史上初の“クールなヒール(悪役)”としてプロレス界を席巻し、一大ブームを起こした「黒のカリスマ」こと蝶野正洋(54)。帰国子女の坊ちゃんから、三鷹の不良、大学を蹴って入ったマット界、不遇の海外武者修行中に出会った運命の妻、帰国後の大成功、若すぎる盟友の死などを経て今、社団法人を立ち上げて救命救急の普及に尽力する……。波瀾万丈すぎる蝶野の人生に迫る!
◇ ◇ ◇
6万人の東京ドームが沸騰するほどの熱気のなか、サングラスに足首まである黒いガウンをひるがえして入場する鍛え上げられたプロレスラー。“黒のカリスマ”蝶野正洋の入場だ。
54歳となる現在、現役のレスラーとしては第一線を退いているものの、アドバイザーや解説者として今もプロレスを支え、タレント業やファッションブランドの経営、そして救命救急に関わるボランティア活動、さらには2児の父として忙しい毎日を送っている。
新日本プロレスの黄金期を支えた大スターとして、蝶野はまさにプロレスの申し子に思える。しかし、レスラーになったのは、本当に偶然であり、挫折を抱えた思春期の暗闇のなか、たったひとつ、手にした希望だったのだ。
渋谷の坊ちゃんから伝説の番長に
蝶野は1963年、父のアメリカ駐在中、シアトルで生まれた。医者の家系でお嬢様育ちの優しい母、夜中まで働く猛烈サラリーマンの父のもと、育てられた末っ子の蝶野はとびきり甘えん坊だった。
2歳で帰国して渋谷に暮らし始めると、エリート家庭の子どもばかり。将来は「大学を出て、俺も親父と同じサラリーマンになるんだろう」と考えていた。小学6年生で、三鷹の小学校に転校するまでは。
渋谷と三鷹。同じ東京ではないのか? そう尋ねると蝶野は笑って言った。
「昔の三鷹を知らないでしょう? 田んぼだらけの田舎で、何よりも人種が違う。いきなり隣のクラスの番長がやってきて、『腕相撲』を俺に挑むんだ」
当時、三鷹の子どもは強さがすべて。それで友情を築いている。学力重視の渋谷からは衝撃だった。なにしろ渋谷の進学塾ではビリだったが、三鷹の小学校では優等生に。 そのギャップに慣れるだけでもひと苦労なのに、番長となった蝶野は大変だった。
遠足などで仲間が他校の学童とケンカになれば、番長として出ていかなければならなかったし、一方で遊びの計画を率先して立てたりもした。面倒見のよさは、このころ培われたのだろう。
中学では頭はアイロンパーマ、剃り込みにボンタン。不良街道をまっすぐに突き進む傍ら、サッカー部を立ち上げ主将として活躍した。当時の夢は世界で活躍するサッカー選手だった。
「どこかで俺は、アメリカ生まれという意識があったんだろうね。ワールドカップを夢中になって見て、いつかブラジルに渡って世界で活躍したいと」。もちろん高校は私立のサッカー強豪校にスポーツ推薦で行く予定だったが、筆記テストでまさかの不合格。点数が足りなかったのだ。
最初ともいえる大きな挫折にショックを受けた。高校浪人の危機もあったが、誰も知らないところで、やり直したいと三鷹から離れ、多摩の都立高校の門をくぐる。
