夕暮れの世田谷の大学キャンパス──。授業を終えた学生たちが正門へと向かう中にひとり、明らかに高齢の男が交じっていた。
「あ、欽ちゃんだ!」
「バイバイまた明日」
「ビラどうぞ」
周りの学生たちが、彼に声をかけ、ビラを渡したり、話しかけたりしている。年齢からしたら、名誉教授くらいか。いや、彼もまたこの大学の現役の学生なのだ。彼の名は、萩本欽一。そう、あの欽ちゃんなのである。
◇ ◇ ◇
今、76歳の萩本がさまざまな場所で「奇跡」を起こしているのをご存じだろうか。
そのひとつが、2016年からNHKのBSプレミアムで不定期に放送されている番組『欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)』である。
この番組は、テレビでおなじみの芸人や俳優たちに、萩本が修業時代に浅草で培った「軽演劇」のノウハウとアドリブによる笑いの極意を伝授するという実験的な番組。
出演者は、劇団ひとり、澤部佑、河本準一、女優・若村麻由美、俳優・風間俊介、前野朋哉、さらに天才子役・鈴木梨央と、今をときめく人気者ばかり。
彼らが、萩本の容赦ない無茶ぶりにどう応えるかが見どころである。
「たまたまNHKが僕に『コント55号』やってくれませんか、と言ってきたの。でも二郎さんはいないからできないよ、と答えたら、若い人とやってほしいと言う。だったら僕が、コント55号の軽演劇を若い人に教えるところをそのまんま番組にするならと引き受けたんです」
軽演劇とは、テーマや物語に重きが置かれずに、娯楽性を重視した芝居のこと。萩本が修業した浅草で生まれた、身体を使ったコントで客を笑わせる芝居だ。
「今、テレビは言葉ばかりになってしまったけれど、軽演劇は身体や動きで笑わす芸。これが実にいい笑いなの。それを再現したかった」
萩本は、NHKの依頼がある前から番組の企画は考えていたという。
「僕は面白いと思ったら、どんどん考えて作っていっちゃう。仕事が来ました、じゃあ何か考えましょう、ではうまくいかない」
台本はなし。衣装と設定だけが決められていて、芝居はいきなり始まり、あとは萩本が指示を出し、それに演技者たちが対応していく。舞台の前には観客がいて、まさに軽演劇の劇場のムード。視聴者は、舞台稽古(ゲネプロ)を見せられている感覚に陥る。
「出演者は、何を無茶ぶりされるかわからないからすごく緊張してる。普段テレビでは絶対見れない顔だよ。その緊張が客席にも伝わる。だからこそ、そこから奇跡が生まれてくるんですよ」
萩本以外は、とりあえず普通の稽古を重ねるのだが、本番で萩本がアドリブでひっくり返すのだ。
「例えば、衣装は学生服とランニングシャツで、妻が家出するのを止める芝居、というのをやらせるんです。卓球をするコントでも、『筋肉痛の人の卓球』とか、ひねった設定にね。すると、必死になって演じるでしょ。結果、物語というか台本が舞台から生まれていく。それが軽演劇なんですよ」
ときには実際、奇跡のようなことも起きるらしい。
「若村さんが、15歳のときに別れた相手と15年後に再会するという設定で、うまい芝居を演ったのよ。相手は結婚しちゃっているという設定なんだけど、悲しそうな顔で“そうね。15年もたっちゃったんだもんね”と言って去っていく。僕はツッコミを入れようと思ったけど、止められなかった。お客さんがポロポロ泣いているんだもの。僕もグッときちゃった。うめえもんだな、と思いましたよ」
この番組は、200人の客がスタジオで観劇するのだが、観覧希望者が急増し、8000通もの応募があるらしい。2018年春から、さらに本数を増やして放送される予定だという。
「これを僕の最後の番組にしたい。そう、ライフワーク。1年以上かけて作っていったら新たな奇跡が生まれてくるよ、絶対」
萩本といえば、まずは’66年に結成された坂上二郎と組んだコンビ「コント55号」が思い浮かぶ。浅草の軽演劇からテレビに進出し、数多くのレギュラー番組でテレビを席巻した。
’70年代からは、萩本単独で活躍。オーディション番組『スター誕生』の司会に始まり、『欽ドン!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『欽ちゃんの週刊欽曜日』など高視聴率の番組を次々と送り出し、各番組の視聴率合計から「100%男」の異名を取った。また、野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成して監督を務めたり、24時間テレビで70キロマラソンに挑戦したりと話題を集めてきた。
視聴率30%の番組を作ろう!
