体幹トレーナー/ベビー&スマイル主宰 露木由美さん

「赤ちゃんが用もないのに泣くのは歪みがあって苦しいから。体幹を整えてあげれば、心身ともに健やかでいられるんです」こう語るのは、自ら4人の子どもを育てるシングルマザーであり、体幹トレーナー/ベビー&スマイルを主宰する露木由美さん(50)。いじめられ続けた少女時代、のめりこんだローラースケート、エアロビ全日本優勝、タレント活動を経て2度の結婚、離婚、DV夫からの夜逃げ同然の脱出、自宅で開いた赤ちゃん教室──壮絶かつ、さまざまな体験を経て結実した、自立した人生を送るためのメソッドとは?

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 11月某日。ママと赤ちゃんのための教室「ベビー&スマイル」を主宰する露木由美さんは、ママたちや赤ちゃんを見るなり、「よく頑張ってきたね。大変だったでしょう?」と声をかける。「子どもは、泣くのが仕事」「子どもが小さいうちにママが眠れないのは、当たり前」という風潮の中、日中は子どもと2人きりで子育てして孤立無援状態だったママは、露木さんのこのひと言で泣き出してしまう人も多い。その後、「夜泣きがひどくてしんどかった」など次々と悩みを打ち明ける。

 露木さんは、「1歳までに体幹を整えると、人間が本来持っている健やかな身体と心を存分に生かして豊かな人生を送ることができる」という信念のもと、生まれたばかりの赤ちゃんの背骨が描く「Cカーブ」をサポートすることや、ハイハイの重要性など、赤ちゃんが実践すべきことを「体幹メソッド」として体系づけた。口コミでどんどん広まり、これまで、延べ2000人のママたちに受講された。

 寝返りをうつ、うつぶせになる、ずりバイをする、ハイハイをする。赤ちゃんは反射がDNAに組み込まれているため、それぞれの成長過程を習得できる。この過程で、反射を出し切るには、その時期がきたときに、赤ちゃん自らが“やってみる”ことだと露木さんはお母さんに力説する。

「赤ちゃんをサポート椅子に座らせる必要はありません。ずりバイで、ハイハイで、あのおもちゃをつかみたいから一生懸命に手をのばす。その繰り返しが大事なの。何度も“やってみる”ことが身体、脳、心にいい作用を及ぼし、エネルギッシュに生きる土台を作るからです。だから無理に赤ちゃんをお座りさせると身体の使い方を学ぶ貴重なチャンスを奪うし、なんでもママが“やってくれる”から受け身になりチャレンジできない、すぐに諦める子になってしまうことがあります」

 自分の人生は自分で切り開き、輝いた人生を送ってほしい──そんな思いが根底にある。露木さんは4人の子どものシングルマザー。長女は、学生起業家を輩出している、世界的に有名なインドネシアにあるグリーンスクールに通い、長女を含む3人の子は小学生のときに1~2年間の山村留学を経験し人間力を磨いて帰ってきた。「自分の子どもの教育も、赤ちゃん教室と同じように『その人らしく生きることができる自立した人』に育てる実践をしてきたのかもしれません」と笑う。

 彼女の半生も、「自立」と「体験」の連続だった。露木さんは興味があることは即座にチャレンジし、時にどん底に落ちながら、もがきながら、わが道を切り開いていったからだ。

ローラースケートとの出会いが転機に

 日本三大中華街のひとつ、神奈川県にある横浜中華街。ここが、露木さんが生まれ育った場所だ。両親も祖父母も日本人。なぜ中華街に居を構えたかは不明だが、祖父は洋家具店を営み、その後、郵便局長になったこと、ボランティアで通訳できるほど英語が堪能だったことなど、断片的な出来事だけは知っているという。

七五三、姉と一緒に。着物を着せてもらったのがうれしかった

「ごく普通の家庭でしたよ」と振り返る露木さんは、1967年、2人姉妹の次女として生まれた。父は祖父の跡を継ぎ、郵便局長として働いていた。一家は、郵便局のあるビルの上階に住んでいた。

「父は、郵便局を閉めてから遅いときは20時ごろまで残業し、そのまま2階に上がって、居間でお酒を1杯飲みながらテレビを見る。行動範囲はあまり広いほうではありませんでした。母はアクティブ。一般企業の経理として働き、家に帰って夕飯を作ってから、今日は絵画、翌日は陶芸、その次の日はコーラスと習い事に出かけていく。多彩な趣味を持ち、溌剌と目いっぱい動き回る感じでした」

 母親の行動力は、今の露木さんに通じるものがあるが、小学校、中学校時代の露木さんは、まったく違っていた。人生の中でも“暗黒の時代”を過ごし、人知れず悩んでいたのだ。

「いじめられていたんです。無視されたり、筆箱を隠されたり、バイキン扱いされたり。目立つつもりはないのに“メダトウ星人”って言われたり。すごく孤独で、つまらない毎日でした」

 しかし、そんな日々の中で一筋の光が見えた。中学2年生のころ、学校に打ち解けていなかった女の子が、「山下公園のローラースケートチームを見に行かない?」と誘ってくれたのだ。時は1981年。派手な衣装を着て路上で踊る竹の子族が流行っていた時代、横浜ではチームでローラースケートをすることが流行していた。

中3、山下公園のローラースケートチーム『シーガル』に参加。中央、ヒゲの男性の後ろが露木さん。左隣は女優の野村真美さん

「行ってみたら『シーガル』というチームがいて、そこにいる子の半分以上が、近所のアメリカンスクールに通う子どもたち。日本人なのに英語を話していたり、外国人の子の中には日本語を話している人も。誰でもおいでよ! そんなオープンな感じが楽しくて、自由な気持ちになれました

 ほんの一歩踏み出せば、まったく違う世界が広がっている。閉塞感のある環境や状況は、ごく一部の狭い世界で起きている出来事なのだ。このことを、身をもって体感したのである。

 高校に入ると一転、本人いわく「なぜだかわからないけど」人気者になり、いじめとは無縁になった。ようやく、学生らしい青春時代が始まった。高校2年生のときは、ロサンゼルスへ1年間、留学する機会に恵まれた。ローラースケートに触れたのを機に、英語を話したい、勉強したいという思いは募っていた。

「ロス郊外の家庭でホームステイをしました。どうしても、ローラースケートの中心地だったベニスビーチに行きたくて、週末にバスを乗り継いで片道3時間以上かけて出かけました。小学生に間違えられましたが、得意のスケートを披露すると、小さな身体なのにパワフル、ブラボー! と喝采を浴びて。ストリート文化の本場で褒められたことがうれしかった。印象深い思い出です

エアロビクスで全日本グランプリに

 高校卒業後は、「もっと英語を究めたい」と英語に定評のある神田外語専門学校に入学した。入学時も卒業時も、トップクラスの成績を収めるほど英語は得意だった。

 このころ、人生を大きく変える出来事が2つあった。

 ひとつは、エアロビクスとの出会いだ。もともと運動が得意だった露木さんは「身体を動かしたい」と当時、流行の兆しを見せていたエアロビクスの教室に通い始めた。踊りながら有酸素運動をする。これが性に合った。瞬く間にのめり込んだ露木さんは、エアロビインストラクター養成コースを受講し、専門学校卒業後は、家の近所にできたばかりの大手スポーツクラブでエアロビインストラクターとして働く道を選んだ。さらに、インストラクターになってから、オールジャパンエアロビクス大会でグランプリを受賞したのだ。

エアロビクスのインストラクター時代。このときの経験がのちに体幹メソッドのベースとなった

 エアロビインストラクターの経験は、現在の「ベビー&スマイル」の原型になっている。教室で行う体幹体操や骨盤の体操などは、エアロビ経験をフルに生かしているからだ。

「今のスポーツジムのスタジオプログラムは全世界で同じ振り付けで踊るのが主流ですが、当時は個人の裁量に任されていたので、自分の好きなようにダンスのプログラムを組み立てることができました。私は、会員の方が、足を止めることなく楽しくダンスを踊り続け、いつの間にか難しい動きができるように、ひとつひとつの動きを分解してプログラムに組み込むのが得意でした。この“追究が好き”“人に教えるのが好き”という性質は、赤ちゃん教室で“どうして泣きやまないんだろう”と原因を追究し、解決できたことをお母さんたちに伝え、共有することにつながったように思います

10年の芸能活動。人生観を変えた2つの死

 もうひとつ、人生を大きく変えたのが、芸能活動を始めたこと。専門学校生時代、原宿でスカウトされ、以後、約10年間も芸能人として活動したのだ。

 女子大生ブームの中、深夜に放送された人気番組『オールナイトフジ』にレギュラー出演。また、レポーターとしても活躍し、バリ島やパラオ、フランスなどの海外ロケにも出向いた。女優としては、火曜サスペンス劇場、土曜ワイド劇場などに相当数出演。’95年に劇場公開された映画『風の見える街』では、主演も務めた。

