「将来が見えないまま20歳になるのが怖くて、19歳の夏に本で読んだ薬とお酒を飲んで自殺を試みました」
死んだほうが親孝行だ
14歳で拒食症になり、過食と下剤乱用に転じてもなお、“摂食障害”という悪魔は、その手を緩めることなく、彼女の心と身体を傷め続けた。
私市奈央さん(39)は、当時の心境を静かに振り返る。
「死のう、と思ったとき、私はやっぱり親のことを考えていたんです。私が死んだら親は悲しむだろう。でも、私がこれ以上、親の期待するような人間になれないまま生き続けることのほうが、ずっと親をガッカリさせ、悲しませるのではないか。そんな人間は、死んだほうが親孝行だ、と」
それから数日間、意識が混沌としたまま寝込んでいたが、「母親は気づいていなかっただろう」と奈央さんは言う。それほどまでに、自分の部屋に引きこもっていることが多かったからだ。
青山高校を中退してからも、彼女は「親が望む人生に戻らなければ」と必死だった。大学受験資格を得られる“大検”の勉強にいそしみ、合格したときは両親を喜ばせた。
「けれど、私は再び空っぽになりました。高校受験のときもそうでしたが、親のため世間体のためだけの勉強は、ゴールに到達したら、何もない。虚しさしか残らないんです」
行きたい大学もなく、アルバイト生活に入った。しかし、高校中退のままフリーターになっている自分への猛烈なコンプレックスに苛まれ、より一層、周囲との人間関係がとれなくなっていく。
「地元で小中学校の友達に会って、いま何をやってるのかと聞かれるのが怖かった。バイト先でも、大学に入るためにお金を貯めているとか、夜間の予備校に行っていると嘘をついて。架空の夢やプロフィールを演じるのに疲れると、バイトを辞めていました」
それでもアルバイトで200万円を貯め、そのお金でデザインの専門学校に行くが、1年半で挫折。さらに、動物の専門学校に通うなど、「夢」を求めてあがき続けた。
「なぜ私だけがこんなに青くさい悩みを持っているんだろう、と思いました。同じ年代の誰もが、疑問を持たずに高校・大学に行き、友達や恋人をつくり、社会の流れに乗っているように見えました」
「吐けばなかったことに」
強烈なドロップアウト感が、「おまえは生きる価値がない人間だ」と、親だけでなく世間からも蔑まれているように感じた。そして自殺未遂の末、彼女は、さらに越えてはならない「一線」を越える──。
「どれだけ過食しても吐けばなかったことになる。私は、夢のような手段を手に入れたと思いました」
24歳のとき、初めて「一線を越えた日」のことを、奈央さんは鮮明に覚えていた。
「それまでは過食をするといってもクッキーやスナック、菓子パンなど、おやつ系のものばかりでした。ある夜、突然、それまで抑えていた “こってりしたものが食べたい!”という強い衝動に駆られてコンビニに走りました」
ドリアやミートソース、カップラーメン、ドーナツなど夢中で食べた。しかし、そのあとに猛然と湧き上がってくる後悔と焦り。そして……。
「水をたくさん飲んで、最初は恐る恐るのどの奥に指を入れました。すると、まったく苦しむこともなく、さっき食べたはずの高カロリーの食べ物が一気に吐き出されたとき、私は快感さえ感じていました。
吐くことを覚えた私は、さらに食欲を抑えられなくなり、過食の量と頻度は加速度的に増えていきました」
それまで、アルバイトに行けるほどには体力も気力もあった奈央さんだが、過食嘔吐するようになってからは、崩れ落ちるように、日常生活が送れなくなっていった。
「昼夜逆転で、起きてから買い物、過食、嘔吐、ネットを見て寝る、というのが私の1日のサイクルでした」
過食する食料を大量に手に入れるためにスーパーの安売りを狙い、そこから異常なほどの買い物依存が始まる。
「スーパーの安売りの時間が近づくと、今日はちゃんと買い占めることができるだろうか、という不安と喜びで、いても立ってもいられなくなりました。
自分の部屋は、足の踏み場もないほど食べ物であふれ、そのにおいが充満し、過食をするベッドと、ネットをするパソコン周辺だけに座れるスペースがありました」
やがて家族が使う冷蔵庫や貯蔵庫も食べ物でいっぱいになるが、どれだけ買ってもストックがなくなる恐怖に怯え、期限切れでカビの生えたパンも平気で食べるようになった。
「美味しいと感じるのは最初の30分くらい。それからは甘い菓子パン、ポテトチップス、アイス、カップ麺など、ただ甘いとしょっぱいを繰り返し食べて、胃がはちきれそうになったら吐く。
そして胃が空っぽになったらまた食べる。その繰り返しで、毎日12時間は食べ吐きを続けるうちに、やがて疲れ果てて眠る。そうして1日が終わるんです」
その常軌を逸した無限のループを止めたくて、「明日はもうやめよう」と心に誓う。
