日野原重明さん

 病院の現場に、講演に、医療の刷新運動に……100歳を越えてなお、新しいことに挑戦し、他人の命のために自分の命を使い続けてきた日野原重明さん。人生の最後まで実践し続けてきた「命」の使い方に迫る──。

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 この人ほど「命」について伝わる言葉で話した医師はいないかもしれない。

 日野原重明さん。7月、105歳で亡くなったが、人生の後半は、子どもたちに「いのちの授業」を通して、命とは何かを伝える活動を続けていた。その授業をそばで聞いた人たちの話をまとめると次のような要旨になる。

 生命誕生から40億年という時間軸でみると、私たちがいま生きているときは、砂粒程度の小さな存在かもしれない。でも何億年もの間、受け継がれてきたいのちをあなたたちは授かった。何か意味があるはずだ。

 いのちはどこにあると思う? 心臓? 頭? 心臓は血液を全身に送るポンプ、頭は考えたりするとき使う。でもそれらは身体の一部にすぎない。では、いのちは何かといえば、目に見えないものなんだ。掴むことも触ることもできない。でも感じることはできる。

 葉っぱがそよいでいるのを見て、風が吹いているのを感じるみたいに。空気は見えないけど必要なように、いのちも同じように見えないけど大切なものだ。

 私は、いのちとはあなたたちが持っている時間だと思う。それをあなたたちは自分のためだけのものだと思っているかもしれない。でも大きくなったら、そのいのちと時間を自分以外の人のために使ってほしいんだ。そうして人の幸せのためにも。

 もし世界中の人たちがそういう考え方をすれば、戦争なんて絶対に起きないよ。自分の幸せばかりみているから、人は争ってしまう。戦争はいのちを奪うから絶対にやってはいけないんだ。

 日野原さんの人生を振り返るとき、これはまさに自身の「命」の使い方だった。人や人の命のために、自らの命を使った人生をたどりたい。

戦争で医師としての無力感を感じた

「僕はね、タイタニック号が沈没した年の1年前に生まれたんですよ」

 日野原さんは講演などで自己紹介するときに、よくこう言って会場を沸かせた。

 1911(明治44)年10月4日生まれである。6人きょうだいの次男。父親はプロテスタントの牧師である。生まれは山口市だが、少年時代は神戸で過ごす。日野原さんが書いた初めての自叙伝『僕は頑固な子どもだった』によれば、幼いころは丸顔で「西郷さん」と呼ばれたり、人前に出るとすぐに赤面するので「金時さん」とも呼ばれたという。

 しかし内面は、強烈な負けず嫌い。同書の編集をし、10年以上、日野原さんを担当した、雑誌『ハルメク』副編集長・岡島文乃さんはこう話す。

「きょうだいでトランプ遊びをしていたとき、自分が負けそうになると、妹の脚をつっついたそうです。後年、妹さんがそのことを言ったら、“そうだよ、僕は負けず嫌いだからね”とすましていたとおっしゃったようです」

 そんな日野原さんをよく知る日曜学校の先生は、母親にこう言ったという。

「しいちゃん(重明君)はよい方向に育てばいいけれど、悪い方向に向かえば、大変な子になりますよ」

 よい方向に育つきっかけになったのは、母親の病気だったかもしれない。重い腎臓病にかかり死線をさまよったことがあった。日野原さんは、神様に「お母さんを助けてください」と祈るぐらいしかできなかったが、医師が適切な治療をした結果、危機を脱出する。その一部始終を見た重明少年は、「人の命を助けるお医者さんになろう」(前掲書)と決意するのである。

 京都帝国大学医学部を卒業後、研修医として働くが、ひとりの少女の死に接し、医師の仕事とは何かという問題に直面する。

 少女は16歳。紡績工場で働いていたが、結核性腹膜炎という病名で入院していた。腹痛と吐き気で、次第にやせ衰えていった。母親はなかなか見舞いに来ることができない。母子家庭で、母親は働き詰めだったからである。