ところが「あの高校に三鷹の蝶野がいるらしい」と、口コミで瞬く間に伝わり、三鷹を離れても不良は寄ってくる。さらにバイクの魅力には抗えず、誘われるまま暴走族に。それでも家ではいい子だった。週末、「パパ、ママ、おやすみなさい」と挨拶がすむと、部屋に隠してある特攻服に着替えてバイクで集団暴走をしていた。
「ある日、親父に“何だその格好は? 日の丸もつけて”と聞かれて、“清掃作業の手伝いに行くんだよ”という俺の嘘を信じてくれたのは、親父は当時の不良の服なんて知らないし、うちの正洋が悪いことをするわけがないと思っていたんだろうな」
蝶野家のかわいい次男坊でありサッカー部主将、暴走族に番長と、裏も表も充実した高校生活を送る蝶野だったが、「卒業が近づくと仲間たちは不良を引退し就職や進学を決めていた。リーダーの俺だけが取り残されていた」。
不良には引き際の美学があった。今を生きることは器用な蝶野だが、未来を描くことは不器用だったのかもしれない。プロサッカーチームが日本にまだなかった当時、卒業後の目標をすっかり見失っていた。両親の言いつけに従い、大学を目指して浪人生活を始めたが、まるで身が入らない。
ある夜、ふとテレビの画面にくぎづけになった。そこには屈強な外国人選手を相手に力いっぱい闘うアントニオ猪木の姿があった。熱狂する会場、繰り出される華麗な技。サッカーにかけていた情熱がよみがえった。
しかし、ウチのまっとうな両親が許してくれるわけがない。そこで蝶野は一策を講じた。「大学でアメフト部に入りたい」と、母にトレーニングの機械をねだり、毎日、スタミナ料理を作ってもらって身体をつくった。春、2通の合格通知が蝶野家に届いた。大学の合格通知とプロレスの入門通知だ。
「親父は“厳しい世界だから、お前はすぐに逃げ出す”とすごい剣幕で怒るし、お袋は“許しません!”と泣き出すし。俺は不良とはケンカをしたが、普段、親や先生に対し反抗的な態度はとらない主義だ。だからこそ、親父の言葉に交渉の余地があると考えたんだ。“その厳しい世界でこそ自分の力を試したい。 1年だけ、半年でもいいから、チャンスをください。レスラーとして芽が出ないなら大学へ行くから”と頭を下げたんだ」
突然やってきたプロレスデビュー
1984年4月、20歳で新日本プロレスの門をくぐる。「いつか正洋ちゃんは大学に」と、入学手続きをして何年も学費を払い続けたけなげな母の願いとは裏腹に、もう後がない蝶野は、背水の陣で練習に励んだ。同日に入門したライバルたちの中には、のちに闘魂三銃士を結成する武藤敬司と橋本真也もいた。
同期の中で、社会人経験のある武藤選手はいちばん大人びていた。サッカーしかやってこなかった蝶野に比べ、柔道の強化選手にまでなった逸材だ。そんなある日、武藤選手のデビューが決まった。
「控室に行ったら、武藤選手の対戦相手の名前が書いてない。試合30分前になって、先輩が“蝶野でいいや。レスリングタイツ持っているか?”と。頭が真っ白だよ! 作戦どころじゃない。タイツが小さくないか、靴の紐、ゆるいんじゃないかって」
自意識過剰な蝶野の焦りとは対照的に、前座中の前座、誰もまともに見ている客はなく、購買にパンを求める人の列がのびていた。
人生初コールしてもらって組み合ったものの、わずか3分で逆エビ固めをくらいギブアップ!
