「障害があるから大変とか、障害がなければよかったって思ったことがないんです」。そうあっけらかんと語る、コラムニスト・伊是名(いぜな)夏子さん(35)。沖縄から単身上京、ひとり暮らし、ボランティア、海外留学、結婚、出産……。持ち前の明るさとバイタリティーで文字どおりどんな“障害”も乗り越えてきた、バリアフリー人生とは?
◇ ◇ ◇
身長100センチ。体重20キロ。
伊是名夏子さんに初めて会ったとき、あまりの小ささに息をのんだ。生まれつき骨形成不全症という障害があり、手足はきゃしゃで身体も細い。2人も子どもを産んだとは、にわかには信じられなかったほどだ。
「子どもが好きで、子育てしたかったから」
ちょっと高めの可愛らしい声。明るい口調でさらりと言うが、骨が弱く骨折しやすいため、普通に生活していても危険と隣り合わせだ。
「昨年の冬、寒いから布団をかぶって寝ていたら、当時3歳の息子が下にママの足があるってわからないでタタタッと歩いてきて、バキッとなっちゃって。骨折まではしなくても、ヒビが入ったりすることは、よくあります」
これまで何度も骨折・手術を繰り返したため、手や足は変形している。重い頭を支える背骨はくの字に湾曲しており、歩くことはできない。耳の中の骨がもろいため右耳は難聴で聞こえず、左耳も補聴器を使用している。
そんな夏子さんが母になるまでには、一体どれだけのハードルがあったのか──。
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夏子さんが生まれたのは沖縄本島北部の病院。父の伊是名進さん(73)は夏子さんが生まれたときのことを、今でも忘れられないという。
「ずーっと泣いていてひと晩泣きやまなかったんです。翌朝調べたら、両足2本骨折していて、頭蓋骨もとても薄くて。レントゲン写真を見せてもらったら、僕はちょっと気が遠くなりましたね。本土から来た有名な先生に診てもらって病名がわかったんです」
骨形成不全症は2万~3万人に1人の発生頻度だといわれる。生まれてすぐに亡くなるケースから、ほとんど症状の出ない人までさまざまだ。
進さんは高校の英語教諭、妻も家庭科教諭で共働き。仕事の都合で北部の今帰仁村に住んでいたとき、三女の夏子さんが生まれた。
赤ん坊のころは特に弱く、抱っこしただけで骨折したこともある。骨を強くする注射を1日おきに家で打った。進さんはかわいそうで嫌だったが、妻は顔に出さずに打ってくれたので助かった。
1年後に那覇市に戻り、進さんが夜間の高校に転勤。夏子さんが小学校に入るまで、昼間は面倒を見ていた。近くの子どもを集めて遊ぶ一方、自作ドリルを使って娘たちに1人1時間ずつ教えるなど勉強も厳しくさせた。
「上の2人と違って、末っ子の夏子だけが勝ち気でね。決して自分からは参ったとか言いませんし、親の言うことは聞かない。手を焼いたことが何回もありましたが、その“我の強さ”が、いい方向に向いたのかなと思います」
6歳のある日、夏子さんはこんな決心をした。
「骨折しても泣かないって決めたんです。泣くと、ヒクッヒクッという振動で、余計に痛いってわかったから。
次に骨折したとき本当に泣かなかったら、両親は病院に連れて行ってくれなくて。メッチャお願いして診てもらったら、キレイに折れてました(笑)」
幼いながら、自分の障害を受け入れる第一歩だったのだろう。
さらに両親の育て方のおかげで自立心が養われた。共働きで忙しい伊是名家では「たとえ障害があっても、自分でできることはやりなさい」という方針だった。
例えば、料理。最初は母に教わったりしながら、夏子さんは7歳のころから料理やケーキ作りを開始。1人で留守番しているときもガスコンロの前にイスを並べ、その上に立って料理をしたが、落ちて骨折することも──。
それでもめげなかったのは、進さんの言う“我の強さ”だろう。治るとまた毎日のように料理をして上達。ひとり暮らしを始めてから役に立った。
夏子さん自身は3歳上の姉の存在が大きかったという。姉のようにすることが当たり前だと思い、姉がピアノを習うと自分も習い、習字教室に行くと一緒に行く。小5からは進学塾にも通った。
