「私は死んでも“摂食障害”という印籠を手放すものか、と我を張りました。病気であることは、私にとって社会に出なくても許される免罪符でした」
14歳の思春期のころから実に15年もの間、摂食障害に人生を蝕まれてきたのに、「治らなくていい」という私市奈央さん(39)の言葉は、あまりに意外だった。そして、彼女は本当に死の際まで行ってしまう。
【前回までの奈央さんの壮絶なストーリーはこちら】
第1回:摂食障害で25キロに「客観的に見たらミイラだった」少女が語る狂った毎日
第2回:摂食障害だった女性の絶望的な日々「カビの生えたパンも平気で食べるようになって」
絶対に帰るつもりだった
今からちょうど10年前の5月。私市奈央さん(39)は、岡山県美作市にある摂食障害からの回復施設・なのはなファミリーに入居することとなる。両親と見学に訪れてから、1週間後のことだった。
「私は絶対入らない、の一点張り。けれど、両親は“あそこしかない”とはっきり言い、私がどんなに泣いても怒っても“行きなさい!”と、その態度を変えませんでした」
しぶしぶ同意するが、そこには思惑があった。
「自分の苦しさを盾にすれば、両親は聞き入れてくれるだろう。お試しで1週間行ったら、帰りたいと訴えればいい」
しかし、その願いが叶えられることはなかった。
当時の入居者は、30人ほど。二段ベッドが並んだ共同の部屋で、みんなと一緒に寝起きし、同じテーブルを囲んで3食しっかり食べる。極度の拒食で食べることが不安な子は少なくするなど、それぞれに合わせて量は調整されるが、残さずに食べるのがルールだ。
初めての夕食を奈央さんはこまやかに覚えていた。
「その日はカレーでした。山小屋(当時暮らした建物)のリビングに長机がずらっと並べられ、縦3列に座っていただきました。
それまでカレーなんて食べなかったし、食べたらすぐに吐きたいと思うはずなのに、あまりに違う環境に来た緊張と、みんなが食べている勢いに飲まれて、私も全部食べることができました。吐きたいとも思わなかった」
以来、不思議なことに奈央さんは1度も吐いていない。しかし、普通の食事をするようになると、すぐに脚がパンパンにむくみだし、“太る”という激しい恐怖に襲われる。
「長年、摂食障害でいると、自分の身体を触れば、少し太っただけでもわかるんです」
起きたら、心臓が止まっているかも
そこで「食事の量を減らしてほしい」「帰りたい」と何度も訴え、ついにはハンガーストライキという手段に出る。
「食事を拒み過度に活動するとどんどんやせていき、ついに25キロを切り、骨と皮だけの状態になりました」
ただ寝ているだけ、立っているだけで心臓がドクドクと脈打つのがわかった。
「呼吸をすると肺のあたりが痛み1日中、耳鳴りがして音がよく聞こえませんでした」
筋力が落ち、ベッドから起き上がることさえも容易にできなくなった。
「“朝、起きたら、奈央の心臓が止まって死んでいるかもしれない。本気でそう思っていたよ”。お父さんが当時のことを振り返って、こう話してくれたことがありました」
奈央さんが「お父さん」と呼ぶ人、それは実の父親ではなく、なのはなファミリーの創設者である、小野瀬健人さんのことだ。そして、「お母さん」と呼ぶ、有元ゆかりさんは、公私ともに小野瀬氏のよきパートナーだ。
著書に『脳とココロ』(かんき出版)、『「食べない心」と「吐く心」』(主婦と生活社)などがある小野瀬さんは、かつてジャーナリストとして執筆活動をする中で、“摂食障害”という大きなテーマに直面した。それが2004年に、なのはなファミリーを開設するきっかけにもなった。
回復のカギは「親離れ」
「何人もの摂食障害の人を取材するうちに、わかってきたことは、ほとんどの人が親への依存があるんですよ。別の言い方をすれば、親離れ子離れの失敗です。しかも、優しくて感受性の鋭い子がなりやすいともいえる。
現代の競争社会で、いい学校に入って、いい会社に勤めて、お金を稼げたら勝ち、みたいな世の中で、親の期待に応えようとまじめに考える子ほど、生きるのがツラくなって摂食障害を患ってしまう。それが“時代の病気”といえる所以です」
そう話してくれた小野瀬さんによると実際、摂食障害になる人は現在、40歳から上の世代には少なく、そのあとの世代から急激に増えている。しかも、その根幹となる要因は、4~5歳ごろに親から受けた心の傷にあるという。
まさに幼いころから母親を気遣い、不安に心を痛め、「親を悲しませないように」と親の期待を自分の人生とすり替えてきた奈央さんの生い立ちと、すべてが重なる。
「だから、いちばん大事なことは、依存の大本である、親離れを実現すること。親元から通いながらでは摂食障害は治らないんです」(小野瀬さん)
驚くことに、親と離れただけで施設に来たその日に、ほとんどの人が普通にご飯が食べられるようになるという。
