朱野帰子さん 撮影/北村史成

 主人公は、たとえ同僚や上司が修羅場に直面していたとしても、18時の定時帰宅を貫くIT企業勤務の結衣。かつての婚約者が同じ会社に転職してきたり、上司がむちゃな要求を平然としてくる人間に代わったりと、結衣の定時退社が危機にさらされる状況に陥ってしまうのだが──。

働きたくない主人公がいてもいいのでは

 朱野帰子さんの新作『わたし、定時で帰ります。』は、絶対に残業しない会社員を主人公に据えた、新しいタイプのお仕事小説だ。

「3年ほど前に、担当編集者さんから“会社の困った人のお話を書きませんか?”とご提案をいただいたんです。これまで潜水調査船のパイロットなど特定の職業に関する小説は書いてきたのですが、実は普通の会社員の話を書いたことはないんです。

 職業の紹介をすることもなく、特定の職業の特殊な状況もない中でなにを書けばいいのだろう、とはじめは戸惑いました」

 朱野さんは、担当編集者との会話を通して物語のテーマをつかんでいったという。

「私は以前、会社員だったのですが、担当さんはゆとり世代の売り手市場、私は就職氷河期世代の買い手市場で入社しているんです。私は“頑張らないと会社にいさせてもらえないといった恐怖心が原動力となって働いていたところがありました。

 でも、そういう働き方は、下の世代からはちょっと異常に見えるということがわかったんです。それに気づいたことで、普通の会社の働き方に関する物語にしようと思いいたりました」

 朱野さんは当初、かつての自分のような頑張る主人公を想定していたのだという。

「自分がきまじめな性質なもので、主人公もまじめなキャラクターでなければならないという思い込みにとらわれていたんです。でも、別の担当さんに“主人公はあまり働きたくないタイプでもいいんじゃないですか”とアドバイスをいただいたことで、新たな視点が開けました

 物語を立ち上げるまでには、名作に登場するキャラクターの影響も受けたという。

「振り返ってみると、『男はつらいよ』シリーズの寅さんとか、『釣りバカ日誌』のハマちゃんとか、あまり働かないのにみんなに愛されている社会人がいますよね。

 私自身、心のどこかでそういう生き方を求めていたこともあるのでしょう。女版『釣りバカ日誌』のような作品にしたいと考えるようになり、結衣というキャラクターが生まれました

いつの時代も働き方に正解はない

 結衣が所属する部署は、ブラックな上司にふられた無謀な案件に苦しめられることになる。一方、物語の中には、随所に第二次世界大戦中に杜撰な計画で多くの犠牲者を出したインパール作戦の記述がある。

笑顔で語る朱野さん 撮影/北村史成

猛烈に働く人が企業戦士と呼ばれたりもしますし、家に帰りたくても帰れない状況という意味では会社員と出征兵士は似ていると思いました。インパール作戦は、食料や武器の輸送力を必要の10分の1しか確保できていない中、精神論だけで突き進んでいくんです。

 結衣たちがふられた案件も見積もりの時点で失敗が確定しているようなものなのに、負けを承知で仕事をこなさなければなりません。引き返すことができない恐ろしさという意味でも、インパール作戦と共通するものがあると思いました

 結衣とは真逆の働き方をしているのが、同僚となった元婚約者の晃太郎と結衣の父親だ。ふたりとも、会社に人生を捧げているような働き方をしている。

「必ずしも、定時に帰る結衣が絶対的に正しいわけではないと思うんです。実際問題として、晃太郎や結衣の父親のように、修羅場を頑張って乗り切ってくれる人がいないと会社は回りませんから」

 朱野さん自身、父親の働き方に少なからず影響を受けているという。

「父親の働く姿というのは、息子はもちろん娘にも影響を与えているような気がします。私の父は猛烈社員で明け方に帰宅するような生活を送っていたのですが、会社員時代の私も似たような働き方をしていた時期がありました。

 もし、夕方6時に帰宅するような父親だったら、ここまで働きすぎの人間にはならなかったような気がします」

『わたし、定時で帰ります』朱野帰子=著(新潮社/税込み1512円)※記事の中の写真をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします

 会社を辞めて専業作家となってからの朱野さんは、朝も昼も夜も小説を書き続ける生活を送っていたそうだ。だが、本書のプロットを考えはじめたころから働き方が変わりはじめたという。

「2016年1月に出産をしてから、自分の思いどおりに仕事をすることが難しくなってしまったんです。ですから、今は午前中の3時間だけ集中して小説を書き、その後は事務仕事をしたり、気分転換をしたりと別のことに時間を使うようになりました

 特に女性は働き方を変えざるをえない節目があると思うのですが、私の場合は出産が大きな転機となりました」

 朱野さんは、普段、読書から離れている人にも楽しく読んでもらえることを目指して、この小説を執筆したという。

「現実の世界だけを見ているのではなく、たまには頭を外に逃がす休息時間を作ることも大切だと思うんです。そんなときにこの小説を読んで気分転換をしてもらえたら、とてもうれしいです」   

ライターは見た!著者の素顔

 深海と宇宙をこよなく愛し、「深海やロケットの打ち上げ映像を見ることがいい気分転換になります」と話す朱野さん。会話を進めるうちに、意外な気分転換方法を実践していることが判明。

「仕事関係でなんとなくは知っているけれど、ちゃんとお話をしたことはないような人とTwitterとかでつながって、自分から飲みに誘ったりするんです。そうやってほぼ初対面の人と話すと、気分がすごく変わるんです」


〈PROFILE〉
あけの・かえるこ ◎東京都生まれ。2009年『マタタビ潔子の猫魂』で第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞。2013年『駅物語』がヒット。2015年『海に降る』が連続ドラマ化される。生き生きとした人物造形と緻密でありながらダイナミックなストーリー展開で注目を集める気鋭の作家。

《取材・文/熊谷あづさ》