「ところが、レフェリーが、“ん? まだまだ~”と言って、試合を終わらせてくれない。俺も武藤選手も目が点! プロとしてリングに立つ以上、闘志や意気込みを見せるべきだろ! と教えたかったんでしょう」
初めて気がついた自分の無力さ
踏んだり蹴ったりのデビュー戦を経て、アントニオ猪木の付き人をこなしながら多くを学んだ。「親父のような仕事人間にはなりたくない」と思っていたのに、猪木さんがまさかの24時間プロレスラーで、仕事の鬼だった。決して驕らず、少しの隙を見ては、どんなに疲れていてもトレーニングをする。
裸一貫、のし上がっていく人はどこでも同じなのかもしれない。プロとしての矜持を学び、先輩の技を盗み、次第に実力をつけていった蝶野は、新人の大会「ヤングライオン杯」で同期の橋本を破り優勝。「海外で修行してこい」とオーストリアまでの飛行機の片道切符を渡された。サッカーで実現できなかった海外に、ついに挑戦する日が来たのだ。
ところがである。万感の思いで到着してみれば、何もかもお膳立てしてくれる日本とは違って、待っていたのは孤独との闘いだった。言葉もわからず、レストランのメニューも読めない。通訳もいなければ友達もいない。泊まるのは売春宿の上で、薬物中毒の連中がうろつくような治安の悪い場所。次第に食べるのが億劫になる。おまけに海外のプロモーターから渡された小切手が不渡りだったりと、貯金を切り崩す日々。
「まるで刑務所に入れられた気分。各国の選手が集まる控室でコミュニケーションをとるのも面倒で。大将だった俺が海外では何もできないことにショックだった」
井の中の蛙、大海を知らず。初めて気がついた自分の無力さと未熟さ、そして無学さ。ヨーロッパ遠征最終地ドイツのブレーメンに移ると、「今までの日本人選手は女遊びして酒飲み歩くのに、おまえ、まじめだな。大丈夫か?」と心配した先輩レスラーがホームパーティーに連れて行ってくれた。
温かい雰囲気にホッとしたのか、蝶野は、酔いつぶれて人の家で泣き出した。そのとき、母親とパーティーに来ていたのが、のちに奥さんとなるマルティナ・カールスさんだった。人前で涙をこぼす日本男児に驚き、介抱して宿舎まで送り届けた。「ドイツでは男性は強いというイメージがありますが、蝶野さんは弱くてかわいそうでした」とマルティナさんは述懐する。
翌日、蝶野は、マルティナさんのバイト先に花を持って行き、片言の英語でデートに誘う。寒い安宿でひとり凍える蝶野を気の毒に思い、マルティナさんは自宅に泊めてくれた。
「とにかく親切だった。困っている人がいたら助ける。当時、まだ黄色人種の差別もあったのに、一緒にいても平気な顔をしていた」
蝶野が猛アタックを開始したのもつかの間、今度はアメリカのカンザスシティへの移籍が決まった。あきらめられない。つたない英語で移籍先のアメリカからラブレターを書き、国際電話をかけると、別れて1か月もしないでマルティナさんがアメリカまで、来てくれた。
「一緒になると決心して渡米したわけではなく、ただのバカンスでした。でも……好きになった理由は何でしょうね、言葉では言えない。たぶん私も一目惚れしていたんでしょう」(マルティナさん)
海外のレスラーは自分で仕事を見つけて交渉し、トライアウト(テスト)を受け、そこでのし上がる。2人が一緒に暮らし始めたアメリカ南部の街は、人種差別がひどい地域だった。店の定員にスラングで嫌味を言われたり、プロレス会場では物を投げてくる。
会社員の父がよく「人は信用するな」と言っていたのは、父も海外での差別と闘ってきたからかもしれない。過酷な環境にもまれ続けた蝶野は、その悪意を逆手にとって客を挑発し、会場を盛り上げるすべをいつの間にか身につけていった。
橋本選手からかかってきた一本の電話
1988年、カナダのカルガリーにいるはずの橋本選手から一本の電話がかかってきた。問題を起こし出場停止をくらい、スズメを捕まえて飢えをしのいでいるなんていう噂は聞いていた。ことの真相はいまだにわからないが、早く帰国したい橋本選手は、ロスにリハビリにやってきた猪木さんに、そのチャンスを逃すまいと、同期3人の凱旋帰国の話を直訴したらしい。
「猪木さんの闘魂を俺たちがゆずり受ける! 闘魂三銃士として凱旋帰国だ。蝶野、俺たちは期待されている。1試合100万は出るだろう」とまくしたてた。
橋本選手はどんな人だったのか尋ねると、蝶野はとたんに饒舌になった。
「ほんと迷惑な人間だったよ、ブッチャー(橋本の愛称)は。いつも誰かを巻き込むんだ。田舎者で実は警戒心が強いくせに、野心家。でもまあ……同世代のレスラーが集まると、いつもブッチャーの話になる。みんなに愛された、憎めないやつなんだよね」
「そんなうまい話はないだろ」と怪しみつつも、当時、プエルトリコで闘っていた武藤選手とロスで3人は合流し、成田に到着。そのとたん報道陣のカメラのフラッシュが一斉に焚かれたのだ。「もう俺たちは目が¥マークに。でもギャラは案の定、橋本選手の言う10分の1でしたけどね」
有明コロシアムで行われた試合で闘魂三銃士がお披露目されたが、すぐに海外に戻され、蝶野は再び、世界各地を転戦する日々が続いた。本格的な帰国命令はその翌年の1989年の秋。ウィーンから始まった海外遠征から、すでに3年の月日がたっていた。
クールなヒール“黒のカリスマ”誕生
あんなにホームシックにかかっていたのが嘘のようだ。海外で自信がつくと、すでに蝶野の心は日本を離れていた。アメリカ以上に文化や言葉がまるで違う日本に、マルティナさんを連れて行くのも心配だった。「1年でアメリカに戻る」という約束でマルティナさんを伴って帰国したのだが、事態は思わぬ方向へ向かっていく。
帰国した翌年、ヘビー級選手によるシングルリーグ戦「G1クライマックス」で、大穴だった蝶野が優勝候補の武藤選手を決勝で破りまさかの優勝。その翌年のG1も制し、さらにNWA世界ヘビー級王座も獲得。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、蝶野はスーパースターへの道を突き進んでいった。
ところが、称賛を浴びれば浴びるほど、蝶野は退屈し始めた。プロレスには正義のベビーフェイスと悪役のヒールがいて、それぞれ役に徹し盛り上げるが、正義側でいることが窮屈で不自由なのだ。200人くらいしか客席が埋まらない海外のプロレス修行時代と比べたら、今の人気や待遇は雲泥の差だ。東京ドーム大会のメインを張れるなら満足だろう。
しかし、飼いならされていく感覚が、元番長の蝶野には満足できなかった。
「ヒールの側でもっと自由に自分のプロレスをしたい」と、会社に交渉してもOKは出なかった。
ならば、と虎視眈々とチャンスを狙った。3度目のG1優勝を飾ったとき、「体制に守られたレスラーはレスラーじゃない!」と、武闘派宣言をしてヒールになることを世間にアピール。言ってしまったものはしかたがない。会社もついに観念してGoサインを出してくれた。
ついに自分の好きなようにやれる! とはいえ、何か具体的なプランがあったわけではない。まず、形から入ろうとコスチュームを変えることにした。各選手、目立とうとリングの上はカラフルだったから、ちょうど黒がいなかった。そこで、金沢の試合で、マルティナが縫ってくれた黒のガウンで入場して会場をアッと言わせたが、試合のプランまでは頭が回っていなかった。
一方、地元・金沢出身の馳浩は、蝶野を派手に倒そうと張り切っていた。普段、やらないような場外戦を仕掛けられた蝶野は頭にきて、テーブルごと馳を蹴っ飛ばす。
金沢の人が目にしたのは、馳選手の勝利ではなく、ぱっくり割れた血だらけの馳選手の頭をかきむしる悪魔のような蝶野の姿だった。この間までヒーローだったはずの蝶野の大ヒールぶりをスポーツ紙はおおいに報じた。流血の馳選手は気の毒だが、この一戦で見事、イメージチェンジを図ることができたのだ。
全盛期の蝶野をよく知る、週刊誌『ゴング』(1984─2007年)の名物編集長であり、現在、プロレスの解説者などを務める金沢克彦さんは語る。
「爆発力のある橋本さん、華やかな技で女性にもてる武藤さんに比べて、クラシカルでオーソドックスなプロレスをする蝶野さんは、やや華がなかったんです。けれども、真っ黒で洗練されたコスチュームやサングラス、マイクを使ってのアジテーションといった、ヒールなのにカッコいいというスタイルを打ち出した。それは蝶野さんが初めてではないでしょうか」
反則技を繰り出し、最後はみじめに仲間に肩を抱かれて引き上げる典型的な悪ではない。クールな“黒のカリスマ”の誕生だ。襟の立った黒いガウンは長い学ランをイメージしていた。反体制にいながらも、仲間を思う強い番長。それは蝶野の生きざまそのものだ。
しかし、自由にやらせてもらうぶん、ひとつ成功したからといって、あぐらをかいている暇はない。常に前進あるべし。ファンが喜ぶような次の仕掛けを蝶野は模索した。
社会現象になったユニットnWo
当時、新日本と契約していたアメリカのプロレス団体、WCWに学ぶため蝶野は再びアメリカに渡る。そのWCWには、当時、ベビーフェイスからヒールに転向した人気レスラーのハルク・ホーガンが率いる反体制派のnWoという不良ユニットの人気が急上昇していた。ニューワールドオーダー、新しい世界の秩序という意味だ。蝶野は、そのユニットの日本支部nWo JAPANを立ち上げ、グレート・ムタ(ヒール時の武藤)など個性的な選手を着々と勧誘し、新日本のなかで勢力を伸ばしていった。
「当初、現場を仕切っていた長州さんは、日本では無理だと反対したそうです。けれども、絶対に成功してみせるから、と。蝶野さんのすごいところは、本家のアメリカを超える大ブームを日本で起こしたことです。渋谷を歩いていれば1時間に10人はnWoTシャツを着た人とすれ違うほどバカ売れ。nWoの理念やデザインがプロレスを超えて社会現象にもなりました。一選手が海外からユニットを持ち込み、プロデュースするなんて、前代未聞だったんです」(金沢さん)
カッコいいヒール、ユニットの輸入に続いて次の「はじめて」は、ファッションブランドの立ち上げだった。
「首のケガで休場しているとき、マルティナと話し合ったんだ。いつまで選手を続けられるかわからないし、夫婦で次の人生の準備をしようと。彼女のデザインは評判がよかったし、将来や生きがいも考えてあげたい。当時、うちは子どももいなかったから。ベンツが欲しかったんだけど、そのお金を有意義に使おうと」
ブランド名、アリストトリストとは「アリスト(上流)」と「トリスターノ(庶民)」の造語で、フォーマルもカジュアルも、そして老若男女、「分け隔てがない」という意味だ。海外で偏見と闘ってきた蝶野と、日本で暮らすドイツ出身のマルティナさんの信念でもある。
蝶野のコスチューム同様、ブランドのイメージは黒。「黒はパワーを与えてくれる色。誰ものパーソナリティーを強くしてくれる力を持っています」とマルティナさん。蝶野のいちばんそばにいて、その弱さも知るからこそ、黒を身につけてほしかったのかもしれない。
リングの中でも外でも快進撃を続ける蝶野。しかし、切磋琢磨しあった闘魂三銃士は、いつしか違う道を歩み始めた。全日本プロレスに移籍した武藤選手、新団体ZERO−ONEを旗揚げした橋本選手、いちばん帰属意識が低かったはずの蝶野だけが、新日本に残っていた。しかし、本当の別れは突然、やってきた。2005年、橋本選手が脳幹出血で突然、亡くなったのだ。まだ40歳だった。
無駄にしたくない橋本選手の死
訃報を聞いたとき、蝶野は何かの間違いではないかと思った。亡くなる少し前に会ったとき、会社経営のゴタゴタなのか、顔色があまりにも悪いのが気になった。どうして何もしてあげなかったのか。助けられなかったことに悔いが残った。
身体を痛めつけて仕事をしている以上、ある年齢にくればレスラーの誰もがケガや不調に苦しむ。古傷が悪化し、プロレス選手としては一線から退き始めた蝶野は新しい生き方を模索していた。私生活では幼稚園の送り迎えをする2児の父親として、仕事ではコメンテーターやタレント業にも進出した。年末の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』スペシャルではビンタをする怖いおじさん、昨年まで出演していた『Let’s天才てれびくん』では教官として、子どもたちにも知られる存在となった。
そんなある日、救命救急の出張講習を知った。興味を持って受講してみると、東京消防庁の人から「このAEDという止まった心臓を動かす医療機器が駅などにあるんだけど、使い方がわかる人が少なくて。広報に協力してもらえないか」という。
もし、こうした救命救急の知識が一般の人に広がれば、助かる人も増えるのではないか。とたんに橋本選手の顔が浮かんだ。気がつけば、「俺でよければ人寄せパンダになります」と申し出ていた。
救命救急を教えてくれた東京消防庁OBの中島敏彦さん(70)に、財団法人を立ち上げ、AEDの普及や地域の消防団の応援を本格的にやっていきたいと、蝶野が相談したのは、それから間もなくのことだった。
「僕とはひとまわり以上、年は違うんです。けれども人の命を助けたい、弱い人を守りたいという熱い気持ちは同じ。蝶野は、自分は社会に育てられたから社会的な責任を果たしたいという。生半可な売名行為ではないことはわかったので、“やるならば、非営利でやりなさい”と伝えました」
中島さんを相談役に迎え、2014年にニューワールドアワーズ スポーツ救命協会を立ち上げた蝶野は、どんなに小さな地方のイベントでも、積極的に参加しPRを行っている。静かに活動していたため、あまり知られていないが、選手時代から老人ホームへ慰問したり、東日本大震災では被災地に駆けつけ被災者を励ますなど、社会貢献への関心はもともと高かった。
「ある日、蝶野のお姉さん、お兄さんがやってきて僕に言うんです。正洋をよろしくと。昔、ヤンチャだったけど、まともな人間になって本当によかった、と。もう蝶野は50歳過ぎなんですけど、まだ心配なんでしょう(笑)。実は繊細な男ですよ。周りのことをよく見ているんです。亡き橋本選手の息子、今は父の遺志を継いでプロレスラーになった大地君と4人でバイキングに行ったときも、“こら、自分の分だけ取るな! 中島さんにも持ってこい!”と叱っていましたが、実子同様、父親代わりなんでしょう」(中島さん)
今までのプロレスラーがやらなかったことを、次々と実現していく蝶野の背中は、後輩にとって大きな目標になるだろう。しかし、蝶野は言う。生きていて、ずっと自信なんてなかった、と。絶望や孤独といった人生の冬は何度も経験したし、調子がいいときも不安でしかたなかった。
しかし、これだけは知っている。痛みを知れば知るほど、強くなればなるほど、人は人に優しくなれる。プロレスはただのスポーツではない。強ければいいわけでもない。プロレスとは自分の人生を見せる場所。苦しみも喜びも痛みも。その生きざまに人は感動し、勇気をもらい、明日への一歩を踏み出す。
リングを降りた蝶野だが、人々に優しさと強さと勇気を与えるプロレスラーの信念はいつまでも変わらない。今よりもっといい世の中へ。次の世代へつなぐ希望の種を蝶野は今日も蒔いている。
取材・文/白石あづさ
しらいしあづさ◎日本大学芸術学部卒業後、地域誌の記者に。3年間、約100か国の世界一周を経てフリーに。グルメや旅雑誌などへの執筆のほか、週刊誌で旅や人物のグラビア写真を発表。著書に『世界のへんな肉』(新潮社)、『世界のへんなおじさん』(小学館)がある。