「親に捨ててもらえて本当によかったです」
ドキリとする言葉だった。私市奈央さん、39歳。
その快活な表情からは想像もつかないが、かつて彼女は「地獄のような」重度の摂食障害を患った。
「生きていてごめんなさい」
初めて拒食の症状が出たのは14歳のとき。やがてそれは過食嘔吐に転じ、体重は25キロを切るまでにやせ衰え、もはや瀕死の状態にまで陥った。
「私は、何のために生まれてきたのだろう。私がこの世に生きていることを誰が喜ぶのだろう。生まれてきてごめんなさい。生きていてごめんなさい。死にたい、死にたい、死にたい。消えたい、消えたい、消えたい。私の心はいつもそう叫んでいました」
19歳のとき、書店で『完全自殺マニュアル』という本を購入し、お酒と大量の薬を飲むが嘔吐して未遂に終わる。25歳のとき、2度目の自殺を試みる。
「死ぬ前に、自分が生きていた証拠をすべて抹消しようと中学生以降の自分の写真を焼き、20歳の振り袖姿の写真は顔の部分をライターで焼きました。好きだったCDも小説もすべて処分しました」
そして自分の部屋で首をつったが、くしくも自らの重さで紐が切れて失敗する。
「私は死ぬこともできない。私にはもう何もなくなったと思いました」
絶望の中で、それから365日、起きている時間のすべてを食べ物に支配され、大量に食べては吐くことを繰り返す、過食嘔吐だけの生活が5年間も続いた。
その狂気の地獄の淵から、やせ細った彼女の腕を引き上げてくれたものは何だったのか。そのとき親は?
そして、彼女の人生をこんなにも蝕んだ悪魔のような摂食障害。その正体とは─。
昨年の12月25日、奈央さんは国家試験の中でも最難関といわれる税理士試験に合格し、この春には初の就職先も決まった。かつての彼女を思えば奇跡としか言いようがない回復の道のり。その最初の一歩に親子の断絶があった。
父親は「奈央が帰ってきたら私が殺すかも」
何の因果か、彼女が父親から「絶対に帰ってくるな」という絶縁の言葉を突きつけられたのも、ちょうど9年前の’08年12月25日。
その前に「奈央が帰ってきたら私が殺すかもしれない。治らないまま死んでも文句は言いません。最後まで置いてやってください」と施設に話していたことも聞いていた。
当時、29歳。以来、現在で丸10年となる、摂食障害からの回復施設『なのはなファミリー』に奈央さんを訪ねた。
岡山県勝田郡勝央町。緑豊かな山々と、のどかな田園風景に囲まれた小高い丘の上に、その施設はあった。
廃校となった小学校を譲り受けたという木造の建物は、素朴な愛らしい趣がある。案内されたのは、かつては保健室だった場所を畳敷きにした応接室だった。
対面した奈央さんは、メガネの奥の利発そうな瞳でしっかりとこちらを見据えて話し始めた。“現代の病”ともいうべき摂食障害。その始まりは、思春期の女の子にはよくあるダイエットだった。
「第1志望の東京都立青山高校に合格したとき、このチャンスこそが人生の転機になる、と思いました。ピアスをあけて制服のおしゃれを楽しみ、アルバイトや部活もして、放課後は青山や渋谷を歩いて……。そのためには絶対にやせないと変われないと思いました」
当時、身長154センチメートルで体重43~44キロ。油ものを控えてお菓子をやめると、一気に体重が減り、制服の採寸のときに細くなっているのを実感した。
「このままやせれば本当に人生が一変するかもしれない」
ダイエットはさらに加速し入学後、初めての体重測定では20キロ台まで落ちていた。
「客観的に見たら、ミイラですよね。それでも、自分では高校生活を楽しんでいるように錯覚していました。朝はゆでたキャベツを食べて、自宅から最寄りの駅まで3キロほどの道のりを教科書が入った重いリュックを背負い走る。
部活はバドミントン部に入って筋トレやランニングに精を出しました。最小限のカロリーで最大限の消費をすることが最重要。精神状態は完全におかしくなっていました」
食卓でも、少しでもカロリーの高いものが皿にのると、母親を口汚く罵倒した。
「なぜ私だけ太らせようとするんだ。おまえが食べろ!」
そんな彼女を母親は大学病院の精神科に連れて行こうとしたが、奈央さんは絶対に病気と認めようとしなかった。
「だって、私は学校に行って動いてカロリーを消費しなければならなかったから」
いつだって強烈な不安感に襲われていた
それほどまでに「変えたい」と切望した奈央さんの人生は、幼いころからずっと「違和感」でしかなかった。
「ここではないどこかに、自分が自分らしく、何の陰りもなくイキイキと生きられる場所があるはずだ、とずっと思ってきたんです」
1979年、東京都狛江市で生まれた奈央さんは、大学教員の父と専業主婦の母、1歳上の兄という4人家族のもとで育った。
「小さいころの私は極度の人見知りで、母親にしか懐かない子でした。近所の子はもちろん、いとことも遊べなくて。ひとりで家にいて絵を描いたり、物語を作ったり。想像の世界にいるのが楽しかったんです。そこでは、たくさんの人に囲まれて好かれている自分をイメージしていました」
その幼い心にいつもあったのは、強烈な不安感だった。
「うちの母親には宗教という強く信じるものがあり、それを父親が受け入れていない、という不穏な気配をいつも家庭の中に感じていました。その対立がいつ大きな亀裂になって大ゲンカになるか。子ども心に不安で悲しくて。
私はお父さんもお母さんも好きだけど、どっちの味方でいたらいいんだろう? お父さんの味方をしたら、お母さんは悲しむかな? って」
また、自分の家族が地域から浮いているのを肌で感じて、いつも家族のことが心配でたまらなかった。
「お母さんには友達がいなくて、ひとりぼっちなんじゃないか。お父さんの味方は私しかいないんじゃないか。お兄ちゃんは学校でいじめられていないか。いつか家族がバラバラになって、世間からも見放されてしまうのではないか。
私にとって家庭は、子どもらしく無防備に安心できる場所ではなかったんです。そして、そんな家族の幸せをつないでいるのは自分だ、と感じていました。親が喜ぶような子どもでいれば親を悲しませることはないだろうと」
母の幸せが私の幸せ……?
