いじめられて逃げ込んだ図書室で読んだ1冊の本により、長いエジプトとの付き合いが始まったという吉村さん。学ぶクラスもなかった早稲田大学でエジプト研究会を発足し、アジア初の調査隊を結成して以来、50年以上発掘し続けている。多くのピンチに見舞われながらも、吉村さんをエジプトへと駆り立てるものは何か?
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世界最大の石造建築、クフ王のピラミッドで巨大空間が見つかったと注目を集めている。そうした古代エジプト遺跡の研究を日本で最初に始めたのは、お茶の間でもおなじみの考古学者・吉村作治さん。2016年で調査生活50周年を迎えた。
その探求心は衰えるどころかますます旺盛になる一方で、今も複数の発掘調査に取り組んでいる。なかでも注力しているのが、クフ王のピラミッドで発見された第2の太陽の船の復元プロジェクトである。吉村さんは顔を輝かせて語る。
「約4500年も前の巨大な船を復元するという壮大で夢のある計画です。
せっかく船が出てきたから組み立てようという単純な考えではあるのですが、このプロジェクトを通して、私は自分の研究人生の中でいまだ解き明かされていない“ピラミッドは何のためにつくられたのか”という謎に迫りたいと思っています」
定説ではピラミッドは王の墓だとされているが、吉村さんはこれまでの研究から、この説は成り立たないと考えている。事実、ピラミッドからはツタンカーメン王の墓から出てきたようなミイラや財宝は一切見つかっておらず、多くの謎に包まれたままだ。
砂漠になぜ船が隠されていたのか? ピラミッドとのかかわりは何なのか? それらを探ることで、見えてくるものがあるという。
「ピラミッドは太陽神ラーの信仰に深く関わっているので、太陽の船は、王の魂が太陽神とともに天空を渡るための乗り物という意味を持つのではないかと考えています」
吉村さんの常に新しいことを求める姿勢に刺激を受けると話すのは、テレビ番組制作会社、株式会社いまじんのプロデューサー・高安克明さん(59)。
高安さんは高校時代、吉村さんが出演する番組を見て、エジプトとテレビの世界にのめり込み、早稲田大学の吉村研究室に入った愛弟子だ。
「僕が学生のころ、先生は、ピラミッドは王の墓だと言っていたんですよ(笑)。でもこういうものが発見されたんだからしょうがないじゃないかと。新しい学説を考えるべきだ、昔のことにこだわっているやつはバカだというのが先生の考えです。今までの自分も含めて間違っていることをはっきり否定します。
歯に衣着せぬ人だから、風当たりも強い。逆風が吹いていたこともあったんじゃないかと思いますよ」
何事も真剣に命がけで取り組めば夢は叶う
吉村さんは発掘調査にかかる膨大な費用を集めるために、たくさんのメディアにも出演した。エジプト考古学への認知度を高め、支援を得る活動をしたのだ。
それによりやりすぎではないかと多くの批判も受けた。しかし、すべてはエジプト考古学を発展させるためと信じて貫いてきたという。
「お金がないと発掘できないんです。実際に第2の船を発見し、日本が発掘していいということになったのに、’90年代初めにバブルがはじけて、資金不足で続けられなくなりました。それから苦節15年、賛同してくれる企業の寄付により再開できるようになったのです」
2017年6月、クラウドファンディング(アイデア起案者がインターネットサイトを通じて不特定多数の人から資金を募るしくみ)にも参加し、コンピューター上に復元図を作成する3Dスキャナーの購入費を募った。
結果、目標2000万円のところを、2か月あまりで3200万円集まった。
「500人くらいの人が応援してくれて、8割は知らない人でした。みなさん口では応援してますよって言ってくれるんだけど、なかなか1口5000円も出してくれないんです。だからアクションしてくれた人がいたことがありがたかったですね。これから復元作業に3年、組み立てには5年かかるでしょう。死んでいられないんです!(笑)」
吉村さんの人生訓は「夢は叶う」。何事も真剣に命がけで取り組めば、願いが叶うはずだと語る。
「74歳の今、学生を教えていていちばん悲しいのは夢を持っていないこと。夢が持ちづらい世の中だとか言われるけど、それは言い訳ですよ!」
自分あっての社会であり、社会が悪いから自分がうまくいかないということにはならない、社会は動かせるものだという。
「だって僕が早稲田に入ったときは、エジプト考古学なんて日本のどこにもなかったんですから! それを知らずに早稲田に入ったんですよ」
最初に学生部長が吉村さんに言ったのは、「エジプトやりたいなんて騒いでるけど、やってる先生がいないんだからできないんだぞ、あきらめて違うことやれ」という言葉。
「僕は“はい”と言って逆らわなかった。バカな話は長くなってもしかたないですからね。でも言うことを聞かなかったんです」
100冊目の偉人伝で出会った将来の夢
1943(昭和18)年、東京都新宿区に生まれる。両親は和服製作と直販を営んでいた。妹が1人いる。小学生のころはいじめられっ子で、図書室に逃げ込む日々だったという。
「いじめは克服できませんでした。いじめっ子は確信犯ですからね。でも図書室までは追いかけてこないし、そこに自分の世界があるから、いいやってあきらめていました。一種の逃げですね。
でも僕は人生において、つまらないこと、怖いこと、ひどいことからどんどん逃げていいと思っています。360度開いているのだからここしかないと思わなくていい。どこへ行ってもいいんです。逃げれば自殺することもない」
吉村さんが司書の先生にどんな本を読めばいいか相談すると、「偉人伝を1~100まで全巻読んで、その中でいちばん気に入った人のまねをしたら、その10分の1くらいになれるのでは?」と助言された。
「ずーっと読んで、最後の100巻目がツタンカーメンの墓を見つけたイギリス人考古学者、ハワード・カーターでした。
私は夢中になって読むと、古代エジプト遺跡の魅力とその発掘にかけるロマンに惹きつけられていました。将来はエジプトで発掘をするぞ! と心に決めたのです。これがエジプトとの長い付き合いの始まりでした」
先生は「君が大学に入るころには、エジプトへ行けるかもしれないから、いい大学へ行き、考古学者になればいい」と勉強の指導もしてくれたそうだ。
当時、競争率30倍以上の東京学芸大学大泉付属中学校に合格し、進学した。
「父も母も職人で高等小学校しか出ておらず、学校のことはわかりませんでした。
エジプトへ行きたいと言ったら、“いつ行くの?”“いくらかかるの?”としか聞かなかった。あーしろ、こーしろと言われたことがないんです。僕の言うことをいつも尊重してくれました」
高校では、エジプトでヒッチハイクの旅をすることになるだろうと中国語とアラビア語を勉強し、身体を鍛えるために山岳部にも入った。ゼスチャーも必要と思い、パントマイムや演劇にもいそしんだという。
「一方で勉強も一生懸命して東大を受験しました。ところが4回落ちました」
エジプト考古学を学びたくて教授を口説く
3浪後、東大をあきらめ、早稲田大学第一文学部に入学。前述のとおり、どこにもエジプト考古学を学べる場がないことを知り愕然とする。
そんなときメソポタミア文明の起源といわれるシュメール文明を研究している川村喜一教授の存在を知り、エジプトの勉強をして指導してほしいと直談判した。
「先生はしばらく考えてから、シュメールとエジプトとの関係についてそろそろ勉強しようと思っていたところだったからいいよ、と快諾してくれたのです」
有志を集めエジプト研究会を立ち上げた。欧米の学者の古代文明の研究書を訳す勉強が始まる。
吉村さんは半年ほどたつと、エジプトを知るには、何としても現地へ行かなければならないという思いが募り、そろそろエジプトへ行きませんか? と教授に持ちかけた。自らが隊長となってエジプト調査隊を組織する。
ところが、エジプト行きを決めたものの先立つ資金がほとんどない。吉村さんは企業にかけ合い、川村先生の航空チケットを確保し、学生5人はタンカーでクウェートまで乗せてもらえるように交渉した。また自動車メーカーからジープを借り、食品メーカーからは大量の缶詰などを提供してもらう約束を取りつけた。
こうして’66年の9月、一行は日本人として初めてのエジプト現地調査となるジェネラル・サーベイ(踏査)を実現する。ナイル川に沿ってほぼエジプト全域に広がる遺跡群を約半年間かけて2回にわたり調査した。大学3年生、22歳のときだった。
「7か月目に同じタンカーで三重県の四日市港まで帰ってきたとき、早稲田大学の仲間が出迎えてくれて、調査隊みんなで泣きました。僕はこれでエジプト考古学を確立するんだ! と決意を新たにしたのです」
けれど「オヤジが定年なので就職をしなければならない」「エジプトをやるなら彼女が別れると言う」「本当はアメリカへ行きたい」など、おのおのの事情を口にし結局エジプトの研究をやり続けるのは吉村さんだけとなった。
「2階に上がって、はしごをはずされたようなものでした」
吉村さんはライバルがいなくなってラッキーだと思うことにして、ひとりで本格的にエジプト考古学を学ぶことを決心した。
あきらめ撤収しかけたときに、大発見!
