「日本人では勝てない」と言われたスノーボードアルペン競技。竹内智香は言葉もままならないまま、よりよい練習環境を求めて、スイスチームに単身押しかけ合流。日本人の壁に悩み、その壁を乗り越え、日本人であることの強みも知った……。ワールドカップ優勝、ソチ五輪銀メダルを経て、5度目の大舞台・平昌で表彰台の中央を誓う!
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2014年2月19日、ロシア・ソチにあるロザ・フトル・エクストリーム・パークで行われた2014年ソチ五輪・女子スノーボード・パラレル大回転決勝。準決勝でイナ・メシク(オーストリア)を破り、日本女子スノーボード界初のメダルを確定させた竹内智香(広島ガス)にとって、目指すべきものは表彰台の一番高いところしかなかった。
「ソチの金メダルをとるために100%努力してきたし、どんな結果でも受け入れるつもりで本番に挑みました。だから“怖さ”はなかった。“金をとって引退しよう”という気持ちが一番でした」と彼女は当時を述懐する。
決勝の相手は世界ランク1位のライバル、パトリツィア・クンマー(スイス)。同シーズンのワールドカップで2度敗れた因縁の相手だ。しかしながら、自信に満ちあふれた竹内は1本目で0.3秒差をつけてリード。大願成就の可能性が一気に高まった。本人も平常心で2本目を迎えた。
左のクンマーに背を向ける形で右からスタートした日本のエースは、1本目のリードもあり先手を取った。標高差最大200m、全長約700mのコースに25~30m間隔で設置された青色の旗門をリズミカルに滑っていくさまは、日本中に優勝を確信させた。
が、底力のあるクンマーが徐々にペースアップ。遅れを取り戻すべく抜きにかかり、終盤に差しかかったところで、信じがたいアクシデントが起きる。フロントサイドからバックサイドに回り込もうという場面で、竹内がまさかの転倒。長い時間を費やして追い求めてきたものが、一瞬にして手からこぼれ落ちてしまった。
「次の4年間、やりたくないな。長いな。どうしよう……」
雪上に全身を横たえながら、竹内の脳裏にはそんな思いがよぎっていたという。ソチのビッグレースが終わったその瞬間から2018年平昌五輪のことを思い描くというのは、根っからの負けず嫌いの証拠。「子どものころから僕ら兄たちに必死に食らいついてくる妹でした」と兄・崇さんもしみじみ語っていた。
ソチ五輪の2位というのは日本スノーボード界女子初の快挙にほかならない。が、竹内智香は表彰台の一番高いところに上り詰めることを決して諦めない。それこそが、彼女の生きざまなのだ。
北海道第2の都市・旭川市。人口34万を擁する自然豊かなこの町で、竹内は’83年12月に誕生した。旭岳温泉で「湯元 湧駒荘」という温泉旅館を経営する一家に育った彼女は6つ上、4つ上の兄のいる末っ子。
物心ついたころから2人の兄の背中を追ってスキーを始め10歳の時に流行りだしたスノーボードにも興味を持った。五輪メダリストになる女の子ならすぐ滑れるようになって当然かと思いきや、意外にもそうではなく、最初はかなり苦労したようだ。
「旭川から近いキャンモアスキービレッジによく一緒に行ったんですが、スノーボードを始めたころは僕のほうがのみ込みが早く智香はなかなか滑れませんでしたね。スキーも3きょうだいで一番下手だったかな(笑)。
でも男ばっかりの中、必死についてくる妹だったので、スピードへの恐怖心がなくなり滑ることの楽しさに目覚めていったんでしょう」と次兄の崇さんは分析する。
竹内自身も「たとえて言うならスキーは車、スノーボードはバイク。遠心力をより強く感じられるのがスノーボードですし、楽しさは大きいですね。上達が難しいぶん余計にのめりこんだんだと思います」。知らず知らずのうちに新たな冬のスポーツの魅力に取り憑かれていった。
その後、旭川市立東明中学校に通っていた14歳の時に見た’98年長野五輪に刺激を受け、本格的に競技をスタートさせる。