「かわいそうとか、大変だねとか言う人もあまりいなくて、“なっちゃんはこうなんだよね”と、みんな普通に受け入れてくれました。そんな居場所が、地域のあちこちにあったのは本当によかったです」
あえてバリアフリーでない学校へ進学
小・中は養護学校(現・特別支援学校)で、ほぼ教師とマンツーマンの9年間。高校はどうしても普通校に行きたかった。
ところが、進学先をめぐってもめにもめた。夏子さんは高松宮杯全日本中学校英語弁論大会(現・高円宮杯)で入賞して、アメリカに招待されるなど英語が得意。両親や養護学校の校長には、英語教育に力を入れるバリアフリーの新設高校を強くすすめられた。
一方、夏子さんの志望は県立首里高校。伝統校だが校舎にエレベーターはない。「何で?」と不思議がられた。
「だって、新設校に行ったら、先輩がいないじゃないですか。私は部活をしたり、たくさんの友達と遊びたかったから。あとはね、すごい好きな男子がいて、首里高校を受けると聞いて(笑)」
反対を押し切って受験。見事に合格した。
解決策は自分で考えた。各階に車イスを置き、階段は抱っこしてもらう。行動的な夏子さんは放送部や生徒会にも所属。放課後もあちこち行ったが、運び手を探すのに困ったことはない。
同級生の當間笑美子さん(35)もよく抱っこしたひとりだ。大変だと思ったことは1度もないという。
「なっちゃんの依頼の仕方って、遠慮しないんですよ。“あ、笑美子お願い”という感じで自然だから、こっちも構えない。抱っこするときも、“今日はここが痛いから、こう持って”とか明確に伝えてくれるし。私が風邪ぎみだったりすると、“ほかの人に頼むわ”と気遣ってくれるから、私もできなくてごめんねって気分にならなかったです」
幼いころから地域で培ったコミュニケーション力のおかげだろう。
當間さんによると、夏子さんは友達が多く、いつも人の輪の中心にいたそうだ。
「英語の先生にすごいトキメイて、“キャー、ヒデキー、ヤバイ”みたいな感じで、うるさかったですよ(笑)。先生にも遠慮しないで何でも言うし、台風の渦巻きのようにみんなを巻き込んで、いろいろ前に進めてくれる人でした。
なっちゃんが首里高校にいたことで、生徒たちが得たものは大きいと思います。障害があるとかないとか関係なく、人って何でもできるんだなと思いました」
修学旅行は真冬の北海道に行った。教師たちは「雪の上を車イスで行けるか」など悩んだが、同級生が「抱っこすればいい」と、みんなで後押ししてくれた。
親元を離れ、初めてのひとり暮らし
「チョー、楽しかった!」
早稲田大学第一文学部に入学して上京。初めてのひとり暮らしの感想を聞くと、夏子さんのテンションは一気に上がった。
沖縄では車の移動が多いため手動の車イスを家族や友人に押してもらっていたが、東京に来て、初めて電動車イスを使用した。
「ひとりでどこにでも行けるのがすっごいうれしくって。無駄にコンビニをハシゴとかしてて。アハハハハ。親は心配して、毎日のように電話してきたけど、何も困らなかったです」
簡単に言うが、18歳でひとり立ちするのは健常者でも大変だ。父の進さんも最後は根負けしたそうだ。
「高校進学もそうでしたが、どう説得しても無理でした。姉たちが東京の大学に行ったので、自分も当然行くものだと思っていて、もう好きなとおりやりなさいと言うしかなかったです」
実際にどうやって家事をこなしたのか。夏子さんに聞くといちばん面倒だったのは洗濯だという。当時は縦型の洗濯機しかなく、手が届かない。棒で洗濯物を取り出し、低い位置に干したが、時間は2倍かかった。生活用品は工夫して下に置いた。電球を替える、布団を干すなど、できないことは友人に頼んだ。
大学ではカンボジアの孤児を支援するNGOサークルに加入。カンボジアに行って孤児に英語を教えたり、遊んだり。国内では資金集めのチャリティーコンサートを開いたり、JICAの勉強会に出たり。イベントでは率先して、いろいろな役目を買って出た。
