2学期が始まったとたんに異物混入が発覚するなど、何かとニュースを騒がせることの多い“給食”。それほどまでに今では当たり前の存在となった給食ですが、その起源を遡っていくと、なんと明治時代に辿り着くことに。給食の歴史について探ってみました。
何かと話題の学校給食130年もの歴史があった
“まずい給食”が問題になっている。神奈川県大磯町の町立中学校2校で、給食の食べ残しが大量発生したのが発端。小中学校給食の残食率の全国平均は6.9%(’15年環境省調べ)だが、多い日では55%も食べ残されていたという。
生徒たちは「冷たくておいしくない」「味が薄い」と口をそろえる。さらには異物混入も発覚。昨年1月以降、毛髪や虫、金属片などの混入がなんと84件もあった。
給食導入を選挙公約に掲げて当選した中崎久雄町長は、「子どもたちに大きな精神的負担をかけた」とお詫びするも、混乱はしばらくおさまりそうにない。
この問題が発覚した2校は、保護者の要望を受け、昨年1月から民間業者に調理と配送を委託するデリバリー方式の給食をスタートさせたばかりだった。
文部科学省の調査(’15年)によると、給食実施率は全国の公立小学校で99.6%、公立中学校で82.4%。完全無償化を実現している自治体もある一方で、実施率が20%台にとどまる自治体もあり、その地域差は大きい。
元祖は山形県の私立忠愛小学校
そもそも給食はいつ始まったのか?
学校給食歴史館の大澤次夫館長が解説する。
「明治22年、山形県鶴岡町(現・鶴岡市)の私立忠愛小学校が最初です。お坊さんが寄付や托鉢(たくはつ)などによって作った学校で、教科書や筆記用具などは無償配布。お昼は基本的には弁当持参でしたが、貧しくて持ってこられない子どももいた。そのため、お昼も無償で出そうと始まりました」
その後、地域の豪商の資金提供などにより、給食を出す学校が少しずつ出てくるように。
「当時は、子どもを学校に通わせるより、家の仕事を手伝わせたいと考える親も多かった。“お昼を無償で出すから学校に通ってきなさいよ”という呼び水の意味合いもあったようです」(大澤館長・以下同)
1913年には “栄養学の父” 佐伯矩博士が文部省(現・文部科学省)から奨励金を得て、東京の10数校で給食を実施。就学率アップや児童の体力向上の手段として、国も学校給食を奨励するようになるが、第二次世界大戦での食料不足により、ほとんどの学校で中止に。
パン、ソフト麺、脱脂粉乳の時代
「再開は敗戦翌年です。アメリカ在住の日系人記者・浅野七之助の働きかけにより、アメリカのボランティア団体から脱脂粉乳、缶詰、小麦粉、洋服などが届きました。この『ララ物資』によって、学校給食を再開することができました」
戦後数年で、学校給食は爆発的に全国に普及。1954年には学校給食法が制定され、法的な体制も整った。
「当時の学校給食の主食はすべてパン。戦後、アメリカから大量に安く入ってきた小麦粉はすべて強力粉だったので、作れるのはパンだったんです」
当時、ほとんどの農家は米を作っていたため、うどんの原料となる薄力粉や中力粉を作る農家は少なかったという。
「でも毎日、パン食じゃ飽きちゃう(笑)。1965年、学校給食用に強力粉から作る麺が開発、採用されました。ご存じ、ソフト麺です」
とは、東京都学校給食麺協同組合の理事。脱脂粉乳から牛乳へ切り替わっていったのも、このころ。
「ご飯給食の始まりは意外と遅く、昭和51(1976)年です」(大澤館長)
国がすべての米を生産者から買い入れ、管理していた当時の米は高価だった。大澤館長によれば、
「学校給食用の米は35%も値引きされていました。値引きなしの自主流通米に切り替わったのは2000年です」
2005年には、栄養教諭制度がスタート。そして、’09年には、1954年の制定以来、初めて学校給食法が改正された。
「給食を教育の一環としてとらえるようになり、地元食材の採用など、メニューや形式に広がりが。また、食育の授業も行われるようになりました」(大澤館長)
こうした変遷を経て、給食は学校に定着していったのだ。