スノーボード部があった地元の上川高校に進学して大会にも出場し始めたが、学業と競技の両立という学生特有の問題に直面する。それを「大変だ」と考えないのが竹内流。自ら通信制のクラーク記念高校への転校を決断し、高いレベルを追求できる環境を整えていったのだ。
控えめな目標。このままではいけない
根っからの前向きさと自主性が2002年ソルトレーク五輪出場を呼び込んだのだろう。彼女は高3で世界の大舞台に立つチャンスを得る。
ただ、本人は「参加することに意義がある。この大会が終わったら競技はやめて、普通に大学進学して、次の人生を歩もう」というくらいの気持ちでアメリカへ赴いたという。22位という結果もごく普通に受け入れた。
けれども、その傍らで、一緒に参戦した4つ上の先輩・飯田蘭(現姓=市井)が上位16人で争う決勝に残った。彼女の頑張りを目の当たりにした18歳の高校生は少なからず衝撃を受け、「日本人でもやれるんだ」と確かな実感を手にした。これが人生の転機になったのは紛れもない事実だ。
「ソルトレークのころは“日本人は世界では勝てない”と言われていて、私自身もそういう固定観念はありました。でも五輪の1~2年前からフランス人コーチに指導を受けたことで世界や価値観がガラリと変わったんです。
智香は当時、高校時代の先生とマンツーマンで努力していて、お互いに世界を意識していたけど、世界との距離をなかなか縮めることができなかったのかもしれません。実力は私とそう変わらなかったのに、自分は決勝に進めず、私が勝ち上がった姿を見るのがすごく悔しかったのかな。
彼女の表情からそんな思いが見て取れました」と市井さんは若かりし日の後輩の姿を思い返す。
この指摘どおり、竹内は「日本人の壁」に苦しみ続けることになる。2006年トリノ五輪までの4年間は「私にもできる」と考え方を変えて挑み、ワールドカップ表彰台も経験。世界ランク上位に浮上し、上位を狙える位置につけていたはずだった。が、結果は9位。
「“参加することに意義があった”ソルトレークから1つ変わって、トリノは“決勝に行く”と目標を1つ上げただけだった。結局、実現可能なターゲットしか見ていなかったんです。トリノが終わった時、“なんで、もう1段階、上を目指さなかったんだろう”という後悔ばかりが残った。成長してないなと気づかされたのがこの大会でした」
と竹内は22歳の挫折を打ち明ける。海外トップ選手への引け目や劣等感をどこかしらの部分で感じていたから、控えめな目標設定をしてしまったのかもしれない。
このままではいけない……。
これが新たな人生の幕開けだった。
スイスチーム入りを押しかけ直談判
迎えた2007年。竹内はスノーボード大国・スイスでの武者修行を決意し、自らアプローチを開始する。これまで五輪やワールドカップなどを数多く経験したことで、トップ選手や指導者とのネットワークは持っている。それを駆使して、スイス代表のクリスチャン・ルーファー・コーチに「一緒に練習させてくれないか」と頼み込んだのだ。
「スイスの女子選手に相談して、クリスチャンとアポを取ってもらったら、最初は“スイス代表なので、ほかの国の選手は面倒見れないよ”という回答だったんです。それでも諦めずにお願いを繰り返しているうちに、“じゃあ、夏のキャンプだけおいで”と折れてくれた。さっそく現地に向かいましたね」
スイス代表にはトリノ五輪パラレル大回転でワンツーフィニッシュしたフィリップ・ショッホ、シモン・ショッホ兄弟もいた。世界トップの2人を質問攻めにするなど、竹内は得られるものはすべて得ようと貪欲にアタックしたという。
「トモカは非常にオープンで誠実な性格で、私たちアスリート仲間にも好意的に受け入れられていました。彼女と過ごした時間は実に楽しく、素晴らしいものでした」と彼らはポジティブなコメントを寄せてくれた。
遠く離れたアジアの島国からやって来た23歳の女性スノーボーダーの明るさや積極性に2人が刺激を受けた部分も少なからずあっただろう。
ショッホ兄弟とは「BLACKPEARL(ブラックパール)」というボード開発をともに手がけるようになり、そのビジネスは10年を経て、規模が大幅に拡大している。メーカー側の立場からスノーボードを見ることができるようになったのも、竹内の大きな財産といえる。