だから、小学校でいじめにあったときも、親には絶対に悟られてはならなかった。
「今は、いじめられる側には絶対に非はないと言えますが、当時はいじめられるのは恥ずかしいことで、親をガッカリさせると思ったんです」
グループの中だけで無視され、机も少しだけ離される。担任の教師に気づかれないような、そんな女子の陰湿ないじめが半年以上も続いたが、たったひとりで我慢し、ときには誰もいない教室でワーッと声をあげて泣いた。
「嘘でも母親にはうまくやっていると話して、頑張って委員長をやってみたり。中学生になると、おどけて笑わせるキャラクターになって教室に居場所を作ろうとしました」
つねに母親が求める娘であろうとしていたために、それが奈央さん自身の幸せであるように無意識に洗脳されていった。
「洋服の趣味も好きなものも同じで、“似たもの親子だよね”と母も喜んでいました」
高校受験で志望校を決めたときも、「たまたま母と同じ夢を持っていた、と思い込んでいた」と彼女は言う。
「私の母は今、70歳ぐらいなんですが、小さいときに両親が離婚して母子家庭で育っているんです。当時は世間の偏見もあり、経済面でも難しくて。親が仕事に行っている間に妹の面倒を見て家事をして、志望する高校にも行けなかった。
高校を出たらすぐに仕事をして、いろんなことをあきらめてきた人生だったんだろうなって。だから、“こういうことをやりたかった”と、よく私に言っていたんです」
青山高校で素敵な高校生活を送ること。それは母が憧れ続けていた夢の投影そのものだった。しかし、奈央さんの心は軋みはじめる。
長い間、抱えてきた「違和感」はやがて耐えがたい異物となって膨満し、いつ爆発してもおかしくない状態だった。
ダイエットの名を借りた拒食がその地獄の導火線となった。ある日、拒食は突然に終わる。それは高校1年の6月だった。
下剤100錠を一気に飲み干して
「学年の研修旅行のために旅行カバンを持って、いつものように家を出ると、乗り換えの駅で突然、電池が切れたように“疲れた。もう学校に行きたくない”と思いました。駅の公衆電話で親に帰ると告げ、狛江駅で降りると、ふらっとコンビニに寄りました」
目に入ったドーナツが無性に食べたくなり、歩きながらむさぼるように食べた。自ら一切禁じていた油分と糖分を命のギリギリのところで、身体が猛烈に欲したのだ。
「それは過食と下剤乱用のスタートでもありました。食べたい、でも絶対に太りたくない。100錠入りの下剤を一気に飲み干し、つねにお腹を下している状態でなければ不安だったんです」
朝、学校に行く前に菓子パンを5~6個買い、駅のトイレで食べる。スナック菓子を大量に買っては、自分の部屋で隠れて食べた。
「親の前では食べる姿を見せませんでした。食欲があるというのは、自分にとっては性欲を見せるような、人に見られてはいけない恥ずかしい醜いものと思っていました」
そんな隠れて食べる自分を「汚い人間」だと卑下し、過食の罪悪感と比例するように下剤の量も増し、精神はどんどん追い込まれていく。
学校でも周囲と人間関係を結べず、不登校から中退へと転がり落ちてしまう。そんなときでも、彼女は親のことを考えていた。
「中退したことで親を深く悲しませてしまった。なんとか、親が描く幸せな人生に復帰しなくてはと思いました」
親にはいつも「好きな道に進みなさい」と言われてきた。けれど、その一方で成績が上がれば喜び、いい学校に入れば安心する、そんな表情も見逃さなかった。
成績、学歴、運動能力、容姿……。つねに競争を強いられる中で親の期待に応え、将来の道も探さなければならない。その無言の圧力。
「さぁ進め、さぁ進めと押されるけれど、私は断崖絶壁に立っているようでした」
(次号へ続く)
〈取材・文/相川由美〉