始まったとき、1度ゴルフでもということになって、GWにラウンドしたんです。終了後、似鳥さんから“僕、連休中は暇で、明日も空いているんだよね。楽しかったから、明日もやりませんか?”とお誘いを受けた。私だって忙しいからと思って手帳を見たんだけど、こちらも予定が空いている(笑)。それじゃあ、やりましょうと2日連続でゴルフをしたんです。それで一気に仲よくなりましたね。
似鳥さんはハチャメチャなところがあるけど、一緒に飲むと楽しいし、また会いたいなと思わせる、そんな人です」
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今年6月30日に山手線沿線では最大の全9階の渋谷公園通り店がオープンした。
「この出店を社内で反対する声もあり、最初はどうなるかと思いましたが、おかげさまで予想以上に売れています。ここは国内の情報発信の場として最適な店舗だと考えていて、持てる技術を出しきって、さまざまなコーディネートを提案しました」
コーディネートしたのは全員女性のチームで、2年前にオープンした銀座店から担当を任されているという。
「女性のほうがセンスがよくって明るい。男性からはなかなかそういうアイデアが出てこないので重い家具を運ぶほうに回ってもらっています」
ニトリでは数年前から女性が働きやすいしくみを整えてきた。育児休暇後は元の部署に戻れ、元の給与が保証される。また勤務時間を1日4~8時間の中から選べ、一部に在宅勤務も認められる。このような取り組みにより、職場復帰する女性たちが増えているという。
「女性は色やファッションに対して敏感ですし、コツコツと働き優秀な人が多いです。うちでは賃金も機会も男女平等で格差はありません。女性の執行役員が2名しかいないのが課題で、まずは3割程度に増やしていこうと思っています」
似鳥さんは社長業のかたわら、みずから商品開発にも力を注いでいる。似鳥さんが指揮、開発したベッドは、年間40万台を売り上げる大ヒットとなった。
「僕はベッドについて何も知識がなかったので、ゼロから勉強しました。社内でもなまじ知識のある人間は追っ払って、何も知らない30代くらいの人たちとやったんですよ。そうしたらたった3年でできちゃった。
最初ベッドは硬めがいいなんて、誰が言ったかわからないけど、そんな迷信があった。人間工学を研究したら、熟睡できて、腰痛や肩こりにならないためには、立っているときのような状態で寝てなきゃダメだとわかったんです」
他メーカーのマットレスは、バネが連動式で腰が沈んでしまう。ニトリではひとつひとつ独立したポケットコイルというしくみを採用し、体重が分散して包み込むような寝心地を実現したという。
原料材もすべて現地で輸入しているため、価格も低く抑えられた。同じコイルを使用したソファも好評だ。
「この年だけどまた自信がついちゃって、まだまだいろんなことができるかなと思っています。つくったことのないダイニングテーブルも今年中に製作予定です。よそが20万円でやるところをその半値以下でやろうと思っています」
日本初でロボット倉庫を導入し、作業の効率化とコスト削減も図ってきた。
「日本で1番にやるのが好きなんです。2番じゃダメ。世の中の5年先を行こうと言っています。それにはリスクも伴いますがチャンスもある。人がやっていない分野に踏み入れることで、生きている実感が湧くのです」
そう目を輝かせる似鳥さん。いったい自身の語る落ちこぼれ人生からどうやって今の成功をつかんだのか。
バカにされ、いじめられ……
1944(昭和19)年、樺太(現在のロシア・サハリン)に開拓民の4代目として生まれる。終戦後は北海道の札幌に移り住み、シベリア帰りの父を迎え、妹2人弟1人も生まれた。
父はコンクリート製品の製造と住宅の基礎工事を手がける土木会社をつくり、母は生活のためにヤミ米屋を始めた。
父の事業の儲けは少なく、もっぱら生活資金はヤミ米販売に頼っていた。物心ついたころから似鳥少年は、ヤミ米の配達や兄弟の子守り、鶏の世話など家の手伝いをし、遊ぶ暇もなかった。