そのサークルで、ひとりの男性と出会う。気さくで明るく、さわやかな彼に夢中になった。
当時の様子をサークル仲間の田中由記さん(35)が教えてくれた。
「なっちゃんは肉食系ですよ(笑)。何をするにしても、遊ぶときはまず彼に声をかけてからほかの人も誘い、脇から固めていくような、それは見事なアプローチでした」
だが努力のかいもなく、グループ交際のまま。夏子さんは「3、4回はフラレてますよ」と笑う。
「フラレたのは自分の障害のせいだとか、引け目に感じなかったのですか?」
思わず聞くと、夏子さんは即答した。
「考えなかったですね。だって、考えても歩けるようになるわけじゃないから」
夫の両親の反対。結婚式が延期に
2人の関係が変わったのは大学4年のときだ。
「彼がすごい就活で悩んでいたので、いろいろ話を聞いてあげたり、サポートしていたら、あっちから付き合おうかと言ってきたんです」
友人たちは祝福してくれたが、結婚までにはさらに高いハードルが待っていた。
夫の両親に猛反対されたのだ。
「あなたのオムツは誰が替えるのとか言われて、エ? 私、トイレは自分でできますし、彼にお弁当も毎日作ってたし。でも、いくら私ができます、頑張りますと言ったところで、あなたは障害があるんでしょって、頭から反対でした。聞く耳を全く持たない彼らの態度に怒りと悲しみを感じました。
でも、理解できないのはあちらの問題だから、どうしようもないじゃない。結婚の話し合いがにっちもさっちもいかなくて、彼が1回ひるんじゃって……」
すでに結婚式の招待状も送っていたが、全部キャンセルして延期した。
ちょうどそのころ、田中さんは夏子さんと会った。田中さんも悩みを抱え、「お互いにしんどい状況だね」と話した数日後。夏子さんから手作りのクリスマスリースが届いて、感激したそうだ。
「自分に余裕のあるときに他人にやさしくできるのは当然ですが、なっちゃんは自分が本当に苦しい状況にもかかわらず、他人に対して気を配れるんです。本当に思いやりのある人って、こういう人のことをいうんだと思いました。彼女の魅力に1度ハマったら、もうなっちゃん以外の人は考えられないと思いますよ」
半年後、結婚式を挙げたが、夫の親族は出席しなかった。
障害の遺伝を覚悟して2児を出産
夏子さんが初めて婦人科の検診に行ったのは20代半ば。夫と付き合い始めてしばらくしたころだ。
だが、冷たいひと言で門前払いされてしまったという。
「あなたは診察台に乗れませんよね」
次々と断られたが、あきらめなかった。
「同じ障害の友人に紹介された先生に診てもらったら、あなたの子宮は普通の女性と同じ6センチ以上あるから、妊娠の可能性はあるわよと。身体はこんなにちっちゃいのにねぇ。妊娠を続けるのが苦しくなったら、出せばいい。できるところまでやってみましょうと言ってもらえて、あ、そっかと」
28歳で結婚してすぐ会社員の夫の転勤で香川県に転居した。香川大学大学院で特別支援教育を専攻。同じ骨形成不全症の20代の女性たちにインタビューして論文を書き、修士号を取得した。
論文を執筆中に待望の妊娠がわかった。
だが、骨形成不全症は遺伝する。子どもが同じ障害を持つ可能性は2分の1──。
夏子さんは心臓や肺も小さいため、母体が耐えられず、未熟児で生まれるリスクもある。
「何か問題があるだろう」
そう覚悟して妊娠・出産に臨んだが、医師も拍子抜けするほど順調だった。
2013年に香川県で長男を出産後、転勤で神奈川県に。翌年、長女を出産した。
2回とも35週で帝王切開により出産。体重はともに2100グラムで、少し小さいが元気な赤ちゃんだった。
「夫も私も遺伝すると思っていました。特に2人目の性別が女だとわかった瞬間、“絶対に遺伝するわー”と。今まで遺伝していない女の子は見たことないから」
結局、2人とも障害は遺伝していなかったのだが、夏子さんは障害児を育てるつもりだったと聞いてビックリした。出生前診断であきらめてしまう夫婦もいるのになぜか。理由を聞くと、意外な答えが返ってきた。