1シーズンを過ごし、飛躍の手ごたえをつかんだ竹内は翌春、本格的にスイス代表チームの中に入って活動したいと申し出る。先方から突きつけられた条件は「トップ16をキープすることと、ドイツ語をマスターすること」。
それをクリアしなければチームに残れない。危機感を募らせた彼女は努力に努力を重ね、わずか3か月間で日常会話をこなせるレベルに到達したというから驚きだ。
「1年目は片言の英語でやりとりしていたんですが、それじゃあダメということになった。2008年の春から1日10時間くらいドイツ語の勉強をしましたね。9~15時は学校で、行き帰りの電車の中や帰ってからも宿題をこなしたりして。それをしないと練習できないと思って命がけで頑張りました」
と、竹内はすさまじいバイタリティーで困難を乗り切った。
もちろん周囲のサポートにも恵まれた。当時の彼女はチョコレートメーカー・ロイズと社員契約をしており、そのサポートもあったが、遠征費、コーチング費、生活費もばかにならない。
決して潤沢とはいえない経済環境の中、語学学習や練習にいそしむ姿を目の当たりにすれば、国籍に関係なく手助けしたくなるのが人情だ。3軒目のホームステイ先であるクルト・ザーンドゥさんもその1人。「ウチにタダで住んでいいよ」と快く受け入れてくれたのだ。
「長男のミハエルがボードのメンテナンスを手がけるサービスマンをやっていた関係で紹介されたんですけど、家事をするなどできることはやりました。スイス人は週末は家族との時間を大切にする。私も彼らとの生活を通して、人としての時間の大切さをしみじみ感じました。だからこそ競技者としても頑張れるんだと思いますね。
日本にいるとアスリートとしての立場や活動に特化されてしまいがちですけど、スイスで特別に扱われず、竹内智香というひとりの人間として過ごせたのは本当によかった。心から感謝しています」と彼女は柔らかな笑みをのぞかせた。
ポジティブでなければ、五輪の神は微笑まない
スノーボーダーとしての急成長を遂げ、2010年バンクーバー五輪のシーズンは世界ランク3位まで上昇。周囲からは「メダル獲得間違いなし」と評されていた。自身もスイスで得た経験を糧に表彰台に上がり、選手の待遇や環境面で立ち遅れている日本スノーボード界へのアンチテーゼを突きつけてやろうというくらいの意気込みはあった。
「バンクーバーまでの3年間をスイスで過ごして、向こうの環境のよさ、レベルの高さを含めて“いいな、羨ましいな”という気持ちが募る一方だったんです。最初からスイス人として生まれていたら、もっと簡単に世界トップに行けたと思った。
あのころの自分はそんな悔しさ、反骨精神の固まりでした。“バンクーバーでメダルをとったら日本のやり方が正しくないという証明になる”とも考えて、カバンにスイスと日本の国旗を入れてカナダへ乗り込みましたからね」
フタを開けてみると、結果は13位。トリノより順位を落とすショッキングな結末だった。結局、どれだけ頑張ってもスイス人にはなれない。日本人・竹内智香である事実は変えられない。
生まれた環境や歴史をどう変えていくか。そうやってポジティブシンキングにならなければ、五輪の神様は微笑んでくれない……。それが3度目の五輪を経て、彼女自身が至った真理だった。
「スイスに行って成績がよくなり、表彰台に上がれたのはひとつの事実でした。でも環境の難しさを含め、日本人としてすべてを受け入れなければ何も始まらない。マイナス要素ばかり見るのではなく、日本人に生まれて何がよかったのかをプラスに考えることが大切なんだと。
どこにいてもいいところと悪いところはある。そのことに気づくいいきっかけになりました」と本人も神妙な面持ちで言う。
日本人の壁を越え、日本人の強みを生かす
ソチまでの4年間はその厳然たる事実を受け入れる貴重な時間だった。そんな彼女の背中を押してくれたのが、バンクーバー直後から専属コーチについてくれたオーストリア人のフェリックス・スタドラー氏だ。
スイス代表の扉をこじ開けた時と同様に「もちろん私のコーチになってくれるんでしょ」というくらいの体当たりなスタンスで口説き落としたこの指導者との出会いが、竹内のさらなる進化につながった。
「トモカが私に声をかけてきた時、ともに戦う準備ができているなと直感しました。彼女は基本的なスノーボード技術が高いうえ、何事に対しても100%以上の力で戦っている。その強い意志とモチベーションは非常に大きな武器です。
私はトモカの意見を聞きアドバイスをするコンサルティング的な役割が多いですが、ぶつかり合ったことも何度かあります。それでもわれわれは長く一緒に働いている。それだけトモカのスノーボードへの情熱と向上心がすさまじいということ。そうでなければアスリートとして成功できないでしょう」
とスタドラー氏は足かけ7シーズン、二人三脚で歩んできた教え子との強い絆を改めて口にする。
東日本大震災の起きた2011年、5年にわたったスイスでの活動にひと区切りをつけ、日本に拠点を移したのも、彼の言葉が引き金となった。
「日本人として日本から派遣され大会に出ることで“日本という国にサポートされている”という気持ちになる。それが大事だとフェリックスが言ったんです。スイスにいた2013年までは自分が好きなように試合に出ていた。でも“竹内智香は日本チームで活動していると認識してもらうだけでもひとつの力になる”と彼は考えていました。
最初、大げさだと思ったけど、五輪みたいな大舞台で運を引き寄せたり、勝利を呼び込むためには、たくさんの人の応援や目に見えない力が必要なのかもしれない。そう考え直して、帰国を決めました」
バンクーバー後は、親戚の存在をきっかけにトリノのころから結びつきを強めた第2の故郷・広島の観光大使を務めるなどした後、2011年10月に広島ガスが彼女のためにスキー部を創設。そこに所属する形で本腰を入れて活動することになった。
とはいえ、練習拠点が広島にあるわけではなく、夏場は東京でフィジカル強化にのぞみ、秋から春にかけて世界各地を転戦する形を取ってきた。
こうした動き方の変化もプラスに働いたのか、4度目のソチでは冒頭のとおり銀メダルを獲得。一番欲しかった金色ではなかったが、表彰台に上がるという最低目標はクリアした。
それもスタドラー氏から竹内が教えられた「多くの人たちの応援やサポート」のおかげなのだろう。「日本人の壁」を乗り越え、「日本人としての強み」を発揮したからこそ、今の彼女があるといっても過言ではない。
大ケガを乗り越えて、どんどん強くなっている
ソチでつかめなかった金メダルを4年後の2018年平昌で手にする……。言葉にすれば簡単なことだが、挑む側の竹内としては非常にハードルが高い。ソチからの3年半もさまざまな模索が続いた。
中でも大きかったのが、2016年3月に負った左ひざ前十字じん帯断裂の大ケガ。選手生命に関わる一大事で、リハビリも過酷を極めるが、竹内は決して弱音を吐かなかった。現在、彼女が週1回通っている東中野ETI整骨院の鍼灸師・大岡茂氏は「このケガで彼女ほど順調に回復したアスリートを見たことがない」と驚いていた。
「私の前の会社で竹内さんがトレーニング・治療をしていた縁で今も定期的に診ていますが、自分の身体の状態をよく理解し、端的に説明してくれるので、こちらも対処しやすい。
“調子どう”と聞くと“順調です”と笑顔で返してくれて、とにかくポジティブな人だと痛感させられます。リハビリは相当ハードだったと思いますが、彼女は“大変”とは絶対に言わない。頭抜けたメンタルの強さがあるから8か月後には完治し、何事もなかったかのように雪上を滑っていたんでしょう」
強靭な精神力に太鼓判を押すのは、大岡氏だけではない。目下、ともに肉体改造に当たっているアスレチックトレーナー・友岡和彦氏も「厳しいメニューも意欲的にこなしているし、フィジカルの状態も右肩上がり。まさにスーパーウーマンです」と目を輝かせていた。
2017年7月下旬、東京・有明の株式会社ドームにあるトレーニングジムで、竹内は友岡氏の指導の下、汗を流していたが、35kgもの砂袋を背中にのせて20mほど這う、50~60kgの器具を前に押しながら歩く、50kgを超えるバーベルを複数回上げるといった、常人には考えられないハードメニューを楽々と消化していた。