小学校では「ヤミ屋、ヤミ屋」と罵られ、貧しいゆえにツギハギだらけだった衣類をバカにされた。
「おしりのツギをボール遊びの的にされて……これが痛いんですが、逃げるとまたボコボコに叩かれました。いじめられてもいつもニタニタしていたので、ニタリくんと呼ばれていましたね。勉強もできなくて通信簿は5段階の1か2ばかり。すさまじい劣等生でした」
中学生になってもいじめは続き、あるとき配達中に自転車ごと近所の川に突き落とされた。頭から突っ込んでいれば死んでいたが、運があった。
ドロドロになって帰宅すると、慰められるどころか、仕事の失敗を許さない母から「落ちた米を拾ってこい」と怒鳴られる始末。川に戻ってさらったが、10分の1ほどしか回収できなかった。その晩は泥臭さの抜けない米を食べたという。
高校は北海道工業高校へ進学。ここでも不良グループに目をつけられリンチに遭ったり、60人中どん尻の成績だったりとさんざんな学生生活が続いた。カンニングを駆使して何とか卒業にこぎつける。
父はすぐにでも家業を継がせるつもりでいたが、きつい仕事から逃げたい一心で大学進学を懇願する。自立することを条件に許してもらい、札幌短期大学へ入学した。
「4年制の大学は全部落ちたので、短大へ行ったのですが、実はこれも替え玉受験でした。のちに編入試験を受けて北海道学園大学に進学しましたが、アルバイトとビリヤードなどの遊びに明け暮れ、大学で学んだことはほとんどありませんでした」
卒業後、広告会社で営業職に就いたが、まったく契約が取れず、半年で解雇される。
「その後、再就職を試みましたが結局うまくいかず、しかたなく父の会社に入って土木工事の現場を渡り歩きました。ところが火事で現場が全焼し、仕事がなくなってしまったのです。ほかにやることもないので、借金をして商売を始めることにしました」
見合い婚の妻が幸運の女神
これがニトリの創業となる。’67年、父の会社が所有していた30坪の土地と建物を利用し、資金100万円を借金し家具店を始めた。
「家具店にしたのは周囲になかったからで、そのときは家具の将来性や可能性など何も考えておらず、食べていければいいと思っていました」
当時、似鳥さんは対人恐怖症で接客がまったくできず、当然売り上げは上がらず赤字続きとなる。お金に困って15円の即席麺ばかり食べていたら、栄養失調で体調を著しく崩してしまった。創業したはいいが、倒産も時間の問題という窮地に追い込まれる。
「そんなとき“結婚して嫁に接客してもらえ”と両親にすすめられ、見合い8回目にして今の妻と出会ったのです」
24歳のとき、20歳の百百代さんと結婚する。百百代さんは接客上手で固定客をどんどん獲得していった。それまで月に40万円ほどしかなかった売り上げが倍増し、赤字が黒字に転じた。そんな幸運の女神である百百代さんは、結婚当初の似鳥さんをどう見ていたのだろう。
「夫は普通のお兄ちゃんという感じで、事業欲もなく遊ぶことばかり考えている人でした。私はもともとサラリーマンの奥さんになるより商店を切盛りするようなところに嫁ぎたいと思っていたので、夫と会ったとき一緒に頑張っていこうかなと思ったんです」
百百代さんは接客だけでなく、トラックに乗って配達も始めた。
「小さいお店なので、今すぐ持ってきてほしいとか、明日使うから今日持ってきてほしいとか頼まれるんですよ。でも夫はパチンコだかどこだかへ遊びに行っていていつもいない。それを探し回るのが嫌で、自分で免許を取って配達していました」
賢明な妻の働きにより、似鳥家具卸センターは軌道に乗った。1男1女の子宝にも恵まれる。
札幌市北28条東に出した250坪の2号店、北栄店も順調に売り上げを伸ばし、万事がうまくいっていたところに思わぬピンチが訪れる。近隣に面積が約5倍以上もある競合店がオープンしたのだ。たちまち売り上げは落ちて、資金繰りが悪化。金融機関から融資をストップされ、再び倒産の危機に追い込まれた。似鳥さんはうつ状態になる。
「毎日、夜逃げか自殺のことばかり考えていました」
「アメリカ視察」で一念発起
