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 京都府舞鶴市で4日に行われた、「大相撲春巡業・舞鶴場所」の土俵上で多々見良三舞鶴市長が倒れ、救助にあたった女性に「土俵から降りてください」というアナウンスがあったことに、大きなバッシングが起こって相撲界はまた批判にさらされている。

 しかし、相撲ファンとしてちょっと言わせてください。

私は土俵に上がったことが何度もある

 まず、「土俵から降りてください」というアナウンスをしたのは、若い行司さんだったと新聞で読んだ。行司と聞くと、相撲ファンでない一般の方の頭に浮かぶのは、木村庄之助や式守伊之助の立派な姿だろうが、相撲ファンの私が「若い行司さん」と聞いて頭に浮かぶのは、行司格の一番下のほう、まだ10代~20歳ぐらいの幼い少年の姿だ。

 行司も力士のように中学を卒業すると相撲部屋に入り、そこで行司としての修業をして一つ一つ学んでいく。一定の研修を済ませれば16歳でも土俵にあがり、取組をさばく。

 さらに行司さんには土俵以外もたくさん仕事があり、場内アナウンスもその一つ。今回は地方巡業で起こったことで、もしや入門数年の若い行司さんが練習も兼ね、見習いとしてアナウンスを担当していたかもしれない。まだ色々なことに不慣れで、慌ててしまったのかもしれない。そんな想像もできる。

 例えば、あなたの会社の新入社員や入社2~3年目の若手が失敗をやらかし、外部の人に「お前のせいで人が死んだらどうする!」「お前が悪い!」「責任を果たせ!」とここまで責められたら、あなたはどう思うだろうか? 

 女性が土俵にあがったから塩を撒(ま)いた……という間違ったうわさも今回流布されたが、大きな声をあげる前に、もう少しリサーチしてから言っても遅くないのではないか。

 そして、この問題から波及して、相撲界で江戸時代から続いている「土俵の上は女人禁制」に、「時代遅れだ!」、「女性差別だ!」と大きな声が上がっている。

 それで、ふと思ったが、私(52歳、女)は土俵に上がったことが何度もある。あまつさえ、まわしを巻いて、塩を撒いて相撲を取ったことも。男性といっしょに土俵ですり足をしたり、ぶつかり稽古だってやった。相撲大会に参加し、私の通算成績は1勝1敗だ。

 もちろん私が相撲を取ったのは両国・国技館の土俵ではなく、区立体育館の土俵や神社の土俵だが、私が相撲を取った神社の土俵は故・千代の富士の故郷にあり、夏には九重部屋の稽古場となる所だ。恐らくその間は女人禁制となるだろう。

私は差別主義者ではありません

 またそれとは別に、私は何度か相撲部屋の千秋楽パーティーに参加したことがあるが、部屋によってパーティーは稽古場で行われ、そうすると普段は女人禁制である相撲部屋の土俵の上にブルーシートなどを敷き、そこで女性も男性もビール飲んでおつまみ食べて、やれやれお疲れ様でしたとねぎらいの会が催される。

 私は足の下に土俵を感じながらも「ちゃんこもう一杯どうですか?」などと会話してきた。

 何が言いたいか? つまり、土俵は女人禁制という伝統は、意外とそういうものだということ。そういう融通の利く、「まぁ、そうそう、そうだけどね、でもさ」というものだ。

 今回は突然のことに慌てているうちに周囲の観客から「女性が上がってもいいのか?」と声が上がって、そんな余裕がなくなってしまったんだろう。ちなみに、もちろんだが、「第二十一条 土俵は女人禁制」などと相撲協会が登記する定款に書いてあるわけではない。

 それなら、面倒くさい女人禁制などとっとと撤廃すればいいじゃないか? とおっしゃるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。

 それでも特に国技館は別だ、本場所は違うと、そこで相撲を取るチカラビトたちが頑(かたく)なに守ってきた文化だ。そんな性急に、乱暴に、撤廃しろと迫るのはどうか? もうちょっと他人が大切にする文化というのものへの敬意、そこまでなくても、思いやりがあっても良くないだろうか?

