ビートたけしは、生き生きとカツラネタをしゃべり続ける

 この1カ月ほどの間、テレビでビートたけしの姿を見る機会がいつも以上に増えていた。自身が監督を務める映画『アウトレイジ 最終章』の告知のため、「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジテレビ系)、「しゃべくり007」「ミヤネ屋」(日本テレビ系)など、レギュラー以外のさまざまな番組に出演していたからだ。

 その中でも、10月2~6日に5日連続で放送された特別番組「おはよう、たけしですみません。」(テレビ東京)は衝撃的な内容だった。平日の朝7時30分から8時まで30分間の生放送で、たけしが水道橋博士と太田光に挟まれて(10月3日は水道橋博士の代役として岡田圭右が出演)、政治から芸能まで幅広いジャンルの話題をノンストップでしゃべり続けた。

 3日目の10月4日にはなんと現場に現れず、生放送をドタキャンしてしまった。これに関して世間ではたけしを責める声はほとんどなく、「さすがたけし」と評判になっていた。仕事を無断で休んで褒められるのは、日本広しと言えどもビートたけしただ1人だろう。

カツラにまつわるギャグを連発

「普段出ている収録形式のレギュラー番組では、現場でどんなに過激なギャグを言ってもオンエアではすべてカットされている」と、たけしは語っていたことがあった。誰も止める者がいない生放送のこの番組では、往年の「ビートたけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)を彷彿させる暴走トークが展開されていた。

 中でも1日目の勢いはすさまじいものだった。カツラ疑惑のある芸能人の実名をバンバン出して、カツラにまつわるギャグを連発。暴走を止める進行役のアナウンサーなどもいない状況で、たけしは生き生きとカツラネタをしゃべり続けていた。

 それにしても、なぜたけしはこれほどカツラネタが好きなのだろうか。彼が喜々として、子供のようにはしゃぎながらカツラネタを話しているところをテレビで見たことがある人は多いはずだ。たけしのカツラに対するこだわりは尋常なものではない。そこには何か特別な理由があるのだろうか。

 しばしば誤解されがちだが、たけしは決して髪の毛の薄い人をからかうようなネタが好きなわけではない。たとえば、こんな話がある。

 「M-1グランプリ」(テレビ朝日系)で優勝したこともある実力派コンビのトレンディエンジェルは、自分たちが薄毛であることをネタにしていることで有名だ。しかし、トレンディエンジェルの斎藤司は2014年に「THE MANZAI 2014」(フジテレビ系)に出場した際、たけしから「俺は隠しているほうが好きだけどな」と告げられたのだという。

 そう、たけしが好きなのは「薄毛の頭部」そのものではない。トレンディエンジェルのように、自分たちの頭髪の量が少ないことを気にするそぶりもなく、明るく開き直るような芸風には、それほどの興味はないのだろう。

芸人・ビートたけしの根底に流れているもの

 おそらく、たけしは「カツラ」そのものが好きなわけではない。むしろ、自分の頭髪が薄いことを気にして、バレてしまうリスクを負ってでもカツラをかぶりたくなってしまう、人間の性(さが)に関心があるのではないだろうか。

 人間とは実に弱くて、ずるくて、情けない生き物だ。世の中にはびこっている偽善や欺瞞をあぶり出し、その裏にある真実を暴き出して笑い飛ばしたい、という欲望こそが、芸人・ビートたけしの根底に流れているものだ。

「毒ガス漫才」と呼ばれたツービートの漫才に始まり、たけしの披露する漫談やコント、彼の手掛ける映画作品まで、すべてに共通しているのは、か弱い人間が自分を守るために作り出したウソを、ウソだと指摘して白日の下にさらす「残酷さを秘めた笑い」の感覚だ。

 たけしは映画やドラマによくある不自然な演出を指摘するネタをよくやっていた。「なぜ刑事ドラマで犯人を追い詰めるときはいつも崖の上なんだ?」「なぜ犯人が車で逃げているときに、車の走り去った後の道路に沿って銃を撃つんだ?」といった内容だ。

 もともとそういう視点を持っていたからこそ、自分が映画を作るときには、そのような常識に縛られず、斬新な撮り方ができた。

 たけしの映画では、拍子抜けするほど簡単に人が次々に死んでいく。死ぬ間際に感動的な捨て台詞を残したりはしない。また、ケンカなどの暴力シーンでも、大抵は一瞬で片がつく。延々と殴り合ったりすることはほとんどない。現実の暴力が振るわれる場面では、そのような悠長なやり取りが行われることはないからだ。

 そう、リアリティを何よりも重視するたけしにとって、カツラに隠された頭部こそが「リアル」なのである。カツラで隠されていない頭には「欺瞞」がない。だからこそ、たけしはただの薄毛には関心を持たないのだ。

人間の弱さを笑って肯定する「優しさ」の裏返し

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 たけしのカツラネタの餌食になる芸能人は、ほぼ例外なく「カツラだとうわさされている人」である。本人がカツラであることを公に認めている場合には、ネタにする余地がないからだ。あくまでも「カツラ芸能人」ではなく「カツラ疑惑のある芸能人」というグレーな状態にとどまっている人だけが興味の対象である。

 たけしともかかわりの深い落語家の立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」と言っていた。人間は弱くて情けないものだ。そんな人間の弱さを肯定するのが落語の役割なのだ、というのが彼の持論である。たけしがカツラネタをこよなく愛するのも、そこに「人間の業」が感じられるからではないだろうか。

 たけしがカツラのことを楽しそうに語るとき、カツラをかぶっている人を単にあざ笑っているわけではない。それに象徴されるような人間の業の深さを笑っているのだ。「ざまあみろ」ではなく、「しょうがねえなあ」の感覚である。

 カツラとはその場しのぎの対応にすぎない。

 しかし、真実から目を背けて、その場しのぎに頼りたくなってしまう瞬間は誰にでもある。真実はまっすぐ見つめるにはあまりにもまぶしすぎるからだ。ひたすらリアルだけを追い求めるたけしの「残酷さ」は、人間の弱さを笑って肯定する「優しさ」の裏返しでもあるのだ。(敬称略)


ラリー遠田(らりーとおだ)◎作家・ライター/お笑い評論家 主にお笑いに関する評論、執筆、インタビュー取材、コメント提供、講演、イベント企画・出演などを手掛ける。お笑いオウンドメディア『オモプラッタ』の編集長を務める。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、 『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)など著書多数。