切羽詰まった思いが続く中、家具業界のコンサルタントからアメリカの家具店の視察セミナーの話を持ちかけられた。
似鳥さんは「何かのきっかけになるかも」と、40万円の費用を借金して、藁にもすがる思いで参加した。この旅行で受けた衝撃は、似鳥さんの人生観を一変させることになる。27歳のときだった。
「まずモノの値段が安いことに驚きました。家具の値段も日本の3分の1と安い。それは実質的に米国の所得が日本の3倍あることを意味しました」
圧倒的な低価格とアイテムの豊富さ、トータルコーディネートの美しさは、家具小売店が巨大チェーンだからこそ実現できたものだとわかる。
「日本でも米国の豊かさを実現したい。自分の力で価格を3分の1に下げることができないだろうか」
そう考えるようになった。
またアメリカではクローゼットやつくり棚などにモノをしまうので、部屋の中にはほとんど「箱物」といわれる収納家具はない。家具の少ないスッキリとした部屋にさりげなく絵や鏡が飾られていて、センスがいいと感じた。一方でイスやソファ、ベッドなどの「脚物」は充実していた。
「日本も20~30年後に必ずこういう姿になる」
似鳥さんはそう確信した。ほかの参加者もアメリカの小売りチェーンのスケールの大きさに感心していたが、「日本とアメリカでは文化が全然違う」「アメリカのものをそのまま持ってきても、日本では売れない」というのが大方の意見だった。
「私のように“自分の店をチェーンストア化しなくては”“まずはアメリカを100%まねてみよう”と考えた人はいなかったと思います」
師匠の教えとともに快進撃
帰国後、とにかく店をたくさん出そうと決意した似鳥さんは、経営難の原因となった競合店の西に3号店、麻生店を建てた。これが当初から好調で起死回生の出店となる。
「大チェーンをつくって日本を豊かにする」という目的は明確になったものの、その方法を模索しているとき、経営コンサルタントの故・渥美俊一さんと出会い、’73年、渥美さんの主宰するチェーンストア経営の研究団体「ペガサスクラブ」に入会した。
「ここで渥美先生に企業はお客さまのため、人のため、世の中のためにあることを教えられ、ロマン(=志)とそれを実現するためのビジョン(=20年以上先の目標)を持つことの重要性を叩き込まれました。私は“住まいの豊かさを人々に提供する”というロマンを実現するために“30年かけて100店舗、売り上げ1千億円にする”というビジョンを掲げたのです」
似鳥さんは渥美さんに厳しい指導を受けながらも、「亀は兎に勝つ。鈍重たれ」という言葉に励まされた。最初は無理かもしれないと思っていた目標に本気で取り組むようになる。
「鈍いし、理解できないし、人の話も聞いていない。それでも、ここまで事業で成功できたのは、先生の教え、ロマンとビジョンのおかげだと思っています」
’93年には本州進出を果たし、’94年にはインドネシアに自社工場を建て、’02年には東証1部上場。翌’03年には当初の30年計画より1年遅れではあったが、ついに100店舗を達成した。
「ここで満足してはいけないと、100店達成のイベントは開かず、次の目標だけを見据えました。海外で自社生産を始めたのは、ニトリの希望どおりの商品をつくってくれる企業が見つからなかったからです。結局、製造・物流・小売業という世界初の業態ができあがりました」
商品力をアップするために大手メーカーの技術者を探していたところ、’02年、飛行機の中でホンダのエンジニアだった杉山清さんと出会い、その後、ニトリに迎えた。
「’07年、新潟県の陶器業者から仕入れた中国製の土鍋から、鉛が溶けだしていたことがわかり、約9千個回収する事態が起きました。これを受け、杉山さんはホンダOBを新たに招いて、品質管理の強化に尽力してくれました。今では商品に工場レベルで異物が入ったのか、故意に混入したのかどうかまでわかるようになっています」
その後、大規模リコールは発生していない。土鍋事件は「お、ねだん以上。」実現への教訓になったと話す。
歌手・ニトリアキオも妥協なし!
