「いらっしゃいませー」
ドアを開けてお客が入ってくると、レジの後ろに立つ菅原初代さん(54)はすかさず声をかける。3坪ほどのこぢんまりとした店内には、菅原さんが早朝から焼き上げたパンが並ぶ。店名にもなっている『カンパーニュ』という自家製天然酵母のパン、山型食パン、ライ麦パン、ベーグルなど10数種類がずらり。
店があるのは、JR盛岡駅から3km近く離れた閑静な住宅街だが、「菅原さんのお店はどこだろう」と探して買いに来る人も結構いる。
「テレビでずっと見ていたけど、こんなに細い人なんだぁ。顔がちっちゃーい」
2人連れの女性客に声をかけられると、菅原さんは照れたように笑った。
「どこがですか? 腰痛がひどくなってきたから、ダイエットしないと」
実は菅原さん、全国にその名を知られた大食いの女王だ。テレビ東京系『元祖!大食い王決定戦』に出演。ギャル曽根などライバルたちを寄せつけず、2008年、’09年、’10年と3連覇して殿堂入りした。
何を出されても顔色を変えず、ラーメン27杯、ステーキ5.6キロなど、黙々と食べ続ける姿は強烈だった。
あまりの強さに、“魔女”と称された菅原さん。どんな思いで大食いに取り組んできたのか聞くと、意外な答えが返ってきた。
「大食いって、数字に置き換えられるから好きなんです。例えば、最初の5分に10杯食べると、次の5分ではその半分になり、最後の5分はさらに半分になる。逆に考えると、最初の5分にこれだけ食べれば勝てるとか、予測できる。その読みが当たるとうれしいですね」
ゆっくりした口調で、淡々と言葉をつなぐ。試合でも冷静さを失わないのが、菅原さんの強みだ。
「いくら胃袋を物理的に大きくしても、誰もが大食いになれるわけじゃない。大食いって、精神的な部分が大きいんですよ。私は常にハングリーななかで育っているから、ぜいたくに育った今どきの人たちは、何年かかっても私には勝てないですよ。ハハハハ。育ちが違うから。全然、いばれないけどね(笑)」
大食い女王に輝いた2008年、菅原さんは夫と別居の末に離婚している。当時6歳だったひとり息子の慶君(15)はADHD(注意欠如・多動性障害)という発達障害で、ほかの子に乱暴する、迷子になるなどトラブルを引き起こしてばかりだった。
そんな苦労をみじんも感じさせず、圧倒的な実力で勝ち続けた菅原さん。
「強いんですね」
思わず漏らすと、菅原さんは即座に否定した。
「いや、弱いです。ちょっとしたことで、すぐに傷つくし、必要以上にへこむし。“私には絶対イヤなことを言わないで”と書いたプラカードを持っていたいくらい(笑)」
ていねいな受け答えに、まじめな人柄がにじむ。
いったい、どんな半生を経て、魔女と呼ばれるまでになったのか──。
どんぶりご飯でハングリーに育つ
菅原さんが生まれ育ったのは岩手県南部の水沢市(現・奥州市)。周囲は農家ばかりのなか、実家は2代続いて婿養子で、祖父は板金工、父は大工だった。
祖父母、両親、3歳下の弟の6人家族。なぜか家にはご飯茶碗がなく、みんなどんぶりでご飯を食べていた。
朝は具だくさんのみそ汁と漬物が定番。みそ汁にはだしを取った煮干しが丸ごと入っていた。煮干しも具のひとつだと思い、好きだったという菅原さん。みんなの分までもらって食べていた。
「出されたものを食え」
「余計なことは言うな」
両親から厳しく言われたのはこのふたつだ。
だからか、友人たちが「あれが食べたい、これは好き、これは嫌い」と話しているのを聞くと、何をわがまま言っているのと感じた。
ある日、小学校の友人の家に泊まりに行った。朝食に目玉焼きが出てきて驚くと、不思議がられた。
「“朝以外にいつ食べるの?”と(笑)。うちでは朝からおかずが出るなんて、そんなぜいたくはありえませんから。夜はおかずがあるけど量が少ないので、ご飯をたくさん食べるんです。
ああ、朝から鯨のステーキが出ることはありました。今思うと、いろいろ変でしたけど、大会でいっぱい食べられたのは、親の厳しい教育のおかげですね。何を食べても、“わー、美味しい”と感じられたので(笑)」
勉強では暗記が苦手だった。特に苦労したのは漢字だ。読書が好きで読むことはできたが、書けなかった。
「テスト前に100回は練習したけど、次の日になると忘れてしまう(笑)。例えば、冬という字は点々が2つあるけど、向きがわからなくなるんです。さぼってはいないのに、テストの点が悪いんですよ」
運動神経も悪く、ボールがうまく投げられない。発達障害の子どもは、調整する力が必要なボール投げが苦手なことが多く、菅原さんの息子も下手だという。
「私自身、たぶん何か失調していたんだと思うんですけど、発達障害なんて言葉も聞いたことがない時代だから、怒られてばっかり。あと、起立性低血圧で朝礼のたびに倒れて、それもイヤでした。本当に、何も楽しいことのない小学生時代でしたね」
中学に入ると風向きが変わる。幼いころから算盤を習っていたこともあり、数学は得意だった。学年が上がり数学嫌いな生徒が増えるにつれ、逆に菅原さんは数学の成績がぐんぐん上昇。クラスで1、2番になった。
部活は体操部に入った。当時は体操部とテニス部が人気を二分していた。’76年のモントリオール五輪で活躍した体操のコマネチ選手と、テニス漫画『エースをねらえ!』に憧れる女子が多かったのだ。
「苦手なことから逃げてはいけない。中学からの私は違う人になるんだ!」
そう意気込んで、あえて体操を選んだが──。
「跳馬とか平均台とか、運動神経抜群な人でないとできない感じで。結局、私は3年間何にもできなかったけど、柔軟性は鍛えられたので、よかったんじゃないですか」
高校では一転、新聞部に入部。高校の図書室にある文学全集を読破していった。三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介……。
読み方も独特だ。全20巻の全集なら、7、8巻目あたりの代表作から読む。
「どうすれば効率よく最後まで飽きずに読めるか、考えたんですね。何をするときもまず効率を考えるんです。大食いのときも、お肉ならこう切れば早いとか、どうすれば効率的に食べられるか、常に考えていますよ」
宮沢賢治や石川啄木は読まなかったのかと聞くと、「地元に住んでいると嫌いになるんです」と真顔で言う。
「岩手が誇るとか、さんざん聞かされてイヤになっているのに、小学生で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読まされて。よくわからなくて、ますます嫌いになりました。
それが、高校生になって素直に読んだら、すごく面白いなと(笑)。読んだのは童話だけですけど」
山形県立米沢女子短大に進み、公務員試験に合格。福島県に司書として採用された。5年働いてひとり暮らしに疲れてきたころ、祖母が死去。身体の弱い母が倒れたのを機に実家に戻り、眼鏡店の販売の仕事に就いた。
息子の異変、夫のモラハラ
結婚したのは’98年、35歳のときだ。知人に紹介された6歳上の夫は大手企業に勤める会社員。お互いに本が好きで、話が弾んだ。夫の転勤で青森県に転居。2002年に息子の慶君が生まれた。
何かおかしいと感じ始めたのは、ほかの子どもと触れ合うようになってからだ。
「ずっと笑顔のまま、よその子に近づいていって突き飛ばすんですよ。何かされた仕返しというわけでもなく、一方的に押し倒すから、周りの親にも言い訳しようがない。砂場に行けば、よその子に砂をかけるし。誰もいない公園を探して歩きました」
再び、転勤で盛岡市に来ると、広い公園が少なく、遊び場所にも困った。
スーパーに買い物に連れて行くと、すぐに脱走する。探すのをあきらめて、しばらく待っていると、どこからか悲鳴が聞こえてくる。走って行くと、人の輪の中心に慶君がいた。売り場に並んだ豚ひき肉のパックに指を突っ込んで、何のためらいもなく口に入れたこともある。
4歳のときに専門の病院を受診し、ADHDと診断された。医師に「薬を飲ませないと迷子になって死ぬかもしれませんよ」と言われ、5歳になる少し前から多動を抑える薬を飲ませ始めた。
「よく事情を知らない人に、“親がちゃんと見ていないから”とか言われるけど、それができないから病気なんです。人間って、自分が経験していないことは、わからないものなんだなと思いました」
それは夫も、例外ではなかった。一日じゅう一緒にいる母親と違って、調子のいいところだけ見て、障害ではないと言い張る。
「男親にとって息子は自分の分身だから、息子が発達障害だと言われると、自分を否定されたような気がして、傷つくんじゃないですか。絶対に認めなかったですね」
障害への無理解が離婚の原因かと思いきや、理由はもっと深刻だった。
モラルハラスメント、つまり言葉による精神的な暴力がひどかったそうだ。
「お姑さんですら止めるくらい、夫は1度、暴言を吐きだすと止まらなくなるんですね。突然、機嫌が悪くなるので、自分が何か怒らせるようなことを言ってしまったと思うわけですよ。本当はそうではなく、私が何を言っても気に入らないんだと、今ならわかるんですが」
