あなたは、捨てられた犬と人との奇跡を信じますか? 『聴導犬のなみだ』(プレジデント社)の著者・野中圭一郎さんは、耳が聞こえない人のお手伝いをする「聴導犬」とユーザーさんの固い絆と、深い信頼関係をつぶさに見てきた。パートナーとなった彼らの感動物語を、野中さんに聞くーー。
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みなさんは「聴導犬」という言葉を聞かれたことはありますか?
最近、テレビなどでも取り上げられ、知名度もあがってきましたが、それでも目が見えない人をサポートする「盲導犬」に比べると、まだまだ低いのが現実ではないかと思います。
聴導犬とは、耳が聞こえない人をサポートする犬のことです。
お互いの信頼関係が必要
たとえば朝、起きようと目覚まし時計をセットしていても、耳が聞こえない人は気づくことができません。宅配便がきても玄関のチャイムに気づけないし、お湯が沸くやかんの音に気づくこともできません。
そんなとき「音が鳴っているよ!」と教えてくれるのが、聴導犬なのです。
15年ほど前、聴導犬の訓練風景を取材させていただく機会がありました。「チョウドウケン?」というくらい認知されていない時代の話です。
訓練は小さな部屋で行われていました。訓練犬であるシェパードの、障がい物を乗り越えたり、ハンカチの匂いを嗅いだりする訓練風景を取材した直後だったこともあって、まさに「静謐(せいひつ)の世界」そのものでした。
以来、そのことが心の片隅に引っかかっていたのですが、昨年のこと。小さな道路を歩いていて何気なく後ろを振り返ると、すぐ真後ろに車がいるという経験をしたのです。
エンジン音がしない、ハイブリッドカーでした。「うわっ、危ない!」と思わず脇に逃げましたが、このとき「耳が聞こえない人は、日々、こんな怖い思いをしながら暮らしているのだ」と、ハッとしたのです。それが本書を執筆する直接のきっかけになりました。
聴導犬は、訓練施設が保護センターで保護されていた犬を引き取り、訓練士のもと聴導犬として育てられます。約2年の訓練後、耳が聞こえない飼い主(=ユーザー)と一緒に試験を受け、合格後、ユーザーに引き取られて、一緒に暮らすことになるわけですが、そこではお互いの信頼関係が必要になってきます。
一方的に仕事を頼んでも働いてはくれません。飼い主に「音を教えてくれてありがとう」と褒められたり、愛情を持って世話をしてくれるという深い信頼関係があるからこそ、喜んで「音」を教えてくれるのです。
聴導犬の取材を重ねていくうちに、一般的な知識だけでなく切実な現実も知ることになります。
たとえば耳が聞こえないユーザーは、朝、聴導犬に起こされて目覚めます。部屋でも一緒ですし、外出する際も一緒。文字通り、お互い深い愛情に包まれて生活しています。そのこと自体には何の問題もありません。
しかし犬は人よりも早く歳を取ります。必然的に、一緒に外出してアテンドできなくなるという問題が生じます。現行の法律では、聴導犬は一頭しか飼えませんから、新しい犬にバトンタッチをしなければいけなくなります。すると引退をした今までの聴導犬はどうなるでしょう?
ペットという範疇(はんちゅう)になり、もしユーザーがペットを飼えない環境に住んでいれば、訓練施設に返さなければいけなくなるのです。
どんなに愛していても離れ離れになってしまう……そのジレンマに立ち向かい、命ある限り、最高のパートナーであった聴導犬と暮らした、ある老人の話も本書で詳しく書きました。
気づけなかった音を教えてくれた
またペットとして飼えるユーザーでも、別の問題が発生します。外出する際は、新しい聴導犬と一緒。引退した犬は家で留守番になります。そのことをあるユーザーに問うと、彼女は「今まで通りずっと一緒にいたい」と涙を流されました。
死ぬわけでもないし、別れるわけでもない。ただ24時間一緒にいられない。そのことが悲しくてたまらないといった答えでした。耳が聞こえないユーザーと聴導犬がいかに深い愛情で結ばれているかを再認識させられました。
本書の最後で、私は彼女にこんな質問を投げかけています。
「最後にひとつだけ。あみのすけ(聴導犬の名前)が来てくれて、一番うれしかったことは何ですか?」
すると、こんな答えが返ってきました。
「私が今まで気づくことがなかった音を教えてくれたことです」
「気づけなかった音?」
「鳥が鳴いていることを教えてくれたのです」
そうです。良きパートナーである、あみのすけは、彼女に、生活に必要な「危険な音」だけでなく、“その先”にある「潤いのある音」を教えてくれたのです。
野中圭一郎(のなか・けいいちろう)熊本県生まれ。東北大学文学部卒業後、大手洋酒メーカーに入社。広報部でPR誌などを担当した後、出版社へ。書籍編集部で恋人や人生エッセイ、タレント本やテレビとの連動企画などを数多くの話題作を手がけた後、独立。現在に至る。