 症状は悪化の一途をたどる。入院から3か月後、打つ手なしの状態に。彼女は死を悟ったようにこう言った。

「先生、どうも長い間、お世話になりました。……私はもうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。……先生、お母さんには心配をかけ続けで、申し訳なく思っていますので、先生から、お母さんによろしく伝えてください」(『死をどう生きたか』)

 日野原さんは、このとき、

「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」と、励ましてしまう。

 強心剤を打つも身体は反応せず、茶褐色の胆汁を吐く。不要な治療を加え、安らかな最期を妨げていた。少女を苦しめてしまったことを、日野原さんは後悔する。

 死を受容した彼女に、どうして「安心して成仏しなさい」と言ってあげられなかったのか。なぜ彼女の手を握っていてあげなかったのかと。

 医師としての無力さを痛感する体験もした。太平洋戦争である。大学時代にかかった結核の後遺症があり、すぐには召集されず、勤務していた聖路加国際病院で診療にあたっていたのだ。後年、日野原さんの活動を支えた看護師の石清水由紀子さんは、当時の話を聞いたことがある。

「東京大空襲のときなどは、ケガをした人が次から次へと運ばれてきたといいます。でも薬が満足に足りませんから、大ヤケドを負った人にも、新聞紙を燃やした粉しかかけられない。亡くなっていく人の死亡診断書を書くばかりで、本当につらかったそうです。特に100歳を過ぎてからでしょうか、そういう話をされるときは、苦渋の表情を浮かべておられました

 そんな経験から、「戦争をしない」「軍隊は持たない」ことを明記した日本国憲法は大切だと訴え、改正には反対し続けた。一昨年、安全保障関連法が成立した際も、記者会見で強い口調で言った。

「私は絶対反対です。全く反対。本当の憲法というのはもっと恕しがある。それが憲法のエッセンスです」

患者の心にまで寄り添う医療を始める

 日野原さんにとって、大きなターニングポイントになったのは、1970年に起きた「よど号」ハイジャック事件である。学会出席のため搭乗した日航機が赤軍派によって乗っ取られたのだ。4日間機内に閉じ込められ命の危険も感じたが、無事解放される。

 当時、日野原さんは58歳。この経験を通して、残りの人生を与えられた寿命ととらえ、こう考えるようになる。

「第二の人生が多少なりとも自分以外のことのために捧げられればと希ってやみません」(日野原さん夫妻が出した関係者への挨拶状より)

 日野原さんは、人の命を守る先駆的な試みを、次々に行い始める。

 例えば、全人医療病気を治すには、病気の部位だけに注目するのではなく、患者それぞれの人生、食生活や住環境といった生活環境も把握し、なおかつ心にも寄り添いながら行われなければならないというスタンスだ。

 興味深いエピソードがある。語るのは、障害のある人の施設『ねむの木学園』理事長の宮城まり子さん。

2016年に開かれた『ねむの木学園』役員会で、理事長の宮城さんと。日野原さんは宮城さんを励まし続けた。宮城さんが手にしているのは、ねむの木学園の映画のビデオ

 40年ぐらい前のこと。過労で体調を崩し、聖路加国際病院に入院していた。脚も腫れていて歩けなかったのだ。

 ある日、日野原さんが宮城さんの病室に入ってきた。旧知の仲だから、言葉遣いも態度もフランクだ。

「まりちゃん、僕の脚のほうが腫れているよ、ほら」

 そう言って、ズボンの裾をまくり上げてみせた。まず目に飛び込んできたのは、毛むくじゃらのすね。次に見たのは腫れているふくらはぎ。ジッと脚を見入る宮城さんに、日野原さんは言った。

「1日、仕事をしていれば脚も腫れるよ。仕事に負けていてはダメだよ。君は大切な仕事をしているんだから。もっと頑張らなきゃダメ」

「はい」

「もう治った!」

 病室を出ると日野原さんは、エレベーターは使わず、階段を上がっていった。

お医者さまが自分の脚を見せる。ほかのお医者さまはそんなことをしないと思うけど、日野原先生はそこから感じるものを望まれたのだと思う。私のような者には、こういう治療法がいちばん効くことをおわかりになっていたのです。私の脚、まだ腫れていたけど、気持ちの面で立ち直って、数日後に退院した。名医だと思う。

