東京電力・福島第一原発の事故で、20キロ圏内は警戒区域で立ち入りが制限され、避難指示が出された。しかし、徐々に避難指示が解除され、再編が進んでいる旧警戒区域内の街を歩いた。
「心の故郷」が帰還困難区域に
福島県富岡町夜ノ森の桜並木。地元の人たちにとって「心の故郷」だ。今年は温暖で開花が早い。ただ、原発から南に7キロ付近で、JR夜ノ森駅周辺は帰還困難区域。
立ち入りが制限されている。付近の線量計は毎時0・55マイクロシーベルトと表示されているが、気にとめる人はいない。
町では避難指示が一部解除されて1年がたつ。4月1日現在の居住者は574人。住民登録する1万3192人のうち4%だ。町では震災後、小中学校を三春町内に開校した。4月には富岡町内でも7年ぶりに再開、17人が学ぶ。三春校を含めると39人だ。
4歳の娘を連れて、桜を見にきていた20代の女性は富岡町の出身だが、現在は原発から約25キロ離れた南相馬市原町区に住む。震災後に結婚し、子育てをしている。
毎年のように見に来ていたが、震災後は初めて。娘は桜並木に興奮し、「きれい」と何度も口にして跳びはねていた。
「子どもは幼稚園に通っていて友達が多い。町には子どもが少ないので戻るつもりはありません。仕事も見つからないでしょうし」
いわき市に家を建てた男性(40代)は「町には全国にも誇れる桜があります。年に1度は家族で見に行き、町で過ごした大切な日々を思い出すことも大事」と話す。
震災後、一時は3人の子どもを妻の出身地・岡山県に避難させていたが、現在は一緒に過ごす。長女は4月から高校へ進学した。
「帰還にはもう興味がありません。いわき市での生活基盤も整い、いまの暮らしに不満はない。生活を楽しみながら仕事に精を出して、前に進んでいくだけです」
富岡町からいわき市に避難した40代の女性は、ライトアップされている夜桜を見るのが毎年の楽しみだが、今年は見られなかった。中学3年生になる娘は地域になじめなかったためか、中1まで、あまり友達がいなかったという。
「新しい学校になじめず、お風呂で泣いていたときもありました。でも、いまはやっと笑えるようになりました。少なくとも娘が高校を卒業するまでは帰らないですね」
女性も、娘と同じように地域になじめないが、再開した町の学校の子どもが少ないためもあり、戻らない。
桜並木の近くにあった自宅は現在、夫の知人に無料で貸している。避難中に庭に生えた草木を、チェーンソーを使うなどして家族で切った。
「家を建てて3年で事故がありました。解体はもったいない。維持管理をしてくれるだけでもありがたい」
娘が高校を卒業したら町に戻るのだろうか。
「帰るとすれば、小さいころに過ごした浪江町がいい。しかし、実家は帰還困難区域ですので、いつ戻れるようになるのかわかりません」
人口不足で店の採算がとれない
原発から北に約8キロ付近にあるJR浪江駅は昨年4月に再開した。町の一部は昨年3月末、避難指示が解除されたが、山側は帰還困難区域で戻れない。居住者は516人(2月末現在)。住民登録は1万7896人で、帰還率は3%という状況だ。
駅から数分の距離にある新聞販売店「鈴木新聞舗」の鈴木裕次郎さん(34)は「廃業を考えて、郡山市で避難生活をしていたときに介護の勉強をしていましたが、“新聞もない町に帰りたくない”との声があると町職員から聞きました」と、再開した理由を話す。
しかし、戻ってきた人が少なく、採算がとれない。
「新聞購読率が高い地域ですから、1年もたてば採算がとれると思っていましたが、予測がくつがえされました」
気合を入れ、販売店を再開した鈴木さんは新聞広告折り込み機も新しく購入した。人手不足でも効率よく挟める。しかし折り込み広告が少なく、1日平均3枚。誤算だった。
震災前はアルバイトを含め従業員は30人だったが、いまは2人。隣接する南相馬市小高区の販売店が廃業したため、同区での配布も引き継いでいる。そのため配達範囲が広く、時間がかかる。
「アルバイトが集まらない。人の取り合いで、経営が難しいですね」
震災から7年もたてば、避難先でそれぞれの生活が始まっている。実は、鈴木さんも妻と9か月の子どもと南相馬市原町区に住んでいる。
「子どもがまだ小さい。急に熱を出しますので、病院がないと生活が難しいですね。町はインフラがまだ整っていませんし、スーパーもありません。戻るかは迷いますね」