「ナニ言ってんだ? おまえは差別主義者か?」

 いえいえ、私は差別主義者ではありません。私がひたすらに強く願っているのは、とにかく今、この気運の中で急いで「女性も土俵に上がっていい」と明文化してほしくないということだ。今、性急にそれをやることを、絶対に避けてほしいとさえ願っている。

 なぜなら? 今回のこの騒動だってそうじゃないか。

 ネット社会を覆う強力な同調圧力。誰かが「こうだ!」と大きな声を上げたら、一気にそれが正義となって、「そうだそうだ!」と広がっていく。

 しかも不寛容で、何か落ち度を見つけると徹底的に叩く。完膚なきまでに叩きのめし、決して舞い戻れないほどにする。

簡単に相撲の文化・伝統を変えてほしくない

 さらに大相撲のような、スポーツなのか伝統芸能なのか、神事なのか、興行なのかよくわからない「あやふやなもの」は「排除します」の理論にどんどん進む。「二元化」が加速され、善か悪か、正しいか正しくないか、必要か不必要か。現代の概念とやらに当てはめて、そのどちらにも属せず、ふわふわとよく分からないものは駄目の烙印(らくいん)を押して、排除してしまう。

 そんな気運の中で、それに押される形で、相撲の文化、伝統を変えてほしくない。

 今、大声で怒ってる人たちの大半は普段、相撲を見ない人だろう。相撲の歴史も、どうやって相撲文化を人々が育んできたかも、何も知ろうともしないで(ファクト・チェックはどうなってるんですか?)、ただただ、この「女性は土俵に上がれない」という事象のみを取り上げ、「差別だ!」と怒りの鉄拳を振り上げ、廃止させようとしている。

 そんな流れの中で、大好きな相撲の文化が崩されていくのを、相撲ファンとして私は見たくない。同時に、そういう二元化の気運をさらに大きくしてしまうきっかけを、この相撲の女人禁制が作ってしまうことを恐れている。

 あやふやな分からないものはどんどん排除しよう、許せないものは徹底的に叩こう、間違いは正すのだ、絶対に! 大声で! 力ずくでも! 

 そういう事実を、ここで作ってほしくない。それはとても怖いことだ。

 それでも、いつか女人禁制が解かれるだろうと私は思う。その伝統の根底にあるのが女性が穢(けが)れとされた神道の思想や、江戸時代から相撲場では女人禁制だったというようなことだけなら、そういう流れになるだろう。

 1978年わんぱく相撲東京場所で、女の子が国技館での決勝大会に出場できなかったそうだが、例えば数年後、「あれ? 女の子が決勝大会に出てるよ!」とわんぱく相撲大会でみんなが驚く、ぐらいの感じならいいかもしれない。みんなが忘れた頃(みんなすぐ忘れるし)そうやって、自然に女の子が国技館の土俵で相撲を取っている。それなら歓迎したい。

 すでに八角理事長はたとえ国技館だろうがどこだろうが、緊急時には女性が土俵にあがるのは問題ないと言っている。今回のことは深くお詫びしている。今はそれで十分じゃないか? その後のことはもっとゆっくり時間をかけて話し合えばいいじゃないか? たとえば国技館にアンケートボックスを置いて、ファンがそれに思いを書いて投書していくとかはどうだろう? そうすれば、本当の相撲ファンの気持ちも分かるだろう。

 去年の秋から相撲は叩かれ続けている。それでも相撲は粛々と行われ、先場所は横綱・鶴竜が優勝した。昨年は長らく怪我に苦しみ、引退と言われていた彼の復活優勝にファンはみんな涙した。

「相撲なんてなくなれ!」「相撲なんてもう見ない!」「相撲ファンは頭おかしい!」と今回も極端な言葉がツイッター上に見受けられたが、そうした中でもコツコツ日々厳しい稽古に励む若者たちがいること、忘れてほしくない。


和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。