 あれから何度も入院したり、“先生、もう疲れた、もうやめる”と弱音を吐いたりすると、“何言っているんだ、僕はまりちゃんより15歳も上なんだよ、頑張らなきゃ!”と言ってくださって。そんなふうに私のことを励ましてくださいました」

 それから約20年後、宮城さんが最愛の作家、吉行淳之介さんを看取った際、日野原さんが横にいた。聖路加国際病院の病室で、宮城さんは、作品を書いてきた吉行さんの右手を持ち、日野原さんが左手を持って見送った。当時、吉行さんはねむの木学園理事。死後、日野原さんが引き継ぎ理事長代行に就任した。日野原さんらしいエピソードだ。

“新しい老人”の生き方を探る

 それ以外にも日野原さんは、医療の世界に、命を守るための革命的な発想を次々に世に問うていく。

 例えば、人間ドック病気の早期発見・早期治療が大事だと、日野原さんはごく早い段階で病院に導入したが、それでも十分でないと考えた。そこで始めたのが、「予防医療」である。当時、活動をともにした紀伊國献三さん(笹川記念保健協力財団最高顧問)は、次のように話す。

「それまでの医療は、治療に大きな力点が置かれていました。そこから一歩進んで、予防医療をやらなければと、日野原先生は考えたのです。そして自分の健康は自分で守ることの大切さを説いたわけです」

 日常生活に、病気にならないような食生活や運動習慣といった、いわば「生活習慣」の概念を広めようとした。

 いまでは誰でも知っていることだが、日野原さんは’70年代から予防の大切さを訴えていた。それを普及するために、’73年、「ライフ・プランニング・センター」という財団法人を立ち上げた。途中、聖路加国際病院院長の誘いもあったが、それを断っても、この財団に力を注いだ。

「成人病」を「生活習慣病」に変えるよう、厚生省(当時)に働きかけたのも、そうした活動の一環である。

 家庭で血圧を測れるようにしたのも、日野原さんの運動の賜物だ。同財団に’80年から職員として関わった前出の石清水さんはこう話す。

「血圧の自己測定運動も、最初、多くの専門家は“とんでもないことだ”と反対しました。でも、先生は自ら全国を回り、聴診器を用いた血圧計の使い方を主婦にも教えていました。勇気のいることだったと思います」

 その後、電子血圧計が普及し、自己測定は当たり前になった。負けず嫌いで頑固な日野原さんの面目躍如である。

 さらに日野原さんは、「新老人の会」を、2000年に立ち上げる。新しい老人の生き方を探る会だ。設立当初から同会の事務局長を務める前記の石清水さんが語る。

「新老人の会」を全国に展開しようと、できるだけ多くの会場に足を運び講演した

「それまでの老人は人に迷惑をかけないように生きるという考えが一般的でした。でも日野原先生は、高齢者だからこそ持っている知恵や経験を社会に還元することを考えました。また新しいことにチャレンジして生きがいを見いだすことも大事だと訴えました。老いることを“新しい価値”ととらえたわけです。仲間を増やして、あの人がやるなら私もと刺激しあうような国民運動にしたのです」

 3、4年前までは、年間30か所で講演をし、「新老人の会」が全国組織になるよう努めた。そのかいあって、ピークの2011年には、会員は1万2千人を数えた。

「新老人の会」のいちばんのモデルが日野原さんであったことは誰もが認めるところだろう。

 連載を何本も抱え、生き方などいろいろな考えを広めた。80歳で聖路加国際病院の院長を引き受け、その3年後に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。日野原さんはその日の外来診察を中止し、被害にあった640人を引き受けることを決断、命を救ったこともあった。

 90歳を越えても、若い人がエレベーターを使っているのを横目に、書類がいっぱいに入った紙袋を抱えながらでも階段を上がる。100歳になってようやく「徹夜はそろそろやめようか」というスタミナにも驚かされる。