そんな萩本が出会ったライフワークといえる番組、そこに到達するまでを記録したドキュメンタリー映画がある。2017年11月公開の映画『We Love Television?』だ。
これは、日本テレビの名物プロデューサー・土屋敏男氏が初監督を務める作品。アナログ放送から完全地上デジタル放送への切り替え期である2011年初頭から萩本の番組制作に密着したドキュメンタリーだ。
土屋氏は、『電波少年』シリーズなど数々の伝説の人気番組を手がけたあの「Tプロデューサー」その人。映画誕生のきっかけを土屋氏はこう語る。
「2010年の是枝裕和さんが演出したフジテレビの番組『悪いのはみんな萩本欽一である』に、僕は証言者として出演しました。その控室で欽ちゃんに“土屋ちゃん、僕、視聴率30%取れる企画持ってるんだけどやる?”と言われたんですよ。まだまだ欽ちゃんは終わっていなかった。そこで、アナログ放送の最後に、日本のテレビバラエティーの元祖である欽ちゃんの番組を作ろうと思い立った。それがそもそもだったのです」
’11年1月31日深夜、土屋氏は萩本の仕事場で待ち伏せし、「欽ちゃん、30%の番組を作りましょう」と直撃。映画は、そこから始まる。
萩本の仕事場に置かれたカメラで萩本が自撮りした映像、番組のキャストが決まっていく過程、放送作家との打ち合わせ、稽古シーンなどのメーキング映像が続き、そしていよいよ収録本番を迎える。
「その年の3月10日に二郎さんが亡くなり、その翌日には東日本大震災が起こった。僕はずっと欽ちゃんに伴走する形で生の欽ちゃんを撮り続けていったのです」
実際の番組タイトルも、『欽ちゃん!30%番組をもう一度作りましょう!(仮)』。本番収録は萩本の目指す軽演劇のスタイル。現場は「何が起こるかわからない」緊張感に包まれていた。
結局、番組の視聴率は8%台だったが、萩本の挑戦は「大人の笑い」を作り出すことに成功していた。
それにしても、テレビのメーキングがなぜ映画になったのか。
「番組がオンエアされた翌日視聴率が出た。その数字を見た欽ちゃんが何と言うか、それこそがこの企画のオチじゃないですか。だから、それを撮らなきゃいけないと思った。また、番組では、女優の田中美佐子さんが出演の予定でしたが、体調不良で本番は降板。それも映像には残されていました。
さらに、去年('16年)、欽ちゃんに会ったら、“オレは諦めてないよ。もう1本やる。それで30%目指すよ”と言われたのです。僕はそこに『鬼』を見た。僕はテレビや映画の神様に作らされているような気がしました。そして、’16年に映画にすることが決まったのです」
映画には、BSプレミアムの番組収録の途中で倒れ、救急車で運ばれる萩本の姿も映し出されていた。それは土屋氏のスマホで撮影された映像だった。
「あのとき、僕はたまたま収録の見学に行ってました。そしたら、欽ちゃんが倒れたんで付き添ったのです」
幸いにも倒れた原因は脱水症状だったために大事には至らなかった。
「救急車の中で、この人はテレビの笑いに命をかけているとつくづく思いました。人の生き方として見習うべきことが、この人にはあると確信しましたね」
本番で0にして奇跡を起こす
映画を見た欽ちゃんファミリーのひとり、小堺一機氏はこう言う。
「僕が大将(萩本は業界ではこう呼ばれる)とではなく、ほかの舞台をやったとき“あ、稽古どおりに本番もやるんだ”と驚いたんです。大将は、その場でどんどん設定を変える。“笑いなんて稽古するものじゃない”と常々言ってました。だから、名優と素人は同じなんですね。中途半端に芝居するのがいちばんつまらない」
小堺氏は萩本のこの考えは、勝新太郎と同じだと言う。
「勝さんは“芝居をしなくなるためにするのが稽古だ”と言っていました。“普段どおりにできたら、みんなアカデミー賞だ”とも。大将を見てて思うのは、普通、天才って教えるのが苦手じゃないですか。ところが大将はすごく丁寧に理論で教えてくれる。遊ぶための土台作りは、理論的に固めるんです。理数系な感じがしますね。で、100まで組み立てて、本番で0にする。そして『奇跡』を起こさせるんです。すごいとしか言いようがない。だけど、その話が長い。誰かが止めないと、4時間でも5時間でも話し続けますからね(笑)」