盛岡市の無料相談に行くと弁護士に「モラハラの場合、離婚に時間がかかるから、まず別居して既成事実を作りなさい」と助言され、すぐに実行に移した。
「離婚しようと決めてからは全然、迷いもなく、われながら、やるときはやるなーと思いました」
ひとりで子育てするなら実家に戻ったほうが楽だよと友人にすすめられたが、慶君のために、病院や教育環境の整った盛岡市にとどまった。近くに障害児でも24時間預かってくれるNPO法人があり、たびたび助けてもらった。
◇ ◇ ◇
初めて大食いの大会に出たのは’06年。郷土料理のわんこそばを食べる大会に出て、15分で289杯食べて、あっさり準優勝した。
なぜ、いきなり大食いに挑んだのか。
もしかして、離婚や子育ての不安を紛らわすためだったのかと思ったが、「全く別です」と即答。しばらく考えて、こう答えた。
「岩手に住んでいても、わんこそばを食べたことない人って、結構多いんですよ。私もそのひとりですが、好奇心があったんです。もともとやったことがないことにチャレンジするのが好きなんですよ」
弟の及川喜之さん(51)によると、菅原さんは子どものころから、いろいろなことに興味を持っていたそうだ。
「姉はわりとマイブームが来る人なんです。小学生のころは、クッキーやパン作りにハマっていました。クッキーはちょっと生焼けな感じで全然、美味しいと思わなかったんですが(笑)、家にはオヤツらしいオヤツがなかったので、文句も言わずに食べてましたよ。
急にペットショップでシャム猫を買ってきたこともあります。お年玉とか貯めていたみたいですが、ビックリしましたよ。そんな突飛なことをするところは、家族の誰にも似てませんね」
大食いは「自分との戦い」
大食いを始めたきっかけは好奇心だが、どっぷりのめり込んだのは、また、別な理由があった。試合に向けて準備する段階で「人間の身体って、こうなっているのか」と発見することが楽しかった。
「お腹に余分な脂肪や腹筋があると胃が広がりにくいというので、試合前に44キロまで、7キロ体重を落としてみたこともあります。
胃が大きくなると満腹中枢がマヒするらしいんですよ。だから結局、大食いは満腹中枢をどこまで壊すかという戦いなんだと思います。私は同時に嘔吐(おう と)中枢もマヒするみたいで、気持ち悪くなることもないですね」
試合後、胃が痛くなることもないし、胃薬なども飲まない。1度だけ、2キロのハンバーグを食べた後、店の厚意で出された胃薬を飲んだら逆に気持ち悪くなり、2度と飲まないと決めた。
菅原さんと同時期にデビューした正司優子さん(43)は『元祖!大食い王決定戦』で’12年に優勝している。菅原さんが’08年から3連覇して殿堂入りし、大会に出る機会が減った後も、年に1度は会っており仲がいい。
「菅原さんが大食いの時代を変えたと言っても過言ではない。それくらいレベルを引き上げたと思います。私は特に練習はしないで大会中に胃を広げていくのですが、菅原さんは何でも一生懸命で突き詰めるまでやるんです。最初に出た大会で、彼女だけが途中で負けて落ちたんですが、私たちが海外ロケに行っている間に、すっごいトレーニングしたと聞きました」
試合の日程が決まると、菅原さんは1か月前から逆算して、準備を始める。
大根や白菜など、そのとき安い野菜を大量に調理して食べたり、ご飯の量を増やしたり。寒天を大量に作って食べたこともあるが、美味しくなかったと苦笑する。
いきなり大量に食べるのではなく、フルマラソンを目指して徐々に走る距離を延ばすように、少しずつ量を増やしていく。試合に臨む姿勢は、まるでアスリートのようだ。大食いは「自分との戦い」だと言い切る。
「もっとほかの出場者を見て争っている感じを出して」
テレビの収録中、スタッフに注意されたとき、菅原さんはこう返したそうだ。
「私は誰とも争ってません」
菅原さんは数字に信頼を置いているため、正確な分量ではなく“何杯食べた”といった曖昧さの残る記録が許せないこともあった。
「ステーキ何キロとか数字で量がわかるものはいいのですが、ラーメンなんかだと、盛りを軽くすれば何十杯だって食べられますよ。でも、見ている人にはわからないから、あの人は30何杯で新記録だとか言っているのを聞くと、ちょっとむなしくなりますね」
正司さんによると、菅原さんは自分の身体を張っていろいろ実践しているぶん、経験豊富で何を聞いても的確なアドバイスをしてくれるという。大会中に正司さんは手がつってケイレンが止まらなくなったことがある。待機している医師に冷やせと言われたが、おさまらない。菅原さんにメールで聞くと「たぶんカリウムが足りてないから、野菜ジュースを飲むといいよ」と返信が来て、飲むとすぐにおさまったそうだ。
大食いに対して、ストイックすぎるくらいストイックな菅原さんだが、普段は正反対。一緒にいると、天然さに笑わされてばかりだと、正司さんが教えてくれた。
「菅原さんは慶君が幼いころ、大会によく連れて来ていたんです。慶君はパッと迷子になるんですが、わりとすぐスタッフのところに戻ってくるんですよ。ところが、探しに行った菅原さんが迷子になって帰ってこなくて、今度はみんなで彼女を探したり(笑)。優勝して賞金をもらった後、帰りに何万円もなくしちゃったり。そういうオチが必ずあるんですよ」
パン屋になっても励みは数字
趣味でパンを焼き始めたのは10年以上前だ。ラーメン屋やスーパーなどで働きながら、パン作りの本を読んで独学した。とことん突き詰めるのは大食いのときと同じだ。このパンは好きだなと感じると、その本を書いた職人の店まで行き、実際に会って話したりもした。
小麦粉100に対して水を62など、すべての材料を計量していく作業は、数字が好きな菅原さんには楽しいひとときだ。粘土細工のように、いろいろな形を作っていくのも面白い。
焼いたパンを友人たちに配ると、「美味しい!」と好評だった。何年も続けていると「店を開いたら」と繰り返し言われるようになった。
近くに住む同じ年の友人、佐藤京子さん(仮名)も何度もすすめたひとりだ。
「店を開くなら、みんなで協力するよと話していたんですが、初代さんはずっと、“できない”と言っていました。それがある日、“もう工事に入ったから”と。あっという間に自分で進めて、本当にパン屋さんを開いてしまったので、すごい行動力だなと思いましたね」
自宅の一角に『カンパーニュ』をオープンしたのは、’16年12月。慶君に何かあってもすぐ様子を見ることができる。それも決断した理由のひとつだ。
慶君は小中と特別支援学級で学び、今春、高校に進学する。盛岡でも障害児教育に定評のある小学校で、人の顔を見て話すなど基本的なことから繰り返し学んだおかげで、できることが増えた。
今では買い物や銀行で両替もしてくれる。学校が休みの日は、ゴミ捨てや洗い物もしてくれる。
「普通の親からしたら、考えられないくらい望みが低いので、すごく成長したなと思います。だって、小5くらいまで妄想がひどくて、ひとりでトイレにも行けなかったんですよ。“ひとりで行って”“お母さんが一緒でないと怖い”と、延々と繰り返して、本当に疲れました。息子に言わせると、“僕が1伸びる間に、世間は10伸びる”と。知的障害はないので、いろいろわかっているんですね」
菅原さんは身長167センチと大柄だが、すでに慶君に抜かれた。一緒に美術展に行ったり、映画を見に行ったりするのが楽しみだ。
友人の佐藤さんによると一卵性親子と呼びたくなるくらい、仲がいいそうだ。
「この間、3人で遊びに行ったときも、慶君が初代さんの腕をキュッとつかんで、ちょっと甘えてから好きな場所に行くんですよ。もしかしたら慶君が大変なぶん、より深い絆があるのかなと思うし、2人を見ていると、ほのぼのした気持ちになりますね」
店を開ける火曜日から土曜日は、朝3時前に起床。前日夜に仕込みをしたパンを早朝から焼き始める。焼くのも売るのも菅原さんひとりだ。同じパンだけだと飽きられるので、新しいパン作りにもチャレンジしている。
お客は1日20~30人。大食い女王の店と知らずに買いに来て、リピーターになる人も多い。
週に1、2回は来るという女性客は山型食パンをまとめ買いしていた。
「どのパンも決して安くはないけど、満足度が高いので結果的に高くないんですよ。食パンにバターやジャムを塗るだけで、すごく美味しくて、夫や娘にもほかのパンはもう食べられないと言われます」
店名にもなっているカンパーニュを食べてみた。フランス語で田舎という意味のどっしりとしたパンだ。食べごたえがあり、かむほどに深い味わいがある。
菅原さんにこれからの夢を聞くと、特にないという。
「夢を持っても現実は変わらないので、目先のことしか考えられないですね。励みはやっぱり数字です。売り上げは自分に対する評価なので」
モットーは、決して手を抜かず、小さな努力を積み重ねていくこと。
控えめに笑う姿は、魔女というよりも、黙々と道を究める求道者のようだ。
取材・文/萩原絹代 撮影/坂本利幸
はぎわらきぬよ◎大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。