2016年4月14日の前震、そして16日の本震と27時間の間に震度7が2回、その後の余震が1年弱の間に4000回を超えた熊本地震。直接死50人、震災関連死は200人を超え、震災後のいわゆる「孤独死」も昨年末の時点で15人となった。
あれから2年─。再出発を切る人がいる一方で、今、新たに問題になっているのは、自力で生活再建をすることが難しい高齢の被災者たち、仮設住宅やみなし仮設で孤独感を抱えている単身者たちに、どうやって新たなコミュニティーをつくり、生きる意欲につなげるか、である。
希望が持てず昼間から酒に溺れる
昨年秋、『熊本県精神保健福祉センター』に寄せられたアルコール依存症の電話相談件数が地震前の3倍になったと、『熊本日日新聞』が報じた。精神保健福祉センターによれば、’15年度に50件だった相談が’16年度に149件、’17年度は約200件まで増加した。
相談の多くは家族や仮設を巡回する支援者たちからだ。以前から問題を抱えていた患者の深刻度が増したり、依存症寸前の人が仮設住宅に入った後で支援隊に発見されたりするケースがある。
「本来、つらい目にあったときは人に打ち明けて共有、発散するのがいいのですが、そうできない人たちもいる。震災では多くの人が心の傷を負っています。家も仕事も失った人が、ひとりで昼間から飲み続けることは十分にありうる」
震災後に設置された『熊本こころのケアセンター』センター長で精神科医の矢田部裕介さん(42)はそう話す。
矢田部さんは仮設住宅やみなし仮設で被災者の心の動きを見守り治療に当たってきた。
「依存症とまではいかなくても、“ハイリスク飲酒者”は被災地で確実に増えています」
飲酒量のコントロールができず、生活が立ちゆかなくなり、仕事も人間関係も損なうのが依存症だとすれば、仕事には行けるが、休みの日は昼から飲み続けてしまうのがハイリスク飲酒者。放置すれば当然、依存症に移行する危険性が高まる。
「震災後、人々の悩みの質も変わってきています。震災のあった’16年度は怖くて眠れない、ひとりだと不安、すぐに涙が出てくる、何にも考えられない、死にたいなど情緒的で生々しい話が多かった。
ただ、’17年度は生活再建、家族問題など現実的な悩みがほとんど。今は生活再建のめどが立つかどうかの最後の分かれ道なんです」。
希望が持てない人がますます酒に溺れても不思議ではなく、危機感が高まっている。
あと1年ほどの間に、仮設やみなし仮設に住む人たちは、災害公営住宅に移るのか、あるいは県内外にいる子どものもとで世話になるのか、身の振り方を決めなければならない。再スタートを切りたくても切れない人たちがたくさんいるのだ。
飲み過ぎて病気になってもかまわない
益城町に住んでいたものの、地震で全壊。すぐ隣の熊本市東区にあるみなし仮設(賃貸アパート)に住むようになった石井光廣さん(59)に出会った。
震災後、休日は部屋にこもってお酒ばかり飲んでいたところ、みなし仮設を訪問している『よか隊ネット熊本』の職員に発見され、矢田部さんの診察を受けるようになったという。
石井さんが益城町に移り住んだのは2度目の離婚をした5年ほど前。ひとり暮らしだったが、町内会に入るほど地域コミュニティーがしっかりしていたため、寂しさは感じなかった。
「仲よしのおばあちゃんもいて、助け合いながら暮らしてた。それが震災後はバラバラ。私は機械保全の仕事を派遣でやっていましたが、会社の一時閉鎖後しばらくは車中泊でした。
1か月半後、会社が再開したので、すぐにこのアパートを見つけて仕事に復帰した。でも、ここは誰が住んでいるか全くわからない。被災者もいるらしいけど、挨拶程度しかない。それで夜と休日の酒量が増えちゃった」
4リットルペットボトルに入ったウイスキー、焼酎、ビールなど手当たり次第に飲んでいた。休日は朝から酒だけを飲み続けていたという。
離婚後、幼い子どもたちと会えなくなり、被災してからも連絡がとれていない石井さんは自暴自棄になっていた。
「益城のアパートだったら、いつか子どもが訪ねて来てくれるかもしれないと希望も持っていた。でも、ここは知らない土地だから会いに来られない。
何のために生きてるんだろう、飲みすぎて病気になってもかまわない。オレなんか死んだっていいとさえ思っていた」
依存を予防する支援者らに救われて
だが、『よか隊ネット熊本』の職員たちに出会い、徐々に気持ちが変化した。矢田部さんは「お酒が好きならやめなくていい」と言う。それが新鮮だった。
熊本県では被災後「お酒も健康もあきらめない」というキャッチフレーズで、断酒より節酒を推奨し、依存予備軍に寄り添う支援を続けている。
石井さんは、「まず酒量をきちんと測るように」とアドバイスを受けた。現在はきっちり記録を残し、落ち込むと酒量が増えることも自覚した。
「書き込むことで少しずつ量が落ち着いてきた。ちゃんと食べながら飲んでいるしね」
この日は鰯のガーリックソテー、肉と野菜の炒め物、厚揚げと里いもの煮物など。「料理は好きだ」というだけあって、自作の料理はどれも美味しそうだった。
ただ、「今でも休日は、つい昼間から飲んじゃうんだよね」と石井さんは人懐こい笑顔を見せる。
酒量を制限しつつ仕事もし、普通の生活を送っているように見えるが、先のことを考えると、石井さんの心は揺らぐ。真夜中、不安と孤独に苛まれ、自殺予防支援の窓口『いのちの電話』にかけたこともあるそうだ。
みなし仮設を中心に支援を続ける『よか隊ネット』事務局長の土黒功司さんは、石井さんがかつて趣味でペーパークラフトを作っていたことを知り、再開するようすすめた。今も部屋にはサグラダファミリアや熊本城の見事な作品が飾ってある。
「みなし仮設は人とのつながりがどうしても希薄になるので、みなしに住む人たちの交流会を開くことにしました。石井さんにもペーパークラフトを出品してもらって」(土黒さん)
今年2月の交流会では、半年かけて作ったバイクを出品。みんなに見てもらい、うれしかったと石井さんは言う。
「目標があるとお酒を控える。このバイクを作らなければいけないと思えば、頑張るから」
本当はもっと人の役に立ちたい、と彼はつぶやいた。それが「生きる意味」なのかもしれないと─。
石井さんはあと1年、みなし仮設で暮らす。その後は災害公営住宅に移る予定だが、どの地域になるかは、まだわからない。
「今も週に1度は益城に買い物に行ってるんです。なじみの顔を見るとホッとする。できれば、また益城に住んで、あのころの人間関係を取り戻したい」
町を出て行く人もいれば、家を再建して戻る人もいる。そして自分の行く末がどうなるか、わからない人もいる。
仮設住宅暮らしの苦悩
空港から車で10分。県内でもっとも大きな『テクノ仮設団地』がある。ピーク時には516世帯が入居していたが、今は415世帯に減った。112世帯が独居で、そのうち65歳以上の高齢者は67世帯である。
平日の午前中、敷地内を歩くと、ひっそり静まりかえっていた。ひと組の高齢者夫婦が互いを支え合うように外をゆっくり散歩しているだけだ。
この仮設を一昨年7月から見守ってきたのは、訪問ボランティアナースの会『キャンナス熊本』だ。代表の山本智恵子さんは、2年弱で被災者たちの気持ちが変化してきたと話す。
「最初は地震のショックが抜けず、不安と悲しみに暮れる方がほとんどでした。失ったものの大きさに茫然自失という状態。
もともと一戸建てに住んでいた方が多いので、集合住宅に住むこと自体に抵抗があったようで“隣の生活音が気になる”との不満も出てきました。
ただ、壁が薄いのはどうしようもないので、少しすると住居への不満はおさまってきました」
そうなると、次に神経質になるのは人間関係である。
「それぞれ地域の付き合いが強かった人たちが寄せ集まっているので、顔も知らない人との人間関係を一から構築するのは非常に難しいんです」