 新しいことに挑戦するのが大好きで、90代後半から俳句や絵画を始め、100歳からFacebookを使って「新老人の会」会員にメッセージを伝えるようになった。

命は巡り、受け継がれ、永遠に生きる

 老人への活動の一方で、冒頭に紹介した「いのちの授業」に代表される、子ども向けの活動も’87年に始めた。この一環だろう、2000年に、童話『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』をミュージカルにする原案を考えた。

2000年10月、ミュージカル『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』初演の打ち上げパーティー。左からクリス役の小山菜穂さん、演出家の犬石隆さん

 春に葉っぱが生まれ、夏に人々に陰をつくったりしながら役に立ち、やがて秋になり散って死んでいく。でも命は終わりではない。葉っぱは土を肥やし、たくましい木の栄養となっていく─というのが原作の主題だ。

“命は巡って永遠に生きる。受け継がれていき、人の心の中にも残るものだ”というメッセージが、日野原さんが書かれた原案からも伝わってきました。日野原精神を凝縮したような作品です」

 そう語るのは、ミュージカルの脚本・演出を手がけた犬石隆さん(演出家)だ。

 実はこの作品、すさまじい集中力で作られた。この企画が旧知の黒岩祐治プロデューサーから犬石さんに持ち込まれたのが、2000年8月。聞けば日野原さんが自身の誕生日に合わせて、10月29日にすでに会場を押さえてあるという。準備期間はわずか2か月。

 犬石さんはこう振り返る。

「普通だととうてい無理な日程です。ところが原案を読んでいくうちに、先生の命に対する考え方が伝わってきて、パワーをいただきました。何かが降りてきた。いま振り返っても信じられないような力が湧いてきて、無事、初日を迎えることができたのです」

 公演は大好評で、’04年には日野原さんが、ルークという老医師役で登場。冒頭の台詞とラストのダンスも披露。92歳で初舞台と話題になった。毎年再演を重ね、合計約200ステージを上演している。

 犬石さんにとって印象深いのは2010年のニューヨーク公演。終戦記念日のころだったため、挨拶に立った日野原さんの提案で、国籍を超えて戦死者に黙禱を捧げた。

 そのあと、ミュージカルが幕を開けたため、客席との一体感が生まれたのかもしれない。犬石さんによれば、芝居が終わった瞬間、観客全員が一斉に席を立ち、スタンディングオベーション。拍手が鳴りやまず、出演者はみな感極まって涙を流したという。

 このミュージカルで興味深いのは、前記した老医師ルークである。原作には存在しないのだが、日野原さんが自分を投影させてつくった人物である。実は、そのルークが死をおそれている。しかし生きることに疲れた少女が少しずつ明るさを取り戻していくさまに触れたり、葉っぱの営みから命は巡っていくことを感じながら、死に対する恐怖から解放されていく。

早春に咲く庭の梅に亡き妻を思う

 ただ現実には、自身の死よりも先に、妻・静子さん(93歳没)との別れがあった。2013年5月、日野原さんが101歳のときである。

 妻であり、経理をするなど夫の仕事を支えるパートナーであり、一方では、知り合いが投げかける悩みの相談に優しくのることから、「田園調布のマリアさま」と言われるような存在でもあった。

 しのぶ会で披露した自身の詩『静子を想う──二人の掌』の一節が切ない。

《毎晩寝る時は 私の左手と静子の右手を合わせる 左手は私の掌 右手は静子の掌 二つの掌のタッチの中に 静子を私は感じる……朝夕の見舞いに握った手のあたたかさを思い出す私は あゝ、何という幸せか》(前掲自叙伝)

 遺骨の灰を、梅の植わる庭に撒き、早春に咲く白梅、紅梅を見ては、妻を思った。

 その妻への思いが、ほとばしり出た瞬間があった。

 昨年の11月7日、日野原さんは、「新老人の会」のイベントに参加していた。当時は、心臓病の影響で、車イスを利用していたが、約1500人の会員を前に、戦争と平和に関する講演をした。そのあと、加藤登紀子さんの歌を客席で楽しんだ。

「新老人の会」で、加藤登紀子さんが『愛の讃歌』を歌った後、抱き合った2人。日野原さんは加藤さんが以前所属していた事務所の石井好子さんと旧知の仲。だから「好子ちゃんの登紀子ちゃん」という認識だったかもと