そこから、本当の意味での治療といえる心の回復、親の価値観から離れた自我の形成が始まる。しかし、奈央さんは何度も無断で施設を抜け出し、隠し持っていた携帯電話で山の中から母親に電話をかけた。彼女の心は、頑なに治ることを拒み続けた。
「症状を手放してしまったら、私は生きていく場所がない、と思いました。普通に考えたら反対なのでしょうが、私にはきちんと自立して生きる能力がない、何の価値もないダメ人間だと思っていました。
治って、自分の価値のなさをわざわざ証明したところで、親を失望させるだけ。それなら、どんなに苦しくても、どんなに醜くても、過食嘔吐を続けて、働けなくてもしかたがない、と思ってもらうしかありませんでした」
実の父親から「死んでもかまいません」
入って1か月がたったころ。ハンガーストライキを続け、とうとう命が危ぶまれるほどになったとき、小野瀬さんが彼女の両親に「どうしても帰りたいと言っている」と電話で伝えることとなる。
「これでさすがの両親も帰ってこい、と言うだろうと思いました」と、奈央さんは言う。
「ところが、父ははっきりと言ったそうです。“死んでもかまいませんから置いてやってください”。なのはなのお父さんが“本当に死んでもいいんですね?”と念を押しました。私がこのまま治らずに帰ったら家族全員が共倒れで地獄に行く、父にはそれがわかっていたのだと思います」
そのときのことを、小野瀬さんもよく覚えていた。
「奈央の父親に“治らないまま死んでも文句は言いません”と言われて、とことんまでいこうと思った。内心は不安でしたよ。でも、それを絶対に見せちゃいけない。奈央と僕の真剣勝負ですから」
施設で死者を出せば、刑事責任に問われるかもしれない。その高いリスクを背負ってまで、自分が摂食障害から治ることを信じてくれている。「お父さん」と「お母さん」の揺るぎない覚悟に、奈央さんの心は大きく揺れた。
「それでも私は家に帰らせてほしいと訴え続けたんです」
そして、その半年後の12月25日のクリスマス。両親が施設に来ることになる。
「帰らせて、と泣いてすがる私に、父は断固として“絶対に帰らせない”と言い、母はとても悲しそうにしていました。こんなことは初めてでした。私は本当に親に捨てられたんだ、どこにも帰る場所はないんだ、と理解しました」
実はそのとき、小野瀬さんは彼女の父親に「トドメを刺してほしい」と伝えたのだという。
こうして断末魔のごとく苦しみ、もがき、奈央さんは30歳を目前にして、その人生にしぶとく絡みついていた親子の依存を手放す道へ歩み出した。それは「摂食障害からの回復」という一本道だった。
ゼロから育て直してもらった
現在、明るい表情で目の前にいる奈央さんが、手で丸くコップの形を作りながら、説明してくれる。
「このコップの中に“考え方”とか“価値観”という水が入っているとして、それを捨てないと自分は苦しくなってしまう。私は『なのはな』に来て、そのコップの水を全部捨てて空っぽの状態にしたんです。
そして、ここで暮らしながら、自分が本当に喜びと希望を持って生きていくために、自分なりの正しい生き方や考え方を、このコップの中に新しく入れてきました」
それを奈央さんは、「なのはなで、ゼロから自分を育て直してもらった」と言う。
「だからある意味、年齢にそぐわない世間知らずなところがあって、いいのか悪いのか自分でも年齢をほとんど忘れているんです(笑)」
奈央さんと話していて、ピュアな子どものようなまっすぐさを感じていたが、「育て直し」と聞いて納得した。
「なのはなのお父さんとお母さんから、“奈央はすごく人を信じる力がある”と言ってもらったことがあるんです。あまり人の言葉の裏を考えたり、疑ったりしないって。
例えば、お父さんとお母さんが“奈央のことが好き”と言ってくれたら、“本当に私のことを好きだと思ってくれているんだなぁ”と、そのままシンプルに受け取れる。確かに、自分にはそういうところがあるな、と思いました」
あんなにも親の価値観にがんじがらめになっていた人生なのに、なぜ奈央さんはそこまで「お父さん」と「お母さん」を信じることができたのだろうか。
「自分が何に苦しんでいたのか。なんでこんなに食べ吐きをしてしまうのか。その気持ちをわかってもらえたことが大きいです。ずっと生きることが苦しくて、それは自分のわがままなんだ、もっと強くならなきゃダメだ、と思ってきたけど、生きづらいと感じることは決して間違ってはいなかったと教えてくれました。
それまで私の親は、心配はするけれど、私を肯定してはくれなかった。でも、お父さんとお母さんは症状があることを“そうなって当然なんだよ”と認めてくれて、自分の苦しさも悲しさも全部、受け入れてくれたんです。
お父さんとお母さんの前だったら、素直に泣くことも怒ることもできる。安心して感じることを伝えられたんです」
奈央さんの心は絶対的な信頼と安心感にくるまれて、もう1度、産声をあげたのだ。
(次回へつづく)
〈取材・文/相川由美〉