似鳥さんにはニトリアキオという演歌歌手の顔もある。’13年には歌手・川中美幸さんとのデュエット曲『めおと桜』でCDデビューも果たした。もともと似鳥さんは歌手を志し、大学時代は夜のクラブで歌い生活費を稼いでいたという経験を持つ。
「ホリプロならぬトリプロの所属歌手なんです。トリプロとはニトリ社長の白井(俊之)さんが冗談で事務所の名前をつけてくれたんですが」
そう似鳥さんはおどける。
『めおと桜』をつくった、石川さゆりさんの『天城越え』などの作曲で知られる弦哲也さん(70)は、歌手・ニトリアキオをこう語る。
「似鳥さんが飛行機の中でスカウトした杉山さんは僕の中学の先輩でした。“今ニトリにいるんだけど、社長(その当時の)が歌が好きでね”と紹介され、一緒に食事やカラオケに行くようになりました。お金持ちの道楽的に歌っている人はたくさんいますが、似鳥さんはそういう自己満足型の人ではありません。自分の歌をどういう人が喜んでくれるかとか、こういう思いを伝えたいとか、常に考えている人なんです」
テイチクレコードの創立80周年に看板歌手が異色の人とデュエットをするという企画があり、弦さんは川中さんの相手に似鳥さんを推薦した。
「『めおと桜』は、つらいことや悲しいことがあっても、2人で頑張っていればいつか幸せな花が咲くという夫婦愛をテーマにした作品です。似鳥さんも糟糠の妻、百百代さんがいて今があるわけで、そのテーマもぴったりでした。大物歌手の前でも堂々と歌っていましたよ」
2作目にリリースした『ススキノ浪漫』は、景気が冷え込んでいる故郷、北海道を応援したいという似鳥さんの気持ちが込められている。
「石川さゆりさんや五木ひろしさんといった一流の歌手に曲をつくるときも、4回も5回もつくり直すことはないんですが、似鳥さんはこういう思いを伝えたいのでお願いしますと言って、自分が納得するまで歌詞やキーの高さなど細部を確認するんです」
レッスン時間も分刻みのスケジュールの中から捻出しているという。
「レコーディングでも、僕らはある程度までいったらOKを出すんですが、“妥協してる顔は好きじゃないです、本当にOKになるまで歌わせてください”と何回もやり直します」
それは似鳥さんがソファなどの商品開発中に、何百万回とスプリングに重りを落としてテストするのと精神は一緒で、強いプロ根性に感服するという。また、弦さんが感心するのは似鳥流「人と人との交わり方」──。
「似鳥さんが主催するゴルフコンペやパーティーは日本の錚々たる企業人が集まるんですが、みんな、少年の顔になっちゃうんですよ! 周囲を幸せな気分にさせる天才ですね!」
「内助の功」は「ほったらかし」
「孫悟空と観音様」
似鳥さんと百百代さんをそう喩えるのは、前出の日本証券業協会会長の鈴木さんだ。
「似鳥さんは確かにスゴイ人だけど、何といってもスゴイのは奥さんですよ。これはみんなが言うけどね。似鳥さんはやりたいことをして、ワーワー遊んだりしていてもね、結局、百百代さんの手のひらの上で動いているにすぎないという(笑)」
似鳥さんは現在、東京に単身赴任中だが、北海道で暮らす百百代さんにこう感謝の気持ちを表している。
「今の私自身があるのもニトリがあるのも、うちの家内のおかげだと思っています。それは間違いない。2号店出店後、倒産の危機に陥ったときも、私がいるから大丈夫だと言って、死に物狂いで働いてくれた。アゲマンですね。感謝しかないです」
似鳥さんは百百代さんとは苦楽をともにしてきたという一体感があり、何より人生の目的が一緒ということがありがたいと話す。今も百百代さんがくれる身内ならではのアドバイスがとても参考になるそうだ。