 加藤さんが『愛の讃歌』を歌い上げた直後である。日野原さんはすっくと車イスから立ち上がり、加藤さんに向けて、拍手し始めたのだ。

 その姿に感激した加藤さんは、壇上から下り、日野原さんのもとに駆け寄った。そして2人は抱き合うのである。

 なぜ、それほど、この『愛の讃歌』は日野原さんの心をとらえたのか。加藤さんは、

「この歌は、人は死ぬけれども、その後も生き続けるということを歌っているのです。それが伝わったのだろうと思います」

 実はその日、加藤さんが歌った『愛の讃歌』は、越路吹雪の歌唱で知られる岩谷時子による訳詞ではない。加藤さん自身が訳したものだ。

 もしもあなたが死んで 私を捨てる時も 私はかまわない あなたと行くから 広い空の中を あなたと二人だけで 終わりのない愛を 生き続けるために

 これはもともと、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフが書いた詩だ。この歌を聴かせたくて、ピアフは当時、熱愛中だったボクサーをパリから公演先のアメリカに呼ぶのだが、乗っていた飛行機が墜落。翌日の夜、喪失感の中で、この曲を歌ったという。

 加藤さんは自分の訳詞で歌おうと思った矢先、夫を亡くし、しばらく歌えないでいた。しかし40周年のコンサートを機に歌い始めた。するとピアフが乗り移ってきたような感触があったという。

「人が亡くなったとき、それが始まりであると。ここからは誰にも邪魔されずに、2人だけの永遠の時間が始まる。この歌は、そういう高らかな愛の宣言だったとわかったのです」

 ピアフが加藤さんに乗り移ったように、加藤さんの思いが日野原さんにも伝わり、静子さんとの永遠の時間を感じたのだろう。

葉っぱは散って養分となり、花を咲かす

 年が明け、今年になると、日野原さんの体調は思わしくなくなった。1月29日、「新老人の会」の会議のため、日野原さんと会ったときに交わした会話を、石清水さん(前出)は覚えている。

「先生、来年4月以降、『新老人の会』の地方講演にいらっしゃれますか」

 すると、つらそうな声を絞り出しながら、こう話した。

「もう、行けないね」

 3月には、自宅で付き添っている日野原さんの次男夫妻から、面会の誘いを受けた。胃瘻も拒否し、もう長くないという感触があったのだろう。4月初旬に行くと、衰弱は隠せない様子だった。

 ところがである。2か月後の6月、日野原さんから直接電話があった。滑舌もしっかりし、張りのある声だった。

「僕ね、2日前、病院で検査を受けたんだけど、どこも悪くないんだそうだ。これから地方にも行けるようにリハビリするよ。次はどこ?」

 振り返れば、これが最後の元気な日野原さんだった。

 ほぼ同じころ、担当編集者の岡島さん(前出)が見舞いに行くと、同居する次男夫妻への手土産として持っていった最中を見た日野原さんが、「僕も食べたい」と言い出した。誤嚥の危険性があるので本当はいけないのだが、指先ほどの大きさにしてもらって食べていたという。

『ハルメク』編集部・岡島さんと。「日野原さんから一緒に撮りましょう」と言われ撮った最初で最後のツーショット(撮影/中西裕人 協力/『ハルメク』編集部)

「最期まで生きるエネルギーを感じました。次男の奥様によると、おにぎりが食べたいとおっしゃるので、やわらかいご飯を握ったら、“パリパリの海苔で巻いたのが食べたい”と怒られたと、笑いながらこぼしておられました」

 しかし、それから1か月と少しで最期を迎える。

 前記の自叙伝の中で、《最期の時にはきっと周りへの感謝を伝えたいと希望するだろう》と書かれているが、実際そのとおりの最期を迎えられたという。3人の息子などお世話になった人に「ありがとう」という言葉を残して。

 日野原さんは多くの人のために、命を使った。それは、葉っぱが散って木の養分になるように、今後いろいろな花を咲かせるに違いない。


取材・文/西所正道

西所正道(にしどころ・まさみち)◎奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を書いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。縁あって神奈川県葉山在住。