この仮設は6ブロックに分かれ、それぞれに集会所が設けられているのだが、そこをどう使うかで揉め、派閥のようなものができ始めた。いつも同じグループが集会所を使っているのは不公平だ、というように。
自力で住居を再建して仮設を出ていく人が増えると、残った人たちの間で焦燥感も募る。その苛立ちが人間関係を悪化させることもある。しかし、お互いに譲り合ってやっていくしかないとみんなが気づき始めたのが、ここ半年くらいの状況だ。
「もうじき2年になりますが、今はここにあと1年住めることになった人がほとんど。ただ、今後、災害公営住宅を待つ人たちは、どこに入れるか、でまた不安になるでしょうね」(山本さん)
仮設住宅の中にある『地域支え合いセンター』に常駐している山本さんでさえ、住民たちの経済状況にまでは踏み込めない。
相談されれば行政や福祉の窓口につなげることはできるのだが、中には「年金もなさそうだし、経済的にどうやって暮らしているのだろうか」と心配になる住民もいるという。
山本さんたちは、「とにかく孤独死を出さないこと」を心がけてきた。
「特に高齢の男性は外に出てこないんです。そこで私たちは『バー・キャンナス』を月に1度開催してきました。男性限定の飲み会です。
飲みたいものを持参してもらって、私たちが料理を作る。ごはんだけ食べに来るのもOK。そこで顔見知りができて、ようやく外に出てくれるようになった人もいます」
つらいこともあった。仮設に住むようになってから、がんが見つかったひとり住まいの人がいたのだ。最後は緩和ケアの病院に入って、亡くなった。
「ずっと寄り添ってきたので、亡くなったときは胸が締めつけられる思いで……。でも、“あなたたちがいなければ孤独死したかもしれないよ”と言ってくれる方がいて、なんとかまた前を向くことができました」(山本さん)
「仮設に戻りたい」という声が多数
再来年の春には災害公営住宅もすべて完成する見込みだが、そこからが新たなスタートだと、支援者らは口をそろえる。
東日本大震災後、何度か視察に行っている『精神保健福祉センター』の保健師・宮本靖子さんは次のように言う。
「宮城県の南三陸町では仮設住宅にいた人たちがそっくり公営住宅に移っています。さらに、そこに一般のご家族も入居しているので、コミュニティーができやすいうえに活気がある。
子どもたちの声が聞こえる集合住宅はいいものです。熊本では、どんな災害公営住宅ができるのか、新しいコミュニティーの支援を続けていかなければいけないと思っています」
阪神・淡路大震災後の災害公営住宅の中には、現在、高齢者ばかりになり介護施設と連携せざるをえないところもある。先まで見据えて公営住宅を設置していく必要がある。
災害公営住宅は壁も厚く仮設に比べて格段にプライバシーは保たれる。同時に仮設では意識的に設けられた集会所や憩いの場がなくなり、支援者らもその段階から見守りができなくなる危険性もある。
「実際、東北では“仮設に戻りたい”という人が増えています。仮設は壁が薄くてうるさいと思っていたけど、人の気配がない災害公営住宅は孤独感が募るようです」
宮本さんはそう言う。
大災害からまだ2年。復興も心の治癒も道半ばだ。どうしたら孤独や孤立を深めずにすむのか。これは決して熊本だけの問題ではない。
「『こころのケアセンター』も、災害公営住宅が完成すれば、いずれ閉鎖ということになるかもしれない。でも私たちは支援を続けていきたいと思っています。現実的には災害公営住宅に移ってからが生活再建のスタートですから」(矢田部さん)
取材・文/亀山早苗
1960年、東京都生まれ。女の生き方をテーマに幅広くノンフィクションを執筆。熊本県のキャラクター「くまモン」に魅せられ、関連書籍を出版。震災後も20回熊本に通い、取材を続ける。著書に『日本一赤ちゃんが産まれる病院 熊本・わさもん医師の「改革」のヒミツ』