翌’67年からカイロ大学考古学研究所に留学した。ここで現地のエジプト考古学の教授たちと出会い、さまざまな発掘調査に同行させてもらう。
「現場を経験し自信を深めました。でも、いざ日本人でチームを結成して調査をするとなると、エジプト政府の許可が必要で、発掘権を握っている考古庁の長官がなかなか会ってくれませんでした」
そんなとき、カイロからルクソール行きの飛行機で偶然にも考古庁(現在の考古省)長官のモクタール博士と隣り合わせになる。吉村さんが発掘調査に対する熱い思いを伝えると、博士は親身になって耳を傾けてくれた。
吉村さんは博士を日本に招待し、日本の発掘技術を見て認めてもらい、ついにエジプトの発掘権を取得する。
’71年12月からアジア初の調査隊として、エジプト政府から割り当てられたルクソール西岸の発掘を開始した。しかし掘り続けても何も出ない年月が流れた。
「国の科学研究費補助金を受けられる3年の期限が終了しようとしていた’74年1月15日、川村先生と、もうあきらめよう、いい経験ができたねなどと話してテントをたたんでいたんです。するとエジプト人の作業員が何かありそうだと言うので掘ってみたら、1時間で彩色階段が出ました」
それは第18王朝のファラオ、アメンヘテプ3世の祭殿「魚の丘遺跡」の一部と見られるもので、美しい絵が施された階段だった。発見のニュースは世界中を駆け巡り大きな話題となった。
発掘の途上で川村先生が急逝するという悲劇もあったが、プロジェクトはほかの教授に引き継がれ、’76年にはルクソール西岸に研究施設、ワセダハウスも完成し、活動に弾みをつけた。
ミイラをベッド下に置いて寝た
早稲田大学古代エジプト調査隊は、’82年、ルクソール西岸クルナ村の貴族墓で約200体のミイラを発見し、’87年にはクフ王の第2の太陽の船を見つけるなど、4、5年に1度のペースで大きな発見をした。
「クルナ村では、掘れば掘るだけミイラが出てきました。出てきたものは、盗まれないように考古庁の倉庫にしまうのですが、とりあえず宿舎に持ち帰ってベッドの下に置いておくこともありました。最初のうちはミイラが怖くてとても嫌だった!(笑)」
’05年にはダハシュール北遺跡で青いマスクをかぶった司令官セヌウの未盗掘完全ミイラを発見し、世界を驚かせた。同じ現場で珍しい親子のミイラが発掘されたとき居合わせたというのが、30年前から吉村さんのエジプトでの記録映像を撮り続けているカメラマンの朝田健治さん(67)だ。
「それは調査期間の終わりが近づいていた時期で、掘り進めていた箇所に岩盤が出てきたりして、先生もさすがにムッとしていたときでした(笑)。まず装飾が施された親の人型木棺が発見されたときは、歓声が沸き上がりましたね。
発掘現場には専門家や若いスタッフ、エジプト人の作業員など、さまざまな人がいるのですが、先生はいつもフランクな態度で全体を取りまとめています」
宿舎には大きな風呂場があり、食事は味噌汁やご飯など日本食のメニューも多く、日本人の調査隊が快適に過ごせるように工夫されているという。夜、カラオケ大会になると、吉村さんは十八番である千昌夫の『北国の春』を披露するのだとか。
「行動力と緻密さを持ち合わせたカリスマ性がある人。それでいて包容力があるのでその魅力にみんなが集まってくるんです。私ももう年ですが、先生が頑張っている間はご一緒させていただき、歴史的瞬間に立ち会いたいですね」
10年越しの「教授昇格」の真相
吉村さんは’87年、44歳のときに早稲田大学人間科学部の助教授(現在の准教授)に就任した。
「通例では助教授は3~5年で教授になれるということだったので、4年目に昇格願を出しました。ところが、人事委員会で私だけNOだったんです」
吉村さんの教授選は、その翌年も保留となり、結局5年間は昇格しなかった。テレビ出演の多さがダメな原因だとも言われ、週に8本持っていたレギュラー番組を一斉に降りた。
学部内の教員が誰も口をきいてくれなかったり、ポストの書類を捨てられて、会議の通知を受け取れなかったこともある。
「隠れていて犯人を見つけて、どうしてそういうことをするんだ? と聞いたら、俺はお前が嫌いだからと言われた。それだけの理由か、そうならいいやと(笑)。
よく考えてみたら、みんなが僕のことを嫌うわけがわかったんです。テレビに出たり、本を書いたり講演会をしたり……僕のような存在がいたら嫌なのは当然です。僕が逆の立場だったら、悔しがったり、妬みの気持ちを抱くでしょう」
’96年、吉村さんの昇格に反対していたメンバーを抑えて、教授になる。
「数少ない曲げたくないときだった。ここは逃げなくてよかった。でも、こんな話を雑誌などにも寄稿したので、教授選や大学教授の地位を落としましたけどね(笑)」
しかし、吉村さんにとって教授になることや学長になることは真の目標ではない。
「偉くなったり金持ちになったりなんてことは、そりゃあなったらいいけど、なる必要もない。いちばん大切なことは自分のやりたい目標、夢を達成させること。それが成功だと思っています」
つまり地位や名誉も新しい発掘や発見のために役立つのなら、喜んで役立てたいというのが本意のようだ。
家庭人にはなれずラーメンで三下り半
23歳のとき、カイロ大学留学中に出会った8歳年下のエジプト人女性と結婚し、1男1女を授かるが、のちに離婚をしている。
「別れることになったのは、僕があまりにも家族をかまわなかったために、相手が不信感を募らせたからだと思います」
エジプトでは、結婚すると夫は妻や子どもをとても大事にするのがしきたりだが、吉村さんは研究と資金集めで頭の中がいっぱい。家に帰るのは1年間に20日間程度で、1回5日間ほどだったという。
「それじゃあ悪いかなと思って家族を日本に呼んで、京都や富士山へ連れて行きました。それから熱海の温泉で過ごしていたんですが、昼間、ホテル内にラーメンの表示を見つけたんです。どうしても食べたくなって、家族が寝静まった後に急いで下に行ってラーメンを食べました」
チャーシューをつまんだところで、奥さんと子どもたちの6つの目に気がついた。
「でも、ここで食べないと男じゃないと思って口にしたら、妻が激怒してタクシーで帰っちゃったんです」
吉村さんは結婚するとき、イスラム教徒になっていた。豚肉を材料とするチャーシューはイスラム教では禁忌の食べ物であり、奥さんはタブーを破った吉村さんのことを許せず、離婚に至ったというのである。
「直接的にはチャーシューの一件があったからだと思いますが、ベースには僕が家族をきちっと大切にしていなかったからだと思います。今だったらもっとうまくやるでしょうけれど、そのときは国の予算も使っているし、みんなが注目していることだったから手抜きができなかったという大義名分に僕が甘えていたんですね。反省してますよ」
家族に関心がなかったわけではないが、自分のことをわかってくれるだろうと誤解してしまった。それは無理なことだとわかったので、もう結婚はしないと決めたと話す。
お金も見返りもない…でも夢がある
長い研究生活の中でさまざまな逆境にも遭い、やめたいと思ったことはなかったのだろうか?