気になるのは、このままでは「30%の番組」は、土屋氏の日本テレビではなく、NHKに取られてしまうのではないかということだ。土屋氏が言う。
「僕の映画は、欽ちゃんのライフワークの番組に至るまでの“つなぎ”なんですよ。でも、映画は、欽ちゃんが命を懸けてモノを作っていく証拠になりました。今、若いテレビマンは迷っていますよね。テレビって何だ? 作るって何だ? とね。
欽ちゃんは奇跡が起きるようにやる。偶然、人に出会って物語が生まれていく。今ないものを作ろうとする、その荒野からしか奇跡は生まれてこない。それを欽ちゃんは、あの映画で教えてくれたんです。だから、どこの局の問題じゃなく、テレビ全体の話なので引き続きフォローし追いかけてみたいと思っています」
修業時代、そしてコント55号へ
萩本欽一はどうやって、コメディアンになったのか。
萩本は、1941年、東京都台東区に生まれた。
父親は、大きなカメラ店を営んでいたのだが、萩本が小4のときに経営が傾き突然、貧乏暮らしとなる。
「ある日、お嬢さん育ちだったお母ちゃんが、借金取りに土下座している姿を見ちゃったのね。それで一攫千金ができる仕事をしようとコメディアンを目指すようになった」
アルバイトを掛け持ちして何とか高校を卒業し、浅草の東洋劇場の研究生に潜り込んだのだった。
「でも、修業を始めてすぐに、あがり性の自分には芸人の才能はないと思った。演出家の先生からも“辞めたほうがいい”なんて言われちゃうし。ただ、先輩の池信一さんや東八郎さんが、“あいつの“ハイ”という返事だけはいい”と言って可愛がってくれたのが救いだった」
その後も、演技も踊りもパッとせず、セリフもとちってばかりで芸人としては芽が出ることはなかった。
しかし、ひょんなことからドラムの練習を始めて、叩けるようになると変化が起きた。ドラムの上達に合わせて、一気に踊りもチャンバラもこなせるようになり、なぜかセリフまでとちらなくなったのだ。
何とかコメディアンらしくなった萩本は、東洋劇場の系列のストリップ劇場・浅草フランス座に出向となる。ストリップの幕間のコントで腕を磨けというわけだ。そこで出会ったのが、フランス座の芸人の筆頭、坂上二郎だった。
「いい印象はなかったなぁ。僕が外様なものだから、二郎さんはいつも無茶なアドリブを飛ばしてくる。悔しいから、こっちもアドリブでやり返す。まるで芸の闘い。スリリングで最高に面白かったけど、これ以上やったらケンカになるというくらい火花が散ったっけ」
半年後、萩本はその坂上との闘いに疲れ果て、フランス座を飛び出した。そして劇団を結成したり、テレビにもチョイ役で出演したりするのだが、ほとんど食えなかった。
’66年、萩本は自分で作ったひとりコントのネタを偶然、電話をくれた坂上に話した。
すると、坂上は、「そのコントは、俺と欽ちゃんで演じたほうがいいんじゃない?」と提案する。
こうして『コント55号』が誕生したのである。
それからの2人はネタ作りに没頭し、3か月後には日劇のショーに出演を果たし、テレビからも呼ばれるようになっていった。
萩本25歳、坂上32歳のころだった。
最後の握手。さようなら、二郎さん
コント55号の快進撃はすさまじかった。
『お昼のゴールデンショー』で人気に火がつき、『コント55号の世界は笑う』『コント55号!裏番組をブッとばせ!!』『コント55号のなんでそうなるの?』など冠番組が続々登場。『裏番組~』の野球拳が大人気となり、学校でも大流行。日本中で「欽ちゃん」「二郎さん」を知らない者はいないほどだった。
それからも活躍は続いたが、次第に萩本はコメディアンとして、坂上は俳優活動が中心になっていった。
◇ ◇ ◇
2011年3月10日。