「だってね、それなりに育てていけばいいわけだから。私自身、障害があるから大変とか、障害がなければよかったって、本当に思ったことがないんです。誰にでも、やりたいけどできないことってあるわけで、私は歩けないけど、そのかわり、泳ぐのはすごく好きだし」
だが、幼少期には1年に3回は骨折。病院のベッドで長い時間を過ごしていた。それでも大変ではなかったのか。
「もちろん、骨折すると痛いし、すごく嫌ですよ。でも、これくらいなら全治3週間とか自分でわかるんで(笑)。よく入院もしたけど、ビデオとかもいっぱい借りてくれたし、何かしら楽しみを見つけていましたから」
どこまでも前向きな言葉をあっけらかんと口にする。
強行突破で米国、デンマークに単身留学
出産は順調だったが、本当に大変だったのは生まれてからだ。料理、洗濯、掃除、子どもの世話など、日々の生活を支えてくれているのはヘルパーたちだ。実は、夏子さんがヘルパーを利用し始めたのにはキッカケがあった。
話は大学時代にさかのぼる。夏子さんは在学中にアメリカ西海岸のサクラメント大学に1年間交換留学、デンマークに3か月留学している。親には絶対反対されると思い、試験に受かってから事後報告して強行突破してしまった。
それにしても車イスの女性が外国に渡りひとりで暮らすのはどれだけ大変なのか。想像もできない。夏子さんのバイタリティーには、驚かされてばかりだ。
「アメリカは世界でいちばんハード面が整ってると思います。バスもタクシーも車イスで乗るのに困らないし、日本より生活しやすかったですよ。むしろ人種差別のほうが激しくて、競争社会だし、なんか合わないなと感じました」
次に行ったデンマークはアメリカほどハード面が整っていないが、人々が助け合って補っている。何より人を大切にする姿に感銘を受け、自然とこう思えた。
「危ない思いをしてまで自分で全部やらなくても、ヘルパーさんに頼れるところは頼ってもいいかな」
障害者にこそ子育てをすすめたい
今は朝3時間、午後は2時から9時までの7時間。合計10時間、19歳~57歳まで10人の女性ヘルパーに、交代で来てもらっている。
夏子さんは素早い動きができないので、動き回る子どものオムツ替えは難しい。危ないよと子どもを片手で抱っこして止めることもできない。料理も大鍋でたくさん作るのは難しいので、切り方まで指示をして作ってもらう。子どもが熱を出しそうなときは、ひとりでは病院に連れて行けないので、先を見通してヘルパーを確保しておく……。
いちばんつらかったのは、2人目を産んだ直後だ。2、3時間おきの授乳にオムツ替えと、ただでさえ大変な時期なのに、当時、夜勤の仕事をしていた夫の帰宅は連日、夜中の2時、3時──。
「ヘルパーさんが夜9時に帰ったあとは、私ひとりで赤ちゃんと2歳児を見ていて。何かあったらどうしよう、すぐ救急車を呼ぼうとか、ずっと気を張っていたので、ホント、大変でした」
ヘルパーは自治体や派遣会社を通じて頼むのが一般的だが、夏子さんは自分で探している。子育ても頼むため相性が大事で、信頼関係を築きたいからだ。
そのひとり、介護福祉士の佐藤沙安也さん(27)とは10年以上の付き合いだ。佐藤さんが通っていたフリースクールで大学生の夏子さんがスタッフとして働き始め、知り合った。佐藤さんが16歳でヘルパーの資格を取ると、すぐ夏子さんから声がかかった。
「昔からなっちゃんは天真爛漫で、可愛いんですよ。今も家で子どもと一緒にいると、ときには、なっちゃんが私のひざの上に乗ってきたり、わざと“沙安也がマッサージしてくれないと嫌だ~”とゴネてみたり(笑)。私のほうがずっと年下なのに、甘えん坊キャラなんですよ」
子どもたちは4歳と2歳のやんちゃ盛りだ。保育園から帰宅後は競ってママに甘える。夏子さんの母親ぶりを、佐藤さんが教えてくれた。
「例えば、子どもが何か悪いことをしても、“何でこんなことをしたの?”と時間をかけて話をきちんと聞くんです。頭ごなしに叱らず、子どもの気持ちを1回受け止めるところがすごいですよね。もちろん、毎回はできないと思いますが、そうしようと努めているのが、横で見ていてわかります」