「けれど、次の日になるとまた買い物をしたい衝動を止めることができませんでした」
言動がどんどんエスカレート
25歳のとき、自分の部屋で2度目の自殺を図るが、紐が切れてドスンと身体が下に落ち、未遂に終わった。
「死ぬことさえもできない、自分の存在は、この世でいちばん汚らしいと思いました」
両親は彼女がしていることをすべて知っていた、と言う。
「けれど、怒ることもやめさせることもせずに、ただ娘を哀れに思い、絶望し、恥じ、何をどうしていいか、わからなかったのだと思います」
親に放置されたと感じることで、奈央さんはさらに自分を追い詰めていった。
頭の中は、食べることに支配されて行動はますますエスカレートしていく。
「私は社会的に許されないようなことも、なりふりかまわずという姿勢になっていました。そして、ついにある日、私のしたことに、“こんなになるまで放っておいてごめんね”と母が悲しそうな声で言いました。父さえも怒り、そして泣きました」
通院は逆効果だった
そこで初めて、母親が彼女を病院へ連れて行く。摂食障害の治療に関しては評判が高いと言われる心療内科と、そのクリニックと提携しているカウンセリングだった。
「私にとってそれは、むしろ逆効果でした。1時間近く待って5分程度の診察。何回食べ吐きをしたか、体重、精神状態を聞くだけ。医者は“生活に支障がないくらいに体重を戻して、食べ吐きをできるだけしないようにしましょう”というスタンスでした。
カウンセラーのことは大嫌いでした。私に同情し、見下されているように感じました」
その怒りから、ますます過食への衝動が強くなった。当時、体重は29キロ~30キロ。
「その体力では夏を越せないだろう、という医者のすすめで、目黒にある総合病院に入院することになったんです。摂食障害の治療ではなく、生活パターンの改善と体力温存が目的でした」
1日1200キロカロリーの食事をして体重を増やす、規則正しい生活をして昼夜逆転を直す、というものだった。しかし、ここでも過食嘔吐の衝動は止まらなかった。
「私の行動はひどかったです。看護師の目を盗んで、ほかの患者の残飯をビニール袋に入れ、自分の棚に隠し持ちました」
それを食事の時間に一緒に食べ、それでも足りずに、病院の売店や勝手に外出してスーパーでも食べ物を買い、公園のトイレや、点滴をしたまま病院のトイレで吐いた。
1か月ほどで無理やり退院し、自宅に帰るとまた元の生活に戻った。彼女の精神は、もはや極限状態だった。
「楽しいもうれしいも、悲しいも苦しいも、何もいらない。たったひとり、誰とも関わらずに忘れ去られたい。眠りにつくとき、このまま意識が戻らなかったら、どんなに幸せだろうと思いました。眠りから覚めると、自分の人生が八方塞がりで、どこにも行き場がないことに絶望しました」
過食嘔吐しているときだけが現実から目を背けられた。そして、奈央さんは生きることのすべての望みを完全に捨て去った。
「私は一生、治らない。それが私の答えでした」
「やせてキレイになれば、人生が変わるかもしれない」
そう願った14歳のときから、実に15年もの歳月が過ぎていた。健康な女性だったら、かけがえのない青春を謳歌できたはずの、すべての時間を、奈央さんは摂食障害の苦しみの中で生きてきた。
その29歳の初夏。
彼女の人生が本当の意味で劇的に変わろうとしていた。
『なのはなファミリー』との出会い
「両親が『なのはなファミリー』というところに見学に行く、と言いました。それまでの機嫌をとるような言い方ではないことに少し驚きました。両親はいろいろ調べた末に、“もし治る道があるとしたら、もうここしかない”という覚悟があったのだと思います」
その気配に押されて、ふて腐れながらも従った。東京駅から新幹線に乗り、新大阪から高速バスに乗って、たどりついたのは、森林の中に立つ、丸太で造られた“山小屋”だった。
摂食障害からの回復施設『なのはなファミリー』は当時、岡山県美作市にある、この山小屋を拠点にしていた。
「最初に入居者みんなの歌と演奏を聴かせてもらい、自分と年齢の近い30代の入居者3人とОМTをしました」
OМTとは、オープン・マインド・トレーニングの略で、自分の心と向き合うために、お互いの体験や気持ちを話して共有しあう方法だ。
「でも、私は入居する気がまったくなかったので、すべてが右から左に流れ、みんなの笑顔も直視できませんでした。どこの病院も施設も、一切期待していなかったし、自分も人も信じていませんでした」
ここに来るのは最初で最後。私には帰る場所がある。そんな観光客のような気持ちで山小屋を眺めたと言う。
だが、回復するためのその場所で、奈央さんは死の一歩手前まで、骨と皮だけにやせ細ってしまう──。
(次回へ続く)
〈取材・文/相川由美〉