萩本は富山での撮影が終わって飛行場へ向かう車の中でラジオを聴いていた。国会中継が流れていたラジオに臨時ニュースが流れた。
「……コメディアンの坂上二郎さんが亡くなりました」
萩本は「は?」という声を上げたきり絶句した。
その前年の12月。坂上は2度目の脳梗塞で倒れ、那須塩原の病院に入院し、萩本は見舞いに訪れていた。
新春の明治座で行われる萩本の新春公演に坂上も出演する予定だったのだ。
「“今回の明治座は無理だな”と弱音を吐いた二郎さんだったけど、よくしゃべるのよ。で、帰り際に“欽ちゃん”と呼び止めて握手を求めてきた。テレくせぇことするなあと思って手を握ったら、ずいぶん柔らかかった。二郎さんは、僕の顔を見てニッコリ笑って何も言わなかった。いま考えたら、あれが“さよなら”だったのかもしれないな。
訃報を聞いてからも、なぜかしばらくは、悲しくはなかったね。何も実感が湧かなくてさ。でもその日の夜、NHKのニュースでアナウンサーが“二郎さん、最高におかしかったですね”と笑顔で締めたとき、初めて泣けてきたんだ」
坂上死去の翌日、あの大震災が発生。坂上の葬儀は、震災の翌々日だった。
「新幹線は動いていないから、上野から宇都宮まで在来線に乗って、そこからタクシーで4時間かけて向かったんだ。大震災の影響もあって、二郎さんの娘さんも参加できず、とても寂しい葬儀だったね」
74歳で大学生になった欽ちゃん
冒頭で触れたように、萩本は現在、コメディアン、演出家でありながら、純然たる大学生でもある。
2014年、駒澤大学を社会人特別入試枠で受験し、仏教学部に合格したのだ。
萩本は高校卒業後、すぐさまコメディアンの修業に入ったため、大学に通う機会には恵まれなかった。
しかし、’13年3月、長年、座長を務めた明治座公演からの引退をきっかけに、大学を目指すことになる。
「1個やめるなら1個足さないといけないなと思って。何を足そうかと思ったとき『認知症』が怖いなと思った。予防するには覚える癖をつければいい。それもただ物事を覚えるだけじゃ途中で断念しちゃう。ゴールが見えないとダメ。そこで大学受験しようとなった」
実は萩本は以前、駒澤大学で講演し、学長とも面識があった。
「仏教の教えを学ぶというのも悪くない、いつか大学に行くならここがいいな」と萩本は思っていたのだ。
そして萩本の受験勉強が始まった。受験科目は、英語と小論文。予備校に相談し、受験英語のプロフェッショナルの先生を紹介してもらい、事務所の会議室を使って、毎週1回1時間の個人指導を開始。しかし、最初の数か月はまったく英語を覚えられなかった。
「若いころは、セリフでもなんでも5回くらい繰り返せばだいたい頭に入ったのに、この年になるとまったく入らない。先生から“これが一番いい”と言われた参考書も、僕に言わせると『説明書』で、単語や文法の意味を説明しているだけで、記憶する参考にはならない。だから、まず自分用の参考書を作ることにしたのです」
先生から渡された参考書をコピーして、ノートに貼り、覚えやすいように単語には独自の言葉を書き加え、さまざまな工夫を凝らした。
《あど3つ認める admit》
《練習するからプラプラさせて practice》
などとダジャレなどを使い、どうやったら覚えやすいか徹底的に考え、必死にノートを作ったのだ。2か月かけてオリジナルの参考書を完成させ、最終的には14冊の大作となった。
小論文は、とんでもない秘策で臨んだ。
「漢字をだいぶ忘れていたので、とりあえず難しそうな漢字を100個くらい覚えていったのです」
その漢字とは、例えば「燕尾服」「蟹」「鋏」「狼煙」「隙」などである。実際に出題された小論文のテーマの1つは『釈尊について』だった。
「お釈迦様の教えでいちばん大切なのは『命の大切さ』だろうと考えて、それを、覚えた漢字を使って文章にしていったのね」
《命の大切さにおいて蟹ほど優れたものはいない。蟹は敵が近づくと大きな鋏をかざし『俺はこんな大きな武器を持っているぞ』と敵に向かう。しかし、怯んだ相手が隙を見せた途端に逃げる。これこそまさに命の大切さを知ること。人間は武器を持つと必ず敵に向かっていく。しかし、蟹の教えでいくと、武器は戦うための道具ではなく、逃げるための道具なのである》
「で、『燕尾服』も使いたいから、最後は『蟹の心は燕尾服』ってまとめた(笑)」
大学でも起きた気づきの「奇跡」
入試から3年、萩本の大学生活はどうなのか。
「僕が入学した翌年から、受験者数がすごく増えちゃって、仏教学部の倍率も高くなったみたい。だから今の1年生は優秀ですよ。大学側も“受験生を増やすために10年頑張ってきたけど、あまり効果はなかった。それが欽ちゃんが入学してからテレビや雑誌で紹介されてすごい効果があった”と言ってますよ」
萩本は仏教学部で何を学んだのか。
「勉強してわかったことは、仏教では“勉強しろ”とは言わないんだね。“修行しなさい”とか“自分で悟りなさい”と言う。つまり、教えてもらうのではなく、自分で覚えて気づきなさい、ということ。これは学校でも会社でもいえること。勉強や仕事を教えてもらうのではなく、何をすればいいのか、自分で気づくことが大切なんだと。いまさらながら『修行』っていい言葉だなぁと思ったね。昔、コメディアンの修業してたとき先輩に“どうやったらうまくなれますか?”って聞くと“10年やってればわかるよ”なんて言われて、なんで具体的に教えてくれないんだろうとむくれたんだけど、今ならわかる」
大学では親しくなった同級生も多い。その中のひとりの親から萩本は礼を言われたという。
「萩本さんのおかげで息子が変わったんです。以前は大学行くのも嫌だと言ってたのに、萩本さんに出会ってから突然、勉強するようになりました。実家のお寺も継ぐ気はないと言ってたのですが、今では“俺、坊さんになるよ”と言ってくれていますよ」
萩本は「俺、何も言ってないけどな」と言うのだが、自分の祖父ほどの年齢の萩本が懸命に学ぼうとする姿を見た若者は、きっと何かを悟ったに違いない。
萩本が出席する授業は、どこも学生たちでいっぱいになるらしい。教壇に立つ先生たちも萩本を「欽ちゃん」と呼び、やりとりを楽しんでいるという。
「授業中に僕が先生に試験に出る範囲を教えてくれるように甘えたり、いろんな駆け引きをしてみたりね。大学では、先生は僕のいい相棒をやってくれる。大学の珍道中も面白いよ」
萩本の存在は、大学の構内でも不思議な化学反応を生み出し、いくつかの「奇跡」を起こしていたのだ。
「こないだ、同級生たちと飯食いに行こうというんで、僕初めてバスに乗ったの。そしたら、座席に座っていた学生が僕を見て全員、立ち上がった(笑)。“おーい、俺はひとりしかいないんだから”って」
萩本は、自分の死後の計画も立てていると言う。
「僕の葬式の挨拶の順番も考えてる。2番目の挨拶は勝俣州和。元気がよくてひどいこと言うからね。で、小堺と関根は、達者だから挨拶させない(笑)。1番目? それは斉藤清六と思っているんだけど、彼は意固地だから嫌がってるんだよね」
さらに、お墓を建てる予定まであるらしい。
「大学で仲よくなったやつのお寺が群馬にあるのね。そこに、『欽ちゃんの歴史記念館』とお墓を建てさせてもらうつもり。お墓にはお骨じゃなくて歴史を埋めたい。ファンの人もそこに入れるようにして、名前が刻めるようにしてね。お墓に手を合わせるんじゃなくて、“欽ちゃん、来たよー!”って手を振るようなお墓、ね、いいでしょ」
まったくこの人は、どこまでも現役なのだ。
土屋氏の言葉が印象深い。
「欽ちゃんという人は、とにかく終わらない人なのです。しゃべりだしたら止まらないように、人生もそう」
実際、今回のインタビューも記録的な長さに及んだ。
萩本欽一──まさに「饒舌な人生」なのであった。
取材・文/小泉カツミ 撮影/伊藤和幸
こいずみかつみ ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。