タレント時代、グラビアも経験した

「それなりに頑張っていたつもりでしたが、今、振り返ると自分に甘すぎました。だって、シャンプーのCMのオーディションに出かけた日に、起き抜けのボサボサ頭で会場に到着して、“本当に起用されたいの!?”と審査員に咎められたぐらいですから」

 当時を知る、『オールナイトフジ』で知り合って以来の友人である三谷亜美さんはこう話す。

「私は、ガッツのある人だと思っていましたよ。常に自分のやりたいことを見つけて、それに向かって突進するパワーは、当時も今も変わりません

 芸能活動中、最も忘れられない出来事は、南米のアマゾン川をカヌーの第一人者が下るチャレンジ番組のレポーターとして、1か月半の予定で南米に出かけたときのことだ。到着したボリビアで高山病になる、マイナス20度の中で寝袋で寝て凍傷寸前になるなど過酷な体験を経て、ようやくメインのロケ地のチリのアマゾン川に到着。しかし、一緒に行ったメンバーのひとりが不慮の事故で亡くなってしまったのだ。

「亡くなる当日、午前中は一緒にカヌーに乗る撮影をしたのに、帰らぬ人となってしまった。1か月近くもみんなで寝食をともにし、励まし合いながらロケを続けていたのでとにかくショックで……」

 しかも、このロケから2年もたたずに、母をがんで亡くしてしまう。2つの出来事は、露木さんの人生観を大きく変えた。より、全力疾走しながら生きるようになった。

「命って、あっという間になくなっちゃうんだなあ……と。いつ、どうなるかわからないからこそ、1日24時間を存分に生きようと思いました」

言葉のDV、モラハラ夫からの“昼逃げ”

 芸能活動を終える契機は、結婚と妊娠だった。露木さんは、知人の紹介で知り合った自営業の男性と入籍し、第1子を出産するのを機に芸能活動から身を引いた。’98年のことだ。以後、2000年に第2子、2001年に第3子が生まれ、専業主婦として円満な家庭生活を送っていたのかと思いきや……。

夫は、DVでした。言葉の暴力だったから、モラルハラスメントですね。彼の口グセは、“俺が上、お前が下”。ちょっとでも気に入らないことがあると、家の鍵を付け替えられる、時には生活費を入れてくれない。精神的苦痛はかなりのものでした」

 当時、「モラハラ」はおろか、「DV」という言葉すら世間ではほとんど知られていなかった。露木さんも、結婚当初は「おかしい」と思ったが、誰かにさりげなく言っても、夫婦の痴話ゲンカで片づけられてしまう。しかし、夫の言葉の暴力を浴び続けるうち、次第に、子どもを道連れにした心中が頭をよぎるほど深刻になった。

 このままではまずい! と思ったのは「子どもにまで悪影響が及ぶ」と感じたからだ。

夫の前では、失語症のように声がまったく出なくなったんです。彼はそれが気に入らなかったのか、食卓を囲みながら、5歳の長男に向かって“今から、ママのマネっこゲームしよう”と言い始め、息子が“ハーイ!”と言ったら“ダメダメ。ママのマネっこなんだから話しちゃダメでしょう~”と。息子が一生懸命、両手で口を押さえて黙って、それを2歳と1歳の娘が笑っているのを見て、どうにかしなくてはと思いました」

 このころには長男の行動もおかしくなり、家の中のどこかに隠れて出てこなくなってしまうことがたびたびあった。あるとき、県の広報誌を見かけた露木さんは、その表紙にある「言葉の暴力もDVで法律で施行される」という見出しに目がとまる。

「言葉の暴力……? ピンときて、そこに書かれていた専門のホットラインに電話してみたところ、“かなりひどい状態です。今すぐ安心して住めるところに避難したほうがいい”と言われたのです」

 そこで、露木さんは夜逃げならぬ、“昼逃げ”を決行する。夫が仕事に出かけた直後に、実家に帰るため、必要最低限の荷物を段ボールに詰め、あらかじめ依頼していた引っ越し屋さんに一気に運んでもらったのだ。

 15年来のママ友である黒田季世子さんは、“昼逃げ”を手伝ったときのことをこう振り返る。

「当日、早く到着しすぎて、ご主人と鉢合わせになって焦りました。ガランとした家に戻ったご主人は何を思うかな? 露木さんとお子さんはこの先大丈夫かな? など、いろんな思いが交錯しました。いつも明るく振る舞っていたのでモラハラがそこまで壮絶とは思わなかったのですが、人知れず悩み、ひとりで乗り越えていたんだと。精神的に強い人だと思います

 慌てて夫は実家に迎えに来たが、時すでに遅し。露木さんは、夫と訣別した。結婚して7年後、2004年のことだった。それから2年後、2006年に離婚が成立した。

4人の子どもたちと。子育ても子どもたちの“自立”と“体験”を大事にしてきた

 露木さんは、離婚が成立した年に再婚している。再婚相手は、高校時代の同級生。自分も相手もバツイチで、近所だったこともあり意気投合したのだ。2007年には、再婚相手との間に第4子を身ごもった。病床の父にそのことを報告できたのだが……。

「その翌日、父は帰らぬ人となりました。病気がちで入退院を繰り返していましたが、最後の親孝行ができたかな……そう思いたいですね」

 再婚相手は、一般企業に勤めるサラリーマン。温和な男性で仲がよかった。

「でも結婚してすぐ会社を辞めてしまい、退職金を元手にレストランを併設した熱帯魚のお店を始めたのです。厨房に立つことになって生活が一変。真夜中に帰り、3時間ぐらいしか寝ないで“仕込みがあるから”と早朝に出ていく。収入も安定せず、生活費が入らないこともありました。次第にお店で寝泊まりするようになり自宅に帰ってこなくなったので、結婚半年後には、ほぼ別居状態でした」

 結局、この男性とも2011年に離婚。現在、シングルマザーとして4人の子どもを育てている。

赤ちゃんマッサージ教室をママたちに開放

 露木さんが、現在の「ベビー&スマイル」教室の前身である「プルメリアハウス」を立ち上げたのは、2009年だ。実家をリフォームしたのを機に、その一室を教室にして、産後体操とベビーマッサージを始めた。

赤ちゃん体操を指導中。スキンシップでママの愛情を感じられると同時に脳と神経が刺激され、感受性も豊かになる

 実は露木さんは、ベビーマッサージもマスターしていた。1999年、まだ日本に「ベビーマッサージ」という言葉も知られていなかったころ、1歳半だった長男を連れて3週間ほどロンドンに滞在し、ベビーマッサージの第一人者であるピーター・ウォーカー氏のもとで学んで習得したのだ。当時といえば、DVだった夫と結婚していたはずだが……?

「よく行けたねって思いますよね? でも、当時は結婚2年たたないころで優しいところもあったのです。おかげで、そうとう早い時期に習得できました」

 ベビーマッサージの効果を露木さんはこう話す。

「赤ちゃんの脳や神経に刺激を与える方法のひとつですが、マッサージされることで赤ちゃんは“ママに大切に触られている”という愛情を受け取ることができます。幸せホルモンのオキシトシンも分泌され、ママも赤ちゃんも笑顔になれるのです」

 ベビーマッサージを習得後、露木さんは近所のママ友にベビーマッサージを教えてあげたり、月に2回ほど助産院に依頼されてベビーマッサージの講師として働く中で需要を実感し、教室のオープンに至った。

「別れた夫とは養育費をめぐり調停もしていたので、いずれひとりでやっていける収入源を確保したいとは思っていました。ただ、4人も子どもを抱えてひとりで子育てしていたので働きに出かけるのは無理。だから、家の中で何かできないかなと思ったんです。といっても、最初は1000円ぐらいで近所の人にやってあげる感覚でしたから採算度外視でした」

 教室の存在は、ママ友からその友達へと次第に広まっていった。

 このとき、ユニークな試みも行った。1か月に1回教室を開放して、ママの社会復帰を支援する目的で「サロン」を開催したのだ。その根底には、状況に応じて、今できる範囲で今できる一番のことをやっていくのが大事という彼女の信念があった。

「ママの中には、フェイシャルエステができる、ネイルやエクステができる、手相をみれるなど、何かしらの特技を持っているけれど、今は子育て中で休業せざるをえない人がたくさんいました。だから、施術する側もされる側も赤ちゃん連れで来てもよい教室を開放し、練習を兼ねて技術を披露できる場を提供したのです。私自身、仕事を辞めていきなり家庭に入ったとき、社会から離れてしまった閉塞感を味わったので、ママ同士のコミュニティーのひとつとして活用してもらえればと思ったんです

 これが、口コミの起爆剤となった。子連れで出かけられるサロンは毎回、大盛況。

 サロンの存在を知ったママが、露木さんの教室にも通うようになるなど好循環が生まれたのだ。

ハイハイできる子できない子の違いとは!?