「ときには思いやりが足りないと怒られることもあります。そんなときは、気がつかなくて悪かったと素直に謝るんです。“何度も同じこと言われてるくせに”と言われるけど、ごめんね、年で忘れちゃうんだと(笑)。夫婦は明るいことが大事かな」
経営にも夫婦間にも「ロマンとビジョン」と「明るい哲学」が必要なのだそうだ。
似鳥さんの成功は「内助の功」なくしては語れない。当の百百代さんは何がいちばん大きかったと感じているのか。
「ほっといただけですよ。うるさく言わないだけでした。今考えるとそれがよかったのかなと思います。それは肝に銘じたわけでなく、どこか行って遊んできたんでしょとか思いつきもしなかったから、幸せだったのね」
最近になって「子どもの誕生日やクリスマスにいなかったけど、何していたの?」と似鳥さんに尋ねたところ、「覚えていない」と返されたそうだ。
「まぁ時効かなと思いました。気がついたら夫が自分で育っていた。会社も大きくなっていたと。若いころは働かなかったから、今楽しくて仕方ないんじゃないかしら? 仕事も楽しみも人の3倍生きていると思いますよ。あとは自由におやりと。たまには札幌に仕事以外で来てほしいなと思いますけど」
70代の「今」が楽しい!
ニトリは現在「’22年に1千店舗、売上高1兆円」という目標を掲げている。
「できそうもない数字を上げて、それに果敢に挑戦していくのがわが社の社風なんです。でも、できなかったらすいませんと(笑)。失敗しても会社がつぶれることがなく、やり直しがきけばいいんじゃないかなと思っています」
とにかく決めることが大事で、取り組むうちに障害がでてきたら、走りながら乗り越えていく。人生は障害物競走なのだと言う。「悔いのない人生」がモットーなので、やってみて失敗しても悔いは残らないのだとも。
「僕はとにかく人を喜ばすことが大好きなんですね。これはお袋の遺伝だと思います。顔も似ているんですよ。でも、そのお袋とも遺産をめぐって裁判となり、現在は法律“和解”していますが、お墓参りもさせてもらえないんです。死ぬまで和解できないかもしれませんね。家系的にそれを繰り返しているところがあって。自分の子どもとはそうなりたくないなと思いますが……」
冗談を交え終始、場を和ませていたが、移動の車中で一瞬、しんみりとした表情を覗かせた。そして、似鳥さんは再び屈託のない笑顔に戻ると、こう語ってくれた。
「たとえクタクタになっても一銭の得にならなくても、人が喜んでくれる顔を見るのが好きで生きがいなんです。まぁ、それでいつ死んでも本望ならそうしなさいと、家内にも言われます。この世にないものをつくるとか何でもいいので、世のため人のため喜んでもらえることを死ぬまで続けていきたい。それが人生最大の幸せだと思っています」
似鳥さんは70代になったとき、もう60代のような楽しいことは起こらないだろうと思ったそうだが、今すべてがグローバルに広がって、さらに面白くなってきたと話す。
「80代は生きているかわからないけど、もっと楽しい人生になると思う。そうつくっていきたいなと思います」
妻と師と出会い、劣等生人生にさよならした似鳥さん。世界の暮らしを豊かにしたいと奔走し続ける。
時代が求めているのは「安さと品質」。人が惹きつけられるのは「度胸と愛嬌」。それを実現し体現するのは、「お、ねだん以上。」なロマンティストの愛すべきリーダーだった。
取材・文/森きわこ
もりきわこ ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社で働く。社会人2人の母。好きな言葉は「やり直しのきく人生」。