“燃える男”として楽天をはじめ、北京オリンピック日本代表の監督にもなった星野仙一さんが、1月4日にすい臓がんのため、この世を去った。
20年来の友人にも知らせず
昨年12月1日には大阪で自身の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われていたほど。これが最後の公の場だった。
「11月28日にも東京で殿堂入りを祝うパーティーがあり、メジャーリーグで活躍する田中将大選手も駆けつけるなど、とても盛大な会でした。監督も終始ごきげんでしたが、いま思えば少し顔がほっそりしていましたね。ただ、元気に壇上で話をしていらしたので、まさかこんなにすぐ亡くなるとは……」(プロ野球関係者)
星野さんが闘病中だったことは、家族と楽天球団のごく一部の幹部しか知らなかったという。20年来の友人である不動産会社経営者である高山右近氏にも、それは知らされていなかった。
「水くさいなって……。“女性がいる部屋にまで入ったのは、お前だけじゃ”って仙ちゃんは言ってたのに、知らせてくれないなんて……。最後に話したのは昨年11月くらい。仙ちゃんが福岡にいるって言ってて、私が岡山に行ってたもんだから、“そっちに行こうか? 中洲に飲みにでも出ようか?”って話したら、“忙しいけどのお”って言うんで、それで行かんかったのよ。
でも、そのときにはがん治療しとったんだもんね。よく選手の話をしてくれたけど、ある日“マー君には世話になった”ってボソッと言ったんよ。選手のことをそう言ったのは初めてだったので、すごく覚えているんですわ。最後にパーティーで彼に会えて、うれしかったんじゃないかな」
諦めた夢
年間140試合以上あるプロ野球の世界、監督ともなるとなかなか自分の時間が持てない。それだけに、阪神の監督を辞めた'03年からは高山氏とより親密になった。
「東京でテレビの仕事なんかが多くなったもんだから、ホテルオークラには週に2回は来とったからね。食事をして飲みに行くんだけど毎回、財界の偉いさんたちと飲みに行きましたよ」(高山氏)
阪神の監督を辞めたあと、星野さんはアメリカのマイナーリーグのチーム買収に動いていたという。高山氏も奔走し、具体的な段階にまで来ていたというのだが─。
「アメリカのチームを持ちたいというのは、ずっと夢だったみたい。日本ではプロになれなかった選手を向こうに連れていって鍛えたいって。交渉も大詰めまで行き7億円くらいで話はまとまった。
仙ちゃんは10億円くらい用意しとったのよ。だけど、ちょうど同時期に娘さんが嫁いだ病院の経営状況が悪くなったらしくて、その貯めたお金をポンと全額渡しよった。即断即決だったなあ。
それで、“高山、悪いなあ”って。でも、普通は男の夢をそんな簡単に捨てられないじゃない。それから、アメリカの話はひと言も話さなくなった。その決断の早さが彼らしいね」(高山氏)
星野さんは、その娘さんが嫁いだ病院に入院し、最期を過ごした。
非常に現実主義者だったという星野さんだが、3年ほど前に彼を震撼させるある出来事があったという。
500万円かけて生き霊のお祓い
「赤坂のクラブで台湾から来た占い師とその付き人、それと仙ちゃんと私と4人で飲んでたのよ。そうしたら占い師が“監督、言いにくいのですが、生き霊がついてます”って。
“誰ですか?”って仙ちゃんが聞いたら、“野村監督です”と。聞いた途端に顔色がサッと変わったのよ。そしたら2日後に“祓いに行く”って言って静岡県の浅間神社に行って、そのほかに8か所の神社を巡って。
タクシーを貸し切りにして回っても、最後のほうは暗くなっていたからね。500万円くらい用意して、それを30袋くらいに分けて持っていくのよ。神社に着いたら鳥居の左側を3回まわって、1つの神社にお金の入った紙袋を3つ4つ、本殿の脇の茂みにポンって投げ入れる。
別に本殿でお祓いしてもらうとかじゃないのよ。それにしても、野村監督って聞いたらびっくりするくらい顔色変わったから、何か心あたりがあったのかも……」(高山氏)
2人の女性
数々の浮名も流した星野さんだが、現役時代から支えてくれた妻の扶沙子さんを'97年1月に白血病で亡くしている。葬儀では誰はばかることなく涙を流した。
「普段は“もっと優しくしたら?”と思うくらい亭主関白でしたけど、かけがえのない人だったんでしょう。
奥さまが言ったことには必ず耳を傾けるし、そのときは“うるさい、黙っとれ”って一蹴しても、ずっと心の中で奥さまの言葉がこだましている感じで、結局聞いちゃうんです。“あいつに反対されたからやめよう”と決断を翻すこともありました」(星野家に近しい人)
記者を大事にする星野さんだったが、彼らからも扶沙子さんは人気があった。
「試合が終わった夜遅くに監督の家に取材に行くと奥さまがカレーやチャーハンなどを夜食にふるまってくださった。本当に夫に尽くしている感じでしたね。
奥さまが亡くなったときは、ご遺体とずっと添い寝していたそうです。亡くなった日は仕事があって出かけなければならなかったんですが、出発時間ギリギリまで髪をなでてずっと話しかけていたんだとか。それだけ彼女を愛していたということですよね」(元スポーツ紙記者)
再婚のうわさは何度も出ていたが結局、最後までひとり身を貫いたのも夫人への思いがあったからかもしれない。
だが、決して表に出ることのない、彼を支えたもう1人の女性の存在があったという。
「仙ちゃんのすべてをみていたのがMママ。10歳ほど年上なんだけど、ほかの女性も嫉妬するくらい“ママ、ママ”って慕っていたね」(高山氏)
資産家の令嬢だったというMさんは、星野さんと住むために都内にマンションも購入するほど。しかし、4〜5年前にこの世を去ったという。
「とにかく女傑という言葉がぴったり。政界から財界からとにかく人脈がすごいんよ。仙ちゃんがいろいろトラブルに巻き込まれたときも、僕とMママで行って片づけたりしたもんね。
阪神の監督を辞めたあと、警備会社や製薬会社のコマーシャルを持ってきたのも全部ママの仕事。社長に直接電話して、“仙ちゃんをよろしく”って頼んでたもんね」(高山氏)
日ごろから「俺は思うように生きてきたからのお」と口ぐせのように話していた星野さん。
合掌。