「それは何回もあります。原因はほとんどエジプト情勢の問題でした。
特にピンチだったのは、’11年、政権崩壊したエジプト革命のときです。海外の調査隊の発掘権がすべて剥奪されたんです」
吉村さんは他国がすべて引き上げる中、とにかく続けることが大事だと、継続の道を模索した。このとき離婚後も改宗せずにイスラム教徒でいたことが奏功したという。
「イスラム教徒だということを前面に出し自分はみんなの仲間なんだと訴えたら認められて、発掘が再開できました。“そこまでエジプトのことを理解してくれているのか!”と思われて。理解していたら結婚してなかったんだけど。理解していなかったから結婚できたんだけど、そうは言わないで(笑)」
前出の高安さんは、吉村さんのすごいところは、何があっても屈しないことだという。
「エジプト政府の役人がしょっちゅう変わって許可が取り消しになったり、クーデターが起きたり、どれだけ翻弄されたかわからないんですが、絶対やめると言わない。エジプトを愛している、継続は力だと。その熱意がエジプト政府にも伝わるんですね。
発掘にお金はかかるし、見返りはというと、ない。文化を発見することや番組をつくって知らしめることしかなくて、有形なものは何もない。それでもやるんですから、夢の力は大きいですよね」
「夢」の最終章。いつかクフ王の墓を
第2の太陽の船プロジェクトは現在、順調に進行している。現地で強力なサポート役をするのが、吉村さんの2人の子どもたちだ。息子の龍人さん(48)は吉村さんのマネージメントを担当し、娘の佳南さん(45)は修復師のリーダーを務めている。
「息子とは親子というか同志のような関係です。交渉の際、僕のとつとつとしたアラビア語では相手によく通じないのですが、彼がいつもうまくフォローしてくれます。信頼できる最高のパートナーですよ。
娘も親子だから損得なしにやってくれている。僕のことを尊敬してくれてて、付き合う彼氏やその両親に僕の自慢ばかりしてしまうから、なかなか結婚はうまくいかないみたいだけど(笑)。
カミさんとはエジプトに行くと30分くらい話します。元気ですか? と。元気だからいるのよなんて返されたりして。また喧嘩になるとよくないから、そうかそうかと(笑)」
龍人さんが家族とともに日本に来たとき、吉村さんはディズニーランドへ連れて行った。子どもたちが乗り物に乗っている間、2人でベンチに腰かけて待っていると、龍人さんが「こんなふうに遊園地に一緒に来るなんて生まれて初めて」と言ったそうだ。
「この年になってそんなことを言われて、僕はがっくりきた。子どもたちには経済面では苦労させていないのですが、よそのお父さんのように子どもを海へ連れて行ったり、公園で遊んであげたりしたことがなかったから、寂しかったんだと思う。ごめんねと言ったら、いいんです、よくわかっているからと」
そんな龍人さんは、父をどう見てきたのか。
「両親が離婚したとき、私はまだ9歳でしたから、もちろんショックを受けました。でも父は私のところに来て落ち着かせて、いつも私と妹のためになるからと約束してくれました。それは今も続いています。
父のいちばん尊敬しているところは仕事への献身です。長年、一緒に仕事をしている生徒たちのこともとても大事にしています」
龍人さんは吉村さんから倫理観や独立心など大切なことのほとんどを学んだという。
「私は父の仕事がスムーズにいくようにできる限りサポートするつもりです。私の残りの人生において、どんなことでもして、彼を助けたいと思っています」
自己の研究生活を振り返り吉村さんが語る。
「50年、墓いじり、お砂場遊び、とか言われてきました。50年かけて100億円使いました。でも、私利私欲に使ったことは1度もありません。お金はいつも大変ですが、夢があればついてくると思っています」
発掘調査とは割り当てられた場所を掘るので何が出てくるかわからないが、発見されたものから歴史を読み解いていくのが醍醐味だという。
「人間というのはいろんなことが積み重なって文化になりますからね。偉そうな言い方になりますが、僕はいま文化をつくっているんです」
最終的に達成したい夢について尋ねると、明確な答えが返ってきた。
「クフ王の王墓を見つけることです。大ピラミッドはクフ王の王墓であるという説が根強いですが、本物の王墓を発掘して、世界の常識をひっくり返すつもりです。その日は確実に近づきつつあります。
そうして日本人はすごいぞと言わしめたい。これからも頑張りますので、みなさん応援してください!」
愛するエジプトのため、日本のエジプト考古学発展のため、発掘調査を志す後輩たちのため、まだまだ吉村さんは掘る! 掘る! 掘る!
取材・文/森きわこ 撮影/竹内摩耶
森きわこ(もり・きわこ)◎ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。ラジオレポーターとしても活動中。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」