「今の時期は負荷を下げている時期ですから、そんなにきつくないですよ」と彼女は1時間近くエアロバイクをこぎながら、にこやかな笑顔で話してくれた。30代に入って衰えるどころか、一段とパワフルさに磨きがかかっているのは確かだ。
「なぜフィジカルトレーニングを頑張るのかっていったら、1年間戦い抜ける体力、ケガをしない身体を作りたいから。何かテクニックを習得したい時にプラスになればいいと思ってやってます。
でも今日バーベルを50kg上げられたからといって、スノーボードが0.1秒速くなるとは限らない。トレーニングの数値に固執しすぎるのはよくないし、逆に甘えてしまうのもマイナスになりかねない。微妙なバランスをとりながらやってます。ただ、正直言って、年齢的な衰えとか限界は一切感じないし、どんどん強くなってる印象です。
そういう肉体的な部分も含めて、自分には今、金メダルを目指せる環境が用意されている。チャンスがあるならもう1度、頂点を狙いたい。そう思いながら今の時期を過ごしています」と竹内は平昌を半年後に控え、静かな闘志を燃やしていた。
心身充実。5度目の大舞台で金をとる
その一方で、スイス時代に学んだ「オンとオフの使い分け」は忘れていない。追い込む時は追い込むが、それ以外の時間も大事にしている。2015年春から2年間通ったアナウンススクールはその一例だ。
「1度はキャスターとして五輪に行きたい」という竹内の夢を聞きつけたNHKから2017年7月の『サンデースポーツ』のマンスリーキャスターにも抜擢された。同じソチ銀メダリストの友人・渡部暁斗(北野建設)をインタビューするなど、スポーツを異なる角度から見る機会にも恵まれ、「取材する側の苦労がわかりました」と、しみじみ話していた。
加えて、前述のブラックパールのビジネス拡大にも奔走中だ。「いずれ日本の若手選手と海外トップ選手を一緒に練習させる環境を作ったりして、選手のレベルアップ、スノーボードの地位向上に役立ちたい」という思いもあって、利益より貢献第一で動いている。
「智香はスノーボードをもっと多くの人に知らしめ、環境を底上げしたいという責任感が誰よりも強い。その気持ちはよくわかります」と先輩の市井さんも強調していた。
スノーボードでもそれ以外の時もつねに自分からアクションを起こし、エネルギッシュに前へ前へと突き進むのが、彼女の絶対的な強み。そこに人間的な幅も加わり、平昌には心身充実の状態で臨めるだろう。
12月からワールドカップがスタート。いよいよ五輪本番へのカウントダウンに入る。竹内にとって次は5度目の舞台となるが、兄・崇さんは「気負わずに挑んでほしい」とエールを送る。
「ソチの時は地元のパブリックビューイングで応援しましたけど、あの雰囲気は格別でした。智香が輝いている姿を見せてくれるのが僕ら家族にとっての喜びであり、楽しみ。平昌には両親も応援に行くと思いますけど、楽しむことを忘れずに滑ってほしいですね」
兄の言う「楽しさ」の先に、長年追い求めてきた金メダルがあれば最高のシナリオだ。
毎週、彼女の状態をチェックしている大岡氏は「竹内さんを見ていると金メダルをとるだろうなという気持ちにさせられる」と言う。
「彼女が“勝てる”と確信しているから、サポートする僕らもそこしか考えていません。そうやって周りを自然と本気にさせるところが彼女のすごさ。次こそは必ずやってくれるでしょう」と語気を強めた。
彼らを筆頭に日本中の期待を背負うことになる竹内。間もなく34歳になろうとしている世界トップのスノーボーダーにはそれを大きな力に変えられる器がある。隣国での五輪というアドバンテージを最大限生かし、圧巻の滑りをわれわれの目に焼きつけてくれるはずだ。
念ずれば夢は叶う……。
彼女にはその言葉がよく似合う。
取材・文/元川悦子 撮影/齋藤周造
元川悦子(もとかわえつこ)◎1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材をおもに手がけており、ワールドカップは’94年アメリカ大会から’14年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか。