この日のコンサートでも津波ヴァイオリンで『浜辺の歌』を演奏した('18年2月)

「私は胸がいっぱいで、よく覚えていないんです。ただ、生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声のように、いい音ではなかったと思います」

 そう話すのは、津波ヴァイオリン(正式名称・TSUNAMI VIOLIN)の製作者であるヴァイオリンドクターの中澤宗幸氏(77)。自ら作り上げた“特別な作品”の音色を初めて聴いたとき、熱いものが込み上げたという。

「あれは瓦礫なんかじゃない」

 津波ヴァイオリンとは、'11年3月11日に発生した東日本大震災で出た瓦礫や流木などをもとに作られたもの。表板と裏板を内部で支える“魂柱”には、陸前高田市の“奇跡の一本松”の木片が使われ、裏面にその姿が描かれている。現在はヴァイオリン4台、ヴィオラ2台、チェロ1台が作られている。

「震災が起きたあと、テレビを見ていた家内が“父さん、あれは瓦礫なんかじゃない。家族の思い出とか歴史の山でしょ。その中からヴァイオリンは作れないの?”って言ったんです。それで、製材業の友人に被災地で材料を取る方法はないかと電話したら、仲間の同業者が陸前高田の隣の久慈市にいると。それで、一ノ関まで迎えに来てもらい陸前高田に向かったのです」

 彼らが被災地に入ったのは'11年12月のこと。震災から9か月が過ぎたとはいえ、陸前高田にはまだ災害の爪痕は色濃く残っていた。

「いろいろと流木を見て回って、ヴァイオリン上部の共鳴板となる柔らかい板に、家の梁だと思われる松の木材を見つけました。裏側と横の部分は硬い木でないといけないので、おそらく床板に使われていたであろう、かえで科の木を使ったのです」

 だが、流木は海水に浸かってしまったため、再利用するのは難しいはずだが……。

「よくそう聞かれるんですが、何百年も前のストラディヴァリウスのような名器は、イタリアの対岸にあった旧ユーゴスラビアのかえでで作られているんです。その当時はいかだを組んで、アドリア海を引っ張ってきたわけなんですね。そして、海に浸かったことにより、塩水で樹脂が出るんですよ。なので、私は今でも材料は塩水に浸けています」

 こうして海水に浸かった流木の何本かは、奇跡的にヴァイオリンとして新たな命が吹き込まれた。だが、通常の製作過程とは違う苦労を味わうことに。

「普段ならば、ヴァイオリンにするために木目などを見ながら細断していくんですが、流木はすでに床板などとして切ってあるわけですよ。だから木目はどういうふうに切ってあるかわからない。非常に苦労しましたね。そのときは、“もう音はどうでもいい。ただ、人に語りかける音色であってくれればいいな”と。その一心で作りました」

美智子さまのお言葉をずっと胸に

 苦労の末に生まれた津波ヴァイオリンは、'12年3月11日に陸前高田の慰霊祭でイヴリー・ギトリス氏によって初めて人前で演奏された。

「彼を1人目として『千の音色でつなぐ絆プロジェクト』をスタートさせました。プロやアマを問わず、1000人のヴァイオリニストの手から手へ、復興の思いをつないでいければと。震災を風化させないためにも、続けていきたいです」

 すでに540人ほどのヴァイオリニストに、震災ヴァイオリンはつながれている。

 そして、このプロジェクトに共感されたひとりが、皇后美智子さま(83)だ。

学習院OB演奏会で津波ヴィオラを手に演奏された皇太子さま('13年)

私が美智子さまにお会いしたときに、“千の音色でつなぐ絆を1日も早く達成したいと思います”と申し上げたら、“人は忘れやすいですから。ゆっくりでも、1人でも多くの人にこの音色を伝えてくださいね”とおっしゃってくださいました。

 日本人にとって千羽鶴など千という数は特別な数字です。決して千で終わるということではなく、美智子さまのお言葉を胸にずっと続けていきたいと思います」

 そんな美智子さまの思いは、皇太子さまへも伝わっていた。'13年7月7日に行われた学習院OB管弦楽団の定期演奏会で、津波ヴィオラを演奏。天皇・皇后両陛下と雅子さまがそろって鑑賞された。