確かに子どもたちはほとんど戻っていない。町では4月、なみえ創成小中学校が開校した。新入生を合わせて小学生は8人。中学生は2人だ。
「配達や集金のときに、密に接することができますし、配達はパトロールにもなります。お客さん同士の情報のかけ橋になりたいです。復興の役に立てればいいですね」
人が住める街になってほしい
町に戻るしか選択肢がなかったという人もいる。行政区長会長を務める佐藤秀三さん(73)は、町役場が避難するたびに同じ場所に移動してきた。そこで自治会を立ち上げることもあった。
避難先でも、いつか町に戻ろうと思い、震災翌年に開かれた復興祭でも、「町に愛着を持ち続けてください」と挨拶していた。山も川も海もある豊かな自然環境。雪がほとんど降らない温暖な気候。
さらには小さいころに遊んだ記憶が、佐藤さんの「町に戻る」という意思を支えた。
最大の悩みは、原発事故で避難を経験した人に共通だが、放射線被ばくのリスクだ。
佐藤さんは「小さい子どもがいたり、妊娠していたり、これから子どもをつくる世代は心配だと思う」と言いつつも「リスクのとらえ方はそれぞれ違う。戻ってくるなら納得してからきてほしい」と話す。
区長としては、これまで住民のつながりを維持しようと手紙を出したりしている。
「中心市街地の住民からはなかなか返事が戻ってこないですが、農村地域は(共同作業をする)“結い”が残っており、集まりやすい。震災後、勉強会を開いたりしました」
若い世代を中心に新しい住民が根づくことも期待する。
「県外から、大学生など若い人たちがボランティア活動に来ている。浪江に関わりたいという人もいて、実際に、仕事に就いています」
佐藤さんの願いは「町に人が住めるようになること、立ち寄れるようになること」と話す。避難が解除になったら戻りなさいというのではない。放射線量が下がることだけでなく、インフラなどの整備と医療の充実が不可欠だ。
一方、同原発が立地する双葉町は'22年春、一部が「特定復興再生拠点」となり、避難指示が解除される予定だ。
夜ノ森で桜の写真を撮っていた40代の女性は、双葉町出身。「震災前から毎年見に来ていたけど、やっぱり、この桜はいちばんいいね」と、つぶやいた。
富岡町で仕事をして社宅もあるが、「(富岡町には)知らない人ばかり。夜が不安」と、避難先の栃木県から2時間半かけて通う。
「震災前と同じように普通に暮らしたい。戻れるのはいつになるのでしょうね」
賠償金をもらうとねたまれる
震災のとき、「原子力 明るい未来の エネルギー」と書かれた看板が話題となったが、現在は撤去された。標語を考えたのは大沼勇治さん(41)。小さいころは近所の川で遊び、消防署の人と一緒にサッカーもした。夜ノ森に桜を見にいったことも覚えている。
そんな小学生時代に作った標語が看板となり、「看板は死んでも残る。爪痕を残せたと思った」と振り返る。
震災までは不動産業を営み、東電関係者に物件を貸していた大沼さん。SNSで知り合った女性と'10年3月に結婚した。
「標語は結婚のとき、親類にも話しました。“原発は倒産しない。娘さんが苦しむことはありません”という意味でした。しかし、今では気まずさがあります」
事故後はいったん、妻の実家がある会津に避難。それから愛知県へ行った。現在は茨城県古河市に住み、太陽光発電の仕事をする。
「双葉町役場は埼玉県加須市に避難していたので、近くの地域で探しました。将来的には、温暖で便利な福島県いわき市に住むことも考えていますが、いまは土地が高騰して買えません」
福島に戻らないのは、別の理由もある。
「賠償金をもらっていることでねたみもあるのか、攻撃が被災者に向けられることがあります。同じ県内でも仮設住宅に嫌がらせの手紙が届いたと聞きました。県内こそ、嫌みを言われるかもしれない」
原発事故は、町も人間関係も、未来も破壊した。福島県とほかの地域で、また県内でも分断され、疑心暗鬼も蔓延させた。地域の再生も目指すが道なかばだ。
安心して暮らしたい。誰もが望む願いを原発はかなえるのか、壊すのか、3・11を教訓にあらためて考えるときだ。
〈取材・文/渋井哲也〉
ジャーナリスト。栃木県生まれ。長野日報を経てフリー。震災直後から被災地を訪れ取材を重ねている。近著に『復興なんて、してません』(第三書館・共著)