夏子さんは「障害者にこそ子育てをすすめたい」と力説する。
「私が結婚するときは、障害者の結婚はありえないとか、子どもを産むなんてありえないとか、すごく反対されたけど、子どもって、どんな親でも必要としてくれるじゃないですか。親の障害を否定しないし。私が歩けないことも当たり前のこととして受け入れるし。ホント、おすすめですよ。ただ、2歳差は大変。それだけが計画外でした(笑)」
理由を聞いてなるほどと共感できた。同時に、実行できる人は少ないだろうとも。夏子さんほど強い人はめったにいないから。
車イスだから、大変なのではない
「どうしてそんなふうに、いつも前を向いていられるんですか?」
インタビュー中、何度も浮かんだ疑問をぶつけると、少し考えてこう答えた。
「うーん、楽しいからかな。私だって落ち込むし、失敗もするけど、何かしているほうが楽しいじゃない。あと、信頼する人の手を借りながら、自分の毎日は自分で作れると信じているからです」
その言葉どおり、新しいことに次々とチャレンジしている。
昨年末にはなんと舞台デビューを果たした。女優の東ちづるさんのプロデュースで見世物小屋を復活しようと車イスのダンサー、寝たきり芸人、女装詩人など障害者やマイノリティーが多数集結。『月夜のからくりハウス』と名づけた一夜限りの舞台で、夏子さんは人魚の衣装を着て、小人プロレスのマネージャー役をした。
「やっぱり“違う”って、不思議だし、面白いし。特に今回は、人と違う自分の特性や強みを生かして表現したいと集まったので、本当に、いい意味での見世物になれたと思いますよ」
夏子さん自身、車イスで街に出かけるだけで注目を浴びる。小さな子どもは夏子さんを見て、親に「あの人、何?」と聞くが、親は「行くわよ」と話をそらせて立ち去ろうとする人が多い。
「ジロジロ見られて嫌だとは思いません。それより見ないほうがいいとか、存在を隠されるほうが私はすごく嫌です。だから、障害者を知ってもらうチャンスだと思って、目が合った子どもに、“こんにちは。車イスだよ”と自分から話しかけたりしていますよ」
昨年11月には新宿から表参道までJRと地下鉄を乗り継いで移動する様子をユーチューブにアップした。健常者なら20分で行けるが、駅員に連絡して電車に乗るスロープを出してもらい、エレベーターを乗り継ぎ60分かかった。それでもいつもより早いほうだと苦笑する。
「車イスだから大変なわけではなく、ハード面が整っていないから大変なわけでもなく、ちょっとの思いやりや理解がないことが怒りにつながることが多いですね。
昨日も新宿に行きましたが、駅でエレベーターに乗るのに5回待ちました。車イス優先エレベーターと書いてあっても、スーツケースを持った人や歩ける人が先に乗ってしまう。そういうことが毎回、毎回起こるので疲れますよ」
これまで各地で講演をして実情を話してきたが、2010年からはコラムニストとしても活躍。沖縄の琉球新報や東京新聞・中日新聞で障害者の日常や子育てなどをつづる連載を続けており、ブログもひんぱんに更新している。
これからの目標はNPOを立ち上げること。すでに「イエサポ15」と名前もつけている。障害者のヘルパーは15歳からできるので、高校生など若い人に広めていきたいと、やる気満々だ。
大学卒業後、沖縄で小学校の英語講師をしていたこともあり、若い人に関わる仕事を再びやりたい。いずれ大学の教壇にも立ちたいという。
「地域の中で私のような障害者が生きているのが当たり前になれるように、障害者がどうやって生活しているのか、どうやって子育てしているのかを、若い人たちに伝えていきたいです。若いうちに知ることで、もっと助け合いが広まるんじゃないかな~」
持ち前の行動力で、周りの人をどんどん巻き込んでいく夏子さん。
ひとりの強い思いが、大きなうねりになり、社会を変えていく。そんな日を夢見て、今日も発信を続ける──。
取材・文/萩原絹代 撮影/坂本利幸
萩原絹代(はぎわらきぬよ)◎大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある