知事とくまモンは二人三脚で、熊本を全国にPR。世界中から観光客誘致にも尽力してきた (C)2010 熊本県 くまモン

 授業を抜け出して、木の下で本を読んで夢想していた少年時代。1週間で辞めたサラリーマン、疑問を抱いた農協勤務。猛勉強の果てにアメリカでチャンスをつかんで開いた政治学者への道。今、甚大な被害をこうむった故郷・熊本のために走り続ける知事の人生に迫る!

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 熊本市の繁華街で空港からのバスを降りると、いつもくっきりと熊本城の天守閣が見えたものだった。今、その天守閣はメッシュのシートで覆われている。県民にとっての誇りのひとつ熊本城は、昨年4月の地震によって甚大な被害を受けたからだ。

 繁華街からバスで15分ほどの県庁へ向かう。

 その人は執務室の前で直立不動の姿勢で待っていた。近づくと手を差し出し、「ようこそ、遠いところからありがとう」と満面の笑みで迎えてくれる。蒲島郁夫・熊本県知事(70)。3期目の初登庁の日にあの熊本地震の本震が起きた。そこから休みなしに働きづめだ。県民に「あれほどの災害時に、蒲島さんが知事でよかった」と言わしめる信頼の厚い知事である。

 筑波大学教授、東京大学教授を経て61歳のとき故郷、熊本の県知事となったが、決してエリートではない。国内の学歴は“高卒”である。だからこそ「人の気持ちに寄り添う」ことができたともいえる。

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 蒲島は1947(昭和22)年、熊本県鹿本郡稲田村(現在の山鹿市鹿本町)に生まれた。当時の名前どおり一面に水田が広がるのどかな村だ。旧満州から6人の子どもを連れて引き揚げてきた両親にとって7人目の子である。

「父は旧満州ではそこそこの暮らしをしていたそうですが帰国したら働く場所もなく、気力もなくしたようです。うちは本当に貧乏でした」

 誰もが貧乏な時代ではあったが、中でもわが家は群を抜いていたと蒲島は笑う。

 一家は父方の祖母の家に身を寄せた。江戸時代に建てられた8畳2間に4畳半ひと間の借家である。4畳半は祖母が使い、2間の8畳は一方をリビング、そしてもう一方を親子9人が使わせてもらった。その後、さらに2人の妹が生まれたのだから、その狭さといったらない。祖母が借りていた田んぼは2反半で家族の食べる分さえ足りない。

 母は必死で働き、9人の子どもたちを育てた。父は定職はもたなかったが、いつも穏やかで優しかったという。

うちが貧乏なんだと意識したのは小学校に入ってからです。弁当に白米を持っていけず、私だけいつも粟の入った黄色いごはんだった。靴も、みんなは布製のズックだったけど私はゴム靴。遠足のとき母がズック靴を買ってきてくれたんです。わくわくしながら箱を開けたらこれが赤い靴(笑)。セールだったんでしょう。私が駄々をこねると、母はその靴を墨で黒く塗ってくれました。ところが遠足の日、その墨が徐々にはげ落ちてきて……。ついに“郁ちゃんが赤い靴はいてる”と大騒ぎ。女の子みたいだとからかわれて恥ずかしかった」

授業を抜けて、一本松の下で夢見た将来

 小学校2年生から高校時代まで、蒲島は1日も休まずに新聞配達をしていた。きょうだい全員がそうやって家計を助けていたのである。そして読めない漢字がありながらも、新聞を読むのが日課となっていったという。

 小学校から高校まで同じ学校で仲がよかった芹川孝弘さんは、当時の蒲島をこう語る。

「うちも貧乏だったけど彼の家もひどかった。彼は小さくて特に目立つ子ではなくてね、小学校のときは図書室に入り浸って本ばかり読んでいました。図書室にある本はほとんど読破したんじゃないでしょうか。新聞も読んでいたから、中学のときは豊富な知識が目立って、ワルゴロ(ガキ大将)にいじめられたりしていました」

 だがケンカすることも、いじめた子を悪く言うこともなかった。常に淡々と事態を受け止める子だったらしい。

 勉強はほとんどしなかったものの、地元の鹿本高校に合格した。

蒲島青年が寝転んで本を読んでいた一本松。現在は整備され、一本松公園として市民のいこいの場に

「1学年220人のうち常に200番台にいました。学校へは行くんだけど、抜け出して近くの小高い丘にある一本松の下でごろごろしながら本ばかり読んでいました」(蒲島)

 もちろん芹川さんも当時のことを覚えていて、その場所を案内してくれた。今は一本松公園として整備されているが、村を一望できる丘で、ここで蒲島少年が将来の夢を追いながら寝転んで本を読んでいたのかと思うと感慨深い。

「私には3つの夢があったんです。大牧場主になること、小説家になること、そしてもうひとつはカエサルのような立派な政治家になること。だけどあのころはどうしたらいいかすらわからず、ただ寝転んで本を読んでいたんです」

 高校を卒業すると、蒲島は熊本市内の自動車販売会社に就職した。ところが彼はこの会社を1週間で辞めてしまうのである。会社まで自転車とバスで片道3時間半の道のりを通いきれず、すぐに風邪をひいてギブアップ。

 そして家から自転車で10分ほどの農協に転職した。実家も農家だし、農業には興味があった。2年間勤めたものの「当時の農協のありようが納得できなかった。農家が必要としない機械や、農業と関係ない冷蔵庫などを売りつけたりもしていた。私の理想の農協と現実とのギャップが大きすぎた」(蒲島)ために退職の2文字が頭をよぎり始める。そんなとき、新聞で「派米農業研修生プログラム」の広告を発見。これが彼の人生最大の転機のひとつとなった。

アメリカで重労働と猛勉強の日々

 このプログラムは農業青年をアメリカに2年間派遣するという制度。その中に「肉牛コース」があった。

「阿蘇山の麓で牛を飼って大牧場を経営したいという夢が現実になるかもしれない。そんな思いで必死に英語を勉強して試験を受けました」

 4倍以上の難関をくぐり抜けて合格。1968(昭和43)年、21歳の彼はアメリカへと羽ばたいた。

 語学研修を経て落ち着いた先はアイダホ州の牧場だった。広大な土地で、日の出前から晩まで何百頭といる牛や羊の世話に明け暮れた。肥料作りや牛の病気の予防、畑の手入れも蒲島青年の仕事だった。研修とは名ばかりで労働力として期待されていたのだ。この時期を「本当につらかった」と蒲島は振り返る。

「不平不満があるうちはまだ余力があるんですよ。本当に疲れ果てると不満さえ湧かない。農奴のように肉体を酷使して働いて、何も考えずにただ眠りにつくだけの毎日でした」(蒲島)

 重労働に過酷な環境、さらにウマの合わないボスとひとつ屋根の下に暮らしていることもストレスを増大させた。あげく、仲よくしていた同僚に自分の給料半年分を貸して逃げられてしまうのだ。

ただ、私はこの事件がそれほどショックではなかったんですよね。むしろ研修生のお金を持ち逃げするほど追いつめられていた彼に同情しました。彼も安い給料で働いていたのでしょう。15か月に及ぶアイダホでの研修後、ネブラスカ大学で学科研修を受けることになっていて、そこでの貧乏生活は想定内だったけれども、私は貧乏には慣れていたのでね」(蒲島)

 当時、蒲島を支えていたのは、のちに妻となる富子さんである。渡米直前、熊本市内で出会った県庁職員の彼女に一目惚れして告白。渡米してからもずっと文通を続けていたという。今のようにメールですぐに連絡がとれる時代ではない。3、4日に1度は必ず手紙を書いていたそうだ。

 ネブラスカ大学農学部での学科研修は3か月。

「楽でしたね(笑)。それまでのような重労働をせず、勉強だけしていればいいというのがうれしくてたまらなかった」(蒲島)

 そこで彼は優秀な成績を収めたが、高校時代は「落ちこぼれ」であった自分がこのまま日本に帰るのはもったいない、もっと勉強したいと思うようになっていた。

 そこで、1度帰国して住み込みで牛乳配達をして働き、半年間でアメリカへの片道切符を買った。富子さんとは再度、遠距離恋愛になるが、アメリカで生活できるようになるまで待って結婚することも約束してくれた。

 その確約があったからこそ、蒲島青年は戻ったネブラスカ大学で奇跡を起こすのだ。

不合格! 仮入学から特待生へ

 彼に与えられた期間は3か月。その間に、大学で日本の研修生向けに通訳のアルバイトをしながら、大学の入学試験を受けることをネブラスカ大学から許可されたのだ。

 ところが収入を得ながら受験勉強をするのは、とんでもなく大変なことだった。結果は不合格。富子さんに合わせる顔がないと落ち込んでいると、通訳を務めていたコースの担当講師が入試担当官にチャンスを与えるよう直談判してくれた。

「彼はやる気があってすばらしい学生だと言ってくれたんです。その先生のおかげで、私は仮入学できることになった。アメリカは寛大な国だと驚きましたね。やる気があればチャンスをくれる

 どんなときも一生懸命やっていれば、きっと見てくれる人がいると蒲島は実感した。

 そして仮入学期間中に、「ストレートA」(日本でいうと全優)という結果を出したのだ。約400人の学生のうちストレートAは10人。その中に入ったのである。

「あのときほど勉強したことはありませんでした。これでダメなら帰国しなければいけない。彼女との結婚もどうなるかわからない。追い込まれていたから、120パーセントの努力をしました」

 仮入学から一転、特待生へ。授業料は半額免除、そして各方面から奨学金が集まってきた。特待生は必修科目が課せられないから好きな科目を受講することもできる。彼はすぐに富子さんを呼び寄せて結婚した。大学1年生で結婚とはまた大胆である。

「これ以上、彼女を待たせたくないという思いでした」

 一方、富子さんは東京へと向かう新幹線の中で送ってくれた母親に言われたそうだ。「今ならまだやめられる」と。

「実際会うより手紙のやりとりのほうが多い交際でしたから、まったく不安がなかったわけではなくて」(富子さん)

 とはいえ、そのとき富子さんは自分のすべての貯金を持っていった。夫に何かあったときのための「保険」として。

結婚生活は貧乏ではあったけど楽しかった。州外からの者は特待生であっても授業料は半分払わないといけない。これが高いんです。しかも教材費もかかる。奨学金はあるけど生活は切りつめなければやっていけなかった」(蒲島)

 大学では豚の精子の保存方法を研究した。4年後、卒業を目前に控えて蒲島にはいくつかの選択肢があった。お世話になった指導教授から研究室に残らないかと誘われてもいた。残れば安定した生活を送ることもできる。

「そのとき、一本松の下で描いた夢がまた湧き起こってきたんです。政治学を勉強したい、どうせならその分野で有名なハーバード大学で一流の研究をしたい、と。無謀だけど逆境の中でこそ頑張れるのが私の強みですから(笑)」

車の盗難に泰然とした対応

1977年、ハーバード大学大学院修士課程の卒業証書授与式。この後、博士課程へと進む

 そして、なんと彼はハーバード大学院に受かってしまうのだ。ネブラスカ大学の教授たちが強力な推薦状を書いてくれたらしい。それもまた蒲島の人徳である。

 ハーバードで初めて蒲島に会い、40年以上、公私ともに親しい五百籏頭真さん(熊本県立大学理事長・「くまもと復旧・復興有識者会議」座長)は、「私も決してエリートではなかったから、蒲島さんとは気が合ったのかな」と笑う。

「ハーバードにいたころ、ある日本の経済学者が自宅でパーティーを開いて、私も蒲島さんも呼ばれたんです。そこに警察から連絡があって、彼の車が盗まれ、スプレーで真っ白に塗られたあげく、ぼこぼこになって放置されている、と。車がなくなったらアメリカでは生活していけませんからね。ただ、その電話を受けているときも電話を切ってからも、蒲島さんは泰然としていた。普通だったらパニックになるでしょ。彼は愚痴るわけでも怒るわけでもなく、淡々としていた。この人はすごい人だなと思いました」

 そして蒲島は、ハーバード大学院を優秀な成績で、しかも3年9か月で博士課程まで修了した。奨学金が4年しかなかったので、ここでも必死で勉強したのだという。

 そして10年間のアメリカ生活を終え、妻と3人の娘たちを伴って帰国した。

第2の人生は故郷のために尽くす

 帰国後、筑波大学で17年、東京大学で11年、政治学者として業績をあげ、東京大学教授を務めていた61歳のとき、蒲島は故郷・熊本の県知事選挙に出た。

東大教授時代、ゼミ生とともに。ゼミ生に研究テーマを与え、その成果を出版するのが蒲島ゼミの伝統となった

「このときは驚きました。アメリカに行ったことも、大学教授になったこともびっくりしたけど、今度は知事か、と。それほど親しくなかった同窓生たちは、“あの蒲島君?”って(笑)。私たちの頭の中には、一本松の下で寝転んでいた彼しか記憶がなかったから。でもそれからは誰もが応援しましたよ。いつ会っても彼は変わらなかったからね。ちっとも偉そうなところがなかった。“あのころの蒲島君”のままなんですよ」(前出・芹川さん)