皇太子さまの津波ヴィオラの演奏を天皇・皇后両陛下と雅子さまがそろって鑑賞された

 貴重な津波ヴァイオリンを中澤氏はあるひとりの青年に託している。脳性まひのヴァイオリニストでありながら今年4月11日にキングレコードからメジャーデビューする式町水晶くん(21)だ。

彼は障がいがありながらも、ヴァイオリンが彼に力を与えた。そんな彼がもし津波ヴァイオリンを弾いたとしたら、津波で亡くなられた方々や心に傷を負っていらっしゃる方々へ、メッセージが届くんじゃないかと思ったんですね。

 この津波ヴァイオリンは過去にこんな大変なことが起こったんだということを語ることができる。そして、形を変えて人を励ましたり慰めたりする。そういう役割を持っていると思うんですね。このヴァイオリンを生かしてくれるのは、水晶くんだと思って1本を託したんです」

被災地の魂が入っている

 初めて津波ヴァイオリンに触れたときのことを、式町くんは昨日のことのように思い出すという。それは、'13年夏、中澤氏の工房でのことだ。

津波ヴァイオリンとヴィオラを持つ中澤氏。裏には“奇跡の一本松”の絵が描かれている

「その当時、手にまひが出るなど身体にトラブルがあって、“もしかしたらヴァイオリンやめるかもしれません”って先生に相談したんです。“この手じゃどうにもならないし、薬で何とか対応しているけど副作用が激しい”と。そしたら先生は、“でもね、君にはつらいことがあるかもしれないけど、絶対にヴァイオリンをあきらめちゃダメだ。焦らずゆっくりでいいから”って激励してくれたんです。そのときに津波ヴァイオリンの話をしてくださったんです」

 小学生のころから車いすで中澤氏の工房に通っていたにもかかわらず、津波ヴァイオリンのことを知ったのは、そのときが初めてだった。

「本当に失礼なんですが、先生がそんな素晴らしいヴァイオリンを作ったなんて知らなかった(笑)。でも、奇跡の一本松を魂柱に使ったヴァイオリンと脳性まひだけど奇跡的にまだ指が動く自分とがリンクしたんです。このヴァイオリンだって頑張っているんだから、自分もそんな弱音を言っていられないなって」

 '15年3月、仙台市で開催された国連防災世界会議で、式町くんは津波ヴァイオリンで『花は咲く』を演奏。頻繁に貸し出してもらっていたところ、1年半ほど前に中澤氏は4本のうちの1本を彼に預けたのだ。その使命感に式町くんは身震いしたという。

「最悪、自分が弾けなくなるときが来ると思うのですが、弾けるうちはいっぱい鳴らしたい。津波ヴァイオリンってものすごくいい音なんです。だからこそ津波ヴァイオリンという概念をはずしても名器として残っていってほしい。

 そうなるには、時間をかけて鳴らして鳴らして鳴らし続けないといけないんです。名器だけど、津波ヴァイオリンという被災地の魂が入っている。鎮魂の意味もあるけど、希望の意味も入っている。そんなヴァイオリンにするのが、僕のもうひとつの夢なんです

 時代を超えて受け継がれる津波ヴァイオリン。式町くんが弾く音色を中澤氏は絶賛。

「彼は彼の人生を背負ってきた。そこから出る音色というのは、ほかの誰も出せない音色なんですね。ヴァイオリンというのは不思議で、彼も言っていましたけど、みんなに“今に見ておれ”と思っていた時期の音はキツかったと。でも、いつまでもそれじゃいけないと思ったら、音が変わってきたと言ったときは感動しましたね。確かにそうなんです。私もそれは感じていました。彼の心の声が出ています。ヴァイオリンは正直なんです。

 たいてい、ヴァイオリンを弾く子はいい家庭の子で恵まれていて、上げ膳据え膳で練習しなさいって言われるでしょ。そんな子が人の魂を揺さぶり、涙を誘うような演奏は絶対にできないと僕は思っています。音楽は心ですから。だから水晶くんのヴァイオリンが心を打つのはそういうことなんです

 津波ヴァイオリンと脳性まひのヴァイオリニスト。2つが聴く者の心をとらえて離さないのは、“希望の音色”が奏でられているから─。