「子どもの顔をじっくり見ることもできなかった」
小学校を卒業したばかりの娘を連れて、福島県南相馬市から県外へ避難した母親は、福島第一原発事故が起きたあの日をそう振り返る。原発が次々と爆発する中、3日分の着替えを持って飛び出した。
しかし、当分帰れないと知り、あわてて避難先の近くにある中学校へ入学手続きをした。見知らぬ土地で、無我夢中で学用品をそろえた。
入学式の日、体育館に入場する娘の怯えた顔を見て、初めて気がつく。
「ああ、この子はこんなに不安だったのか」
涙があふれた。その瞬間まで、娘のことを考える余裕がなかったのだ。
あれから7年。原発事故を経験した子どもたちは、どんな状況のなかで、何を考え過ごしてきたのだろうか。
癒えぬ子どもたちの心の傷
浪江町から避難した岡野唯さん(以下、体験談はすべて仮名)は現在、21歳。原発事故のあと、「大人は汚い」と思うようになった。
'12年3月、避難前にいた中学校(仮校舎・二本松市)の卒業式に参加できることになり、遠く離れた友達と会いたい一心で避難先の埼玉県から駆けつけた。
ところが、県外避難した生徒に用意されたのは「保護者席」。旧友とのきずなをつなぐ場を期待して参列したと話し、席を同じにしてほしいと伝えると、対応した教育長が言った。
「私は“きずな”なんて言いましたか?」
そのひと言が忘れられないという。避難先の学校では、履修内容がずれて、学びそびれた授業もある。修学旅行にも行けなかった。福島県は中3、避難先では中2で計画されていたからだ。
その狭間で起きた原発避難。卒業文集を作成するとき、教師は「岡野は修学旅行にいなかったね」と、みんなの前で笑った。
原発事故をめぐっては、避難した子どもたちのいじめ被害も取りざたされた。
福島から新潟県へ避難した飯島七海さん(14)は、「逃げるごっこ」と称したいじめにあい、不登校になった。作文に「いじめられている」と書いて訴えると、先生は「B」と評価を返しただけ。
『原発避難いじめ』のニュースが盛んだったころ、飯島さんはテレビ報道をタブレットで撮影し、母親に見せて叫ぶように言った。
「ねえ、私も同じことをされている。どうして誰も私のことを言ってくれないの?」
いじめの存在を無視され、大人たちに心を閉ざしていく飯島さん。かつて活発で明るかった少女は、「戻れるんなら戻りたい」と、つぶやいた。
原発事故のことは口にできない
斎藤翔太くん(13)も避難後、いじめられるのでは、と不安な日々を過ごしたひとり。そのため、昨年入学した中学校では、福島から来たことを周囲に話していない。
「いつか地元に帰って、ひとりで山の中で暮らしたいなぁ」
自然豊かな庭で、穴を掘る遊びが大好きだった。
「悪いのは、事故を起こした人だけじゃないと思う。(みんなが)考えてこなかったのだし……」
胸の内を話しづらいのは、関西在住の土屋玲奈さん(19)も一緒。震災当時、福島県中通りの中学生だった。避難して、仕事を続ける父親と離れて暮らすことになり毎日、泣いて過ごした。
「原発事故のことは、SNSでは発信できるけれど、普段は聞かれなければ言わない」
放射線の影響を心配していても、口に出しにくい。
「これは私のように避難している人も、できなかった人も、しないと選んだ人も、福島に帰った人も同じだと思う」
土屋さんは原発事故をきっかけに、ほかの社会問題にも関心を持つようになった。
おかしいと思うことに異議を唱えたら、叩かれる。こんな世の中で大丈夫なのかな? まっすぐにそう問いかける。
「避難って言うと、周りは、地震と津波のせいだと思うんです。原発事故にはピンとこないみたい」
とは、いわき市から京都に避難した紺野美月さん(18)。両親は事故後、すれ違いから離婚した。
紺野さんは、「理解してくれない」という言葉を取材中に4度使った。放射能汚染の危険性についてだ。
「きちんと対応してくれれば、みんなが守られるはずだった」
そう言って、福島で暮らす友人にも思いを馳せる。
いまや8割が事故に無関心
一方、福島県内の子どもたちはどうか。
佐藤詩織さん(22)は、3・11が中学校の卒業式だった。
「事故のあと、東京の人は他人事なんだろうな、大人って嫌だなって考えていました」
放射能汚染を「怖い」と思う反面、「そう思わないようにしなきゃ」「高校生活を楽しみたい」と、友達と事故の話をすることはなかった。しかし高校時代、ひとりの先生が甲状腺がんの手術をしたことで、「もし事故の影響だったら」と考え、胸を痛めた。
子どもたちの間で、原発事故への風化が進んでいるという指摘もある。
「県内では、いまや8割が原発事故に無関心ではないか」
と高校教諭の鈴木幸三さん(50)。鈴木さんには許せなかったことがある。
「高校生を廃炉作業中の原発に、視察に連れていった人がいたでしょう。しかも普通の服で。ありえない。私なら、せめて防護服を着させます。正義感が強い子どもたちを悪用している」
この様子は、'16年11月にNHKで放送された。
「われわれ教師には、文科省の放射線教育の副読本から逸脱するなと通達がありました。危険と言ってはいけないという趣旨。そんな空気では、素直な気持ちを出しにくい」
別の高校で教える、渡辺大輔教諭(50代)が続ける。
「いまの高校生は事故当時、まだ小学生。子どもに過剰な不安を与えないように、大人は事故について語ってこなかった面もある。そのため原発事故を外国の話のようにとらえている子どももいる。原発事故という歴史的事実の中にいるのに、子どもの風化は年々、深刻に進んでいます」
渡辺さんが顧問を務める演劇部では今年、原発事故を題材にした劇を演じた。生徒たちは、実感が湧かない事故を必死に学び直したという。
「生徒を見て思ったんです。なぜこの子たちだけが、プレッシャーを感じながら学び直す作業をしなくちゃいけないのか。原発事故は福島県だけの問題じゃないんだから、全国でやりましょうよってね」
モニタリングポスト撤去への違和感
そんな中、福島県内の空間放射線量を測定している放射線監視装置(モニタリングポスト)について、原子力規制委員会は3月20日、原発事故で避難指示が出た12市町村外にある約2400台を'21年3月末までに順次、撤去する方針を決めた。線量が低く安定して推移していることを理由としている。
前出・佐藤さんは、モニタリングポストの撤去を「気持ち悪い」と表現した。違和感がぬぐえないからだ。
郡山市の菅野さくらさん(20代)は、撤去発表の日付まで覚えていた。
「お彼岸の日だった。ポッと出てきた国の政策に怒ったり悲しんだりすることが、いつの間にか当たり前になっている。つらいし、疲れた」
本宮市の高橋治夫さん(80代)は、「ありえない。モニタリングポストがあると、何か問題なのか」と話す。郡山市の中本利恵さん(50)も、「“事故を忘れろ”ってことなのか。お金をかけて設置したのに」と憤りを隠さない。
原発事故は現在進行形と指摘するのは、いわき市の小林彩子さん(40)だ。
「もし撤去されたら、いちばん近い放射線量計は5キロ先。原発に何かあったとき、わざわざ5キロ先まで確認しに行けというのでしょうか」
前出の鈴木さんは「モニタリングポストは、数値に変化がないことを祈りつつ、そこにあってほしい“お守り”なんですよ」と心情を語り、
「撤去しないで、PM2・5をはじめ大気中の汚染物質も同時に監視できるシステムにして、あらためて測定数値に関心を持つ機会にしたらどうか」と提案する。
募る国や自治体への不信感
特筆すべきは自治体の反応である。原子力規制庁は昨年12月、福島県内市町村へ意見照会を実施したが、その回答の多くは否定的、懐疑的だ。
「撤去は、現在も地中や敷地内に置かれている汚染土とともに生活する市民にとって、多大な不安材料となることは確実」(福島市)
「国の震災対応に対する住民の不信感を助長する」(二本松市)
撤去を危惧する住民たちは立ち上がり、県内各地のメンバーで構成される「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」を設立。今月16日、原子力規制委員会委員長更田豊志氏あてに「モニタリングポストの継続配置を求める要請書」を提出した。
《撤去は、住民に判断決定の権利を持たせてほしい》《廃炉作業終了まで「知る権利」として継続してほしい》《この問題を隅々まで周知徹底してほしい》といった内容だ。
共同代表の千葉由美さん(いわき市=48)は言う。
「撤去を疑問に思う住民とともに、国や自治体に、丁寧に配置継続を訴えたい」
震災から7年がたち、原発事故に関する報道量は大幅に減った。一方で国は、例えば避難解除を進めることで避難者の存在を覆い隠したように、被害を矮小化して、原発事故の実態や影響を見えないようにしてきた。
この欺瞞に傷ついた子どもたちがいる。孤立感を深める大人たちもいる。そうした人々の声に誰もが耳を傾けるべきだろう。
〈取材・文/吉田千亜〉
フリーライター、編集者。東日本大震災後、福島第一原発事故による放射能汚染と向き合う被害者への取材を精力的に続けている。近著に『ルポ 母子避難』(岩波書店)