 60歳を過ぎて人生の次の選択をしようとしたとき、「故郷のために尽くしたい」という思いが止められなかったようだ。

娘たちは必死に止めました。私にとっても政治家の世界は遠いし好きでもなかったから、まさに離婚の危機でしたよ(笑)。東京の家のローンも残ってたんです。ただ、本人がその気になったら誰が止めても無理だということは長い結婚生活でわかっていますから、どうせやるなら当選してほしかったですね」(富子さん)

 どちらかというと、人前に出るのは好きではない妻の富子さんも、選挙運動で否応なしに引っ張りだされたと苦笑する。

「強敵が4人いたけど、終わってみれば投票数の半分をとって当選しました」(蒲島)

知事就任後の初記者会見で「熊本のためになるなら何でもする」と強い決意を語った

 彼は県知事として3つの決意を述べた。第1は熊本の可能性を最大化すること。第2はこれから熊本をよくするために、あらゆる知恵と力を使いながら多くの課題に立ち向かっていくこと。第3は県民の目線で仕事をすること。

 そして蒲島は「皿を割ることを恐れるな」というわかりやすいメッセージで職員を鼓舞した。皿をたくさん洗う人は割ることもある。皿を割ることを恐れて洗わないことがいちばんいけない。失敗を恐れずに挑戦しろということだ。「空振りはいいが見逃しはダメ」と野球にたとえることもある。

 知事になると同時に、東大時代の教え子だった小野泰輔さん(現・熊本県副知事)を参与として迎えた。

「声をかけていただいたとき、ちょうど勤めていた会社での大きな仕事が一段落したこともあり、先生が望むならとやって来ました。東大時代から今に至るまで知事が怒るのを見たことがありません。知事は怒りの遺伝子が欠如していると私は思っています(笑)。教授時代からずっととにかく人がやる気になるようにバックアップしてくれるんですね。私自身、仕事でちょっと失敗したことがあったんです。“これが大事になるようだったら辞職します”と言ったら、知事はにこにこしながら“そのときになってから考えればいいじゃないか”と。決して人を責めない。何かあっても対応してくれる。常識にとらわれない器の大きさがありますね

 小野さんはそう話す。

蒲島3原則」は「怒らない、強制しない、言ったことは守る」の3つ。

 そして知事になるなり、蒲島は1年間、自分の給料を公約どおり毎月100万円カットした。税金を払うと月に14万円という給料だった。毎月公開している知事交際費は数万円の出費しかない。知事になってから質素な生活をしていると笑う。

救世主・くまモンを採用

 蒲島が県民の圧倒的な人気を得たのは、就任して半年で結論を出すと公約した川辺川ダム建設の可否だ。40年以上前にダムを造ると計画したものの、地域の中にも賛否両論があり話が進まずにいた。

 蒲島は、就任してすぐ専門家による有識者会議を開く。事前に人選して彼らには了解をもらっていた。

 ダム建設のためにすでに移転した人たちもいる。ダムを造れば五木村の中心地が水没し、清流川辺川の自然環境にも大きな影響が出る。川辺川流域では賛成派と反対派が対立していた。半年後、有識者会議での議論を踏まえ、蒲島は建設計画の白紙撤回を決断した。定例県議会でそれを発表したとき、彼は五木村の人たちへのメッセージも述べた。

「五木村のみなさんは下流の村民の安全のために、住み慣れた家や代々受け継いだ農地、ご先祖の墓所を手放すという苦渋の選択をされました」

 そこで蒲島は胸にこみ上げるものがあり、絶句した。嘘偽りのない心情だった。それをテレビで見た県民は、「この人なら信じられる」と心から思ったそうだ。直後の世論調査で85パーセントの県民が蒲島の決断を支持すると答えた。

 知事になってから蒲島はさまざまな課題に取り組んできたが、「県民の総幸福量の最大化」に大きく貢献したもののひとつが「くまモン」の登用ではないだろうか。

2013年、蒲島氏が母校ハーバード大学で講演をした際、くまモンも同席。学生たちにウケた

 2011(平成23)年の九州新幹線全線開通を前に熊本には危機感があった。このままだと熊本を素通りされてしまう。そこで「くまもとサプライズ!」というキャッチフレーズを熊本出身の放送作家・小山薫堂氏が考え出し、そのロゴをデザイナーの水野学氏が考え出した。そのロゴの「おまけ」に水野氏がつけたイラストが「くまモン」だったのだ。

「最初作ったくまモンは、今では初号機とかゼロ号機とか呼ばれていますが、かわいくなかった(笑)。これでは県のキャラクターとしてどうだろうと困っているとき、見るに見かねたのでしょう、今のかわいいくまモンがどこからかやって来たんです」(蒲島)

 蒲島は救世主のようにやって来たくまモンを連れ歩き、臨時職員として正式に雇い、さらに営業部長に抜擢。庁議にも参加させた。これも最初は賛否両論あったが、蒲島は馬耳東風。いいと思ったらどこまでも突き進むのだ。穏やかに、にこにこと。それが蒲島流である。

 最初は25億円あまりだったくまモンの関連商品売上高は、2016(平成28)年度には1280億円にまでなった。日本のみならず、アジアや欧米にもくまモンは進出、熊本産の物品売り上げや観光客の誘致に力を発揮している。くまモンは人々に笑顔と元気を届け、県民の誇りにもつながっている。どうせ熊本の場所など知らないだろうと「九州出身です」と言っていた熊本出身者が、胸を張って「熊本です」と言えるようになったともいう。

熊本の復旧・復興、さらなる発展へ

 昨年4月、熊本県では、28時間の間に震度7の地震に2度も見舞われるという悲劇が起こった。このときも蒲島は、「熊本には3つの宝がある。熊本城と阿蘇とくまモン。熊本城と阿蘇は傷ついたが、くまモンは元気です」とアピールした。くまモンはさまざまなキャラクターの中で人気・好感度ともに日本一である。くまモンを通して熊本を応援したいと願う人々が次々と手を差しのべた。

くまモンが登場して7年。知事と一緒に国内外に熊本の素晴らしさを伝える

 蒲島は地震から2日後には「くまもと復旧・復興有識者会議」の立ち上げに着手し、「復旧・復興の3原則」を発表。被災者の痛みを最小化する、創造的な復興を目指す、復旧・復興を熊本のさらなる発展につなげると確約した。

「ハーバード大学の国際政治学者、サミュエル・ハンティントン教授が『ギャップ仮説』という理論を出しているんです。これは期待値が実態を上回ると不満が起こるというもの。だから災害対応では、人々の期待値が小さいうちに、行政は先の展望を示すことも含め、実態を充実させていかなければいけない

 被災者の生活再建のためには、「住まい」と「仕事」の再建が重要だとしてきたが、地震から1年半たった今、住まいの再建への具体策も打ち出している。特に自宅の再建が困難な高齢者世帯に向けては「リバースモーゲージ制度」を採用、土地と建物を担保に、月1万5000円程度の利子分だけの支払いでの再建も可能にした。子育て世帯でも月の払いは2万円程度に抑えることができる。さらにすべての世帯に向けて転居費用を助成するなど、きめ細かな対策が講じられている。

 また、「創造的復興に向けた重点10項目」として、重点的に取り組む施策の加速化を図っている。県民の心の支えでもある熊本城は、2019年の国際スポーツ大会(ラグビーW杯、女子ハンドボール世界選手権大会)までに天守閣の外観が復旧する予定だ。

 今年5月、蒲島は初期の胃がんを公表、ゴールデンウイークに手術を受け、休み明けに復帰した。知事になってからほとんど休みをとったことのない彼が初めてとった1週間の“長期休暇”である。

「ただでさえ知事は過酷な仕事です。しかもあの地震後は1年半で何年分の仕事をしたのかと思うくらい心身ともに大変だったと思います。いくら楽天主義の知事でも身体が悲鳴を上げたんでしょう」

 小野副知事はそう振り返り、今後も身体を大事にしてほしいと語る。

「私の経験から言えることは、人生の可能性は無限大であり、夢を持つことが大事だということ。逆境の中にこそ夢があると思います。今回も地震というピンチをきっかけに、今まで以上のすばらしい熊本を作っていきたい。そのためには努力を惜しまないつもりです」(蒲島)

 蒲島は最後まで笑みを絶やさずそう言い切った。(敬称略)


取材・文/亀山早苗 撮影/宮井正樹

亀山早苗(かめやまさなえ)◎1960年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。近著に『日本一赤ちゃんが生まれる病院』『復讐手帖』など。くまモンの大ファン。