「プルメリアハウス」を運営する過程でたくさんの赤ちゃんを見てきた露木さんは、ひとつの疑問にぶつかった。

「赤ちゃんは、みんな健やかに生まれてくるのに、成長するにつれ、いつまでも健康でいる人と病気になる人、エネルギッシュな人と疲れやすい人、心が強い人と弱い人、才能を発揮できる人できない人……など違いが出てしまうのはなぜだろう?」と。

 これらを、普通なら遺伝子や性質の問題で片づけてしまうところ、露木さんは、「病気にならないようにするには、何をすればいいか」「心を強くするには、どうしたらいいか」などひとつひとつ考え、行きついた結論が、「人は、本来持っている力を出せる人と、出せない人がいる」ということだった。

きちんと体幹を整えることで、笑顔の多い「笑うのが仕事」の赤ちゃんになるという

「本来持っている力とは、健やかな身体と心をフルに発揮できる力のこと。それがあらゆる問題を解決し、豊かな人生を送ることにつながります。そのために重要なのが、1歳までに赤ちゃんの体幹を整えることでした」

 少しでも疑問に感じたら、ひとつずつ検証・解明する。「プレイジムをつかんで倒れる子と倒れない子がいるのはなぜだろう?」と思えば、即座に赤ちゃんのママに聞き取り調査。その結果、倒れる子は、例外なくハイハイをしてこなかったため、自分の身体を制御できなくなっていることが判明した。このように、赤ちゃんを見て感じた疑問は些細なことでも追究し、それが「赤ちゃんの体幹メソッド」という形で結実した。現在、名称を変えて運営している「ベビー&スマイル」では、赤ちゃん体操などを通して身体と心を整える方法、Cカーブをキープできるおひなまきの方法など、メソッドを存分に生かしたプログラムを提供している。

 お母さんと赤ちゃんを見続けて現場で見いだしたこれらのメソッドや考え方は、都立駒込病院の脳神経外科部長である篠浦伸禎先生をはじめ、発達障害臨床学会でも認められるなど医学的なエビデンスも得られた。また受講者のママの中には、元なでしこジャパンのサッカー選手もおり、プロアスリートや有名スポーツ選手からの信頼も厚い。

「その人らしい人生」が歩めるお手伝いを

 露木さんと公私ともに仲のいい会社経営者の谷口真穂さんは、こう話す。

「初めて露木さんのトレーニングを受けたとき、“最近肩こりがひどくて”と相談したら、“谷口さん、巻き肩だね”と、その場で治してくれたのには驚きました。時間が過ぎても同僚の不調にも耳を傾け治してくれる。その姿勢こそ露木さんらしいと思います。身体に関する知識は専門家以上にあるのに、いつもママ目線。そんなところも、人として尊敬しています」

 現在は、「ベビー&スマイル」以外に、美活妊活専門スタジオ「アクティブ☆チワワ」も始めた露木さん。「人が本来持っている力を引き出す」ために身体作りをしっかりとするべきだという点は、赤ちゃん教室も妊活教室も同じだという。

「人が本来持っている力を引き出したい」

「今の妊活は不妊治療一択なので、高額な費用もかかるしプレッシャーやストレスはかなりのもの。ですからまずは、妊活で訪れる人の“なかなか妊娠できないんです”という悩みを聞いて不安を取り除きます。

 そのあと、食生活を見直す、運動するなどのプログラムを組んで身体作りをしています。おいしい野菜を作るには土壌を整えることが大切。人も土台をしっかりさせて初めて妊娠しやすくなるからです」

 若いころに出会ったエアロビや芸能生活も、2度の結婚と離婚も、つらかったDVでさえも、経験のすべてがムダではなかった、全部、意味があったと実感しているという露木さん。「ママから相談されるさまざまな内容のほぼすべてに答えられるのは、いろんな経験を経たからだな、と。つらい思いを抱える人の気持ちがわかるので、寄り添うこともできるから」

 人として深みを増し、「多くの人が、その人らしく生きることができる自立した人生」を実現させるべく、さらなる高みに向かって露木さんの挑戦は続く。


取材・文/三浦たまみ 撮影/近藤陽介

三浦たまみ(みうらたまみ)◎編集・ライター。ビジネス書、自己啓発書を中心に手がけた書籍は100冊以上。『ゲスな女が、愛される。』(心屋仁之助・廣済堂出版)は8万部突破。共著に『世界10大美術館』『名画が描く罪深き旧約聖書』。最新作は『日本